東野稲の構えるこの施設には凡そ二十人あまりの喰種、人間が繋養されており、それら全ては稲の好奇心、興味、想像の杯を満たす為だけに生かされている。ビビの繋養されていた施設が数百もの個体を抱えていた事を思えば何も成し得ない程の少数に思えるが、パンクすれば次を仕入れ、予後不良となれば早々に見切りを付けている現在、そこまで不自由であるとはいえなかった。 第一に、稲は繁殖を目的としていないのである。 ビビがウタに繋がる糸を辿ったあの日、西の園に咲いていた花が稲穂の父を沈黙させたあの日、その仔細について稲にはわからない。本当であれば、被害者意識で船を漕ぐまま“父の意志を継いでみせる”とでも言ってみたらよかったのだろう。さぞ絵になっただろう。 しかし、父は掟に従い研究の中心は娘にも他言せず、ただ“Danzig”の血の貴さとその血を継いだ子供らの美しさだけを自慢げに語っていた。その口調は稲が父と同じ道を歩むと決めた暖炉の傍でさえ変わらなかった。 東野稲にノウハウは遺されなかった。それに伴い、“Danzig”の子らに向く絵画の憧憬はあれど、血の行き着く末を思い通りにしてやりたいという欲もなかった。稲はただ、想像の中にだけ佇む“Danzig”の遺灰に会いたかった。父の畦道を辿った理由といえば、それだけだった。 故に、稲が“宝石箱”と称するこの施設に、繁殖用の喰種はいない。そうであるなら、“Danzig”の血は何処へも繋がらない。いずれ永遠の眠りに蒼が睫毛を伏せる夜、頬を寄せ合う様にして失われてゆく。その日を稲は、稲とウタは粛々と待ち続けている。 幾つもの死を見送ったであろう廊下は白い。扉の開閉で逃げ出たのか膿の匂いが微かに感じられるものの、それでも照明の煩い白は神経質なまでの清潔ぶりを演じている。たとえ此処に海月が漂っていても一切が透けて視認できない様に、何かを薄い和紙で包み隠した胡乱さだ。醜い人間でさえ真白い服を纏う。一見しては楚々として美しいが、きっとその中身までそうではない。 廊下の左右に飾られた幾つかの扉にはそれぞれ四角い小窓がへばり付いていて、時折中の住人が双眼を覗かせては左右上下と視線を三往復し、誰が居ても誰も居なくても背を向け戻ってゆく。わりかし正気を保っている──手放せずにいる──者は恐怖から日中夜喚き散らし、繋がれたベッドでのた打ち回っているのが常なので、こうして小窓を使用する者達は既に中身のない、それでいて歩けるだけの身体をまだ確保できているただの外身といえた。 羽赫の喰種に鱗赫の赫包を植え付けてみたり、異なる個体同士の赫包を繋ぎ合わせてみたり、稲はこれまで様々な実験を試みてはいたが、それらは生体反応の観察日記をつける為だった故に、成功するかしないかは然したる問題ではない。弄った後でさえ健康体であったならそれは正しく“成功”といえるだろうが、その様な個体が出現したなら更に弄りまわした上じっくり観察してしまうから、結局ゴールは訪れないのだ。重要なのは八月のあさがお観察日記と変わりない記録達がビビに応用できるか否かである。 そうした、言ってしまえば監獄に等しい扉の小窓を今し方覗いて去った収容者を追う様に、一つの靴音が燥ぐ。 小さな足だ。暗い紫色をしたモカシンを履いていて、本来は成熟さを滲ませる色をお転婆なスエードの起毛で希釈している。勢い余った爪先がこつん、と扉を小突き、持ち上げる踵のまま小窓の向こうの憐れな命を鑑賞する。素直な毛先は灰被っておらず、爪先立ちをしても一切よろめいていない。この少女はビビではない。アラームの警告もない為に、逃げ出した収容者でもない。 だとしたならば、この足元は誰であろう。ウタやビビ、そしてイトリ程度しか訪ねてこないはずの箱の中に、道化然とした少女の足が踵を打ってよいものか?それともこの施設は、稲の物に限りなく似せて作った贋作であろうか。 「まさか思わないっスよねえロマが嗅ぎつけてしまうなんてえ〜ひぇははあ」 いや、それは紛れもなくウタとビビが訪れていた施設、稲の“宝石箱”だった。帆糸ロマが晴れて侵入者となれたわけについては、幾つかの偶然と、決定打となった毛玉の落し物について語らなければいけない。 「ダ〜メだ話になんね」 風もなく麗らかな陽気に包まれるHySyの前で、憤りを追い払えないロマは糸に吊られたハの字眉毛を隠しもせず通話を切った。淫靡な指先を持つ仲間と寝室を暴いた日からは既に二日経つ。 昨日も顔を合わせた“ビビの取引相手”は、さすがに今日は来ないらしい。陽はまだ昼を過ぎた程度の高さである為に、“今日”を断言してしまうにはまだ早いが、それでもロマはこの時、二階の鉄格子を見上げながら何とはなしに感じていた。夏の日差しの下にてひまわりでぶん殴られる様な、鼓膜が震えた瞬間に晴れを錯覚しそうになる声も今日は訪れないのだと。 その確信はロマに拍子抜けにも似た感情を抱かせ、手持無沙汰を際立たせた。自分独りではどうも間が持たないのだ。 HySyの前は閑散としていて風も吹かず、石畳の細かな亀裂はすっかり乾いている。よくみれば蟻がちくちくと歩き回っているが、如雨露を双手にした小さな顔無しがふいに扉を開ける事もない今、足元から広がる石畳は酷く空漠として思え、あまりに細かいそれらの黒色に明確な興味が抱けない。 「どうしたもんかな」 自分の声がこうまで鼓膜に染みたのは、この空間があまりに寡黙であった為だろう。 続いた溜息でさえ耳元が生温かくなる様で、ロマはドラム缶に寄りかかる。陽射しの恩恵で幾らか温かい。足元の蟻はロマの靴に沿って通り過ぎてゆく。人型としての、喰種としての輪郭を再確認させる様に通り過ぎてゆく。「ハイハイ邪魔だってね」誰もおらず、誰の声も聴こえない石畳の上でさえ何かの邪魔になる事について、今更抱く疑問もない。 「カマもだめ、毛玉も連絡なし、宗ちゃんは飼育係、イトリ姉さんはどーせロマにだけ休業。……ンン〜」 退屈だった。 「“おじょうさん、おじょうさん、ちっちゃなおてて、おじょうさん、かわいいこども、”」 退屈は意識すればするほどどうしようもないモノに思えたが、ロマにとってはそれこそ今更だった。 「“天秤の皿の、その片方に、あの子は死と寄り添って載せられている”」 何という事もない鼻歌も、いつかの自分に突き刺さったはずの一節も、果てしなく思える石畳を塗りつぶしてはくれない。せめて雨でも降っていてくれたらよかった。傘でも差したい気分だった。あの鉄格子の向こうで灰被った誰かが泣きしきっている雨音を聴きながら、柄をくるりくるりと回したかった。傘さえあったなら、立ち竦む自らの決定的な何かがきっと違っていた。傘さえあったなら、傘さえあったなら。 ロマは我が物顔の蟻よりも暇を持て余し、日頃はたいして意識しない呼吸を暇潰しに使う。傘を包みたかった指先でドラム缶の縁を摘み、けれど何ひとつ面白くない心持ちのまま遠くの方を眺めてみる。 石畳が広がっていた。思っていたよりずっと手前で途切れていたが、それでも果てしなく思えた。左の指先でドラム缶の縁を構ったままロマは一つ二つと瞬く。 「ん?」 すると、何か煌めく小さな物体に睫毛を呼ばれた。確かに煌めいている。女の美しい爪を剥いで落としてみた様に、石畳の上につやつやの何かが煌めいている。 こうした瞬間の感情を何と表したらよいだろう。なんだあれ、としたほんの微かな興味と、大股で近寄る内に湧き上がってくる息苦しい期待。 「これは………これは!どんぐり!!!」 空漠とした石畳も踵を歩かせてみればあっけないもので、しゃがみ込んだままどんぐりの落し物を掲げるロマの口角は既に滲んでいた。 よくよく見渡してみれば幾つかのどんぐりが点々と転がっている。ただ落ちている訳ではないのだ。日付を跨いでいる分それらの地点はまちまちに見えるが、しかし確かに駐車場の方へ続いている。きっと、巾着か何かにしこたまどんぐりを詰め込んだはいいものの、底に穴でも空いていたのだろう。この調子なら車なりバイクなりから降りた時にも落し物をしているはずで、そこさえ特定できれば毛玉に会える。 ロマは可笑しくてたまらなかった。すぐに愉快なオトモダチへ連絡し、どんぐりが集中的に落ちている地点を探し出す様に頼み込んだ。ロマは楽しくてたまらなかった。そうしてロマは、ヘンゼルとグレーテルの童話の様にビビの元まで辿り着いたのだった。 なめらかに開けた扉の先は照明が青く、かえって目が痛い。どうやら小窓の住人たちを押し込めておく部屋ではないらしい。そうだと思って扉を開けたものの、それでもロマの身の内には吐き気にも似た高揚感が滲み出て、いっそ心臓を段々壊にされる痛みに変質する。 全体的に薄暗くて細部まで視認するのは難しいが、眼前の“それ”はあまりに主張的だった為、ロマはすぐに意識を向ける事が出来た。 巨大で丸い水槽だ。透明な椎の実に似た硝子が幾つかの管に繋がってそこにある。得体の知れない液体が満ちている様子で、まるで海月の真似事でも楽しんでいる様に一人の女体が浮かんでいる。 顔は見えない。ロマから見て右に体を向けている上、胎児の様に丸まって髪が顔立ちを隠してしまっている。ただ、眼前の人型は灰色の髪色を持つ様だった。照明の青に幾分も侵食されてしまっているが、緩く半円を繰り返す癖毛がビビだと確信させてならない。 ロマがビビの容姿で知っている事といえば、あのくすんだ髪色と毛先の緩やかさだけだ。いつ会う時でも面を隠していたから、顔立ちについては一切が分からない。異国の血筋、らしい。鼻は小さくてつんとしている、らしい。上唇もつんとしている、らしい。睫毛まで灰被っている、らしい。 ロマがどんぐりを拾い集めてでも毛玉を追ってきたのは、宗太との企みがある一方で、単純にビビの素顔が見たい為でもあった。決して仲良くないわけではない。一緒にゲームもして、皆で集まった際には噛みあわない会話だって楽しんだ。 素顔だけが分からないのだ。ロマはまだビビと会えておらず、あの面と会えば会うほど本物のビビへの興味が募ってゆく。 継ぎ接いで生かされている情けない生命の、輪郭が枯れ始めたまま尚も生かされている曖昧な生命の、その顔の造りをじっくり眺めてやりたい。唇は?眉は?頬の色は?下睫毛は?表情は?哀れな生命の持つ裏表の“顔”とは? 左右に立ち並ぶ機械の低音がロマの皮膚をむず痒くさせ、眼前にありながら鼻立ちさえ分からない現状に心臓の壁の内側までもが疼いた。自身の靴音を曖昧に聴き、傍らで佇む三本脚のコンソールテーブルから一組の資料を手に取る。 右上に小さく“Edelstein”と群青のインクで走り書きされている以外、パソコンで打ち込まれた素気無い文章が連なるばかりである為、どうやら事前に用意された何かの計画表らしいが、ロマには専門的な文字の羅列など大して理解できない。ただその紙にビビの名前があったという点が重要で、それだけがロマの確信を裏付ける手助けをした。 「八日…“経過を診てビビちゃんの病室にお引っ越し”…。……八日。…八日?…今日?」 ロマは昼過ぎにどんぐりの道しるべに気が付いたものの、第二のどんぐり地点を特定するまで多くの時間を食べてしまった。今は22時を少し進んだあたりで、その事を水槽に射影されたデジタル時計のゆらめきが教えている。 八日にこの透明な椎の実から助け出されるというのなら、今自分の手で出してしまってもなんら問題はないだろう。今日が終わるまでは僅か二時間で、もしも経過がよくないとして先送りにされていたとしてもつまらない演目にはなりそうにない。とにかくロマは、椎の実の中で蹲るあの子供の顔が見たいのだ。我慢しなくて済む理由は探し慣れている。“退屈を紛らわしたい”、それだけでいい。 「おっこいしょ」 硝子の水槽など羊頭狗肉な物で、たった一本の赫子を叩き込むだけで透明を嘔吐した。足を攫われるまますっ転んだロマはそこで初めてあの液体がゼリー状であった事を知ったが、身を起こした眼前に小さな体が投げ出されているさまを見て、その輪郭以外の物事に割く思考は早足で擦れ違ってゆく。 「おじょうちゃん」 顔はやはり豊かな髪が邪魔をして見えない。赫子で掠ったらしい傷がむき出しの生身に細かく這っていたが、その者が喰種である事実を証明する様に音もなく治癒した。鮮やかな数秒だった。 「こっちを向いてごらんよ」 リノリウムの床には未だにゼリーが留まっていて、乳房から臀部にまで絡みつく髪の接着剤になっている。照明もまた変わらず青く、仰臥する体を悍ましいまでに青褪めさせてならない。 ちょうどティースプーン一杯分の水で溺れさせてみた蟻の様に、子供の手足がゆっくりゆっくりもがいて見せるものだから、ロマはそのさまを静かにみていた。ギィギィと喉を擦る音は果たして声だろうか。一種異様の光景だ。蝶番が騒いでいるのかと振り返ったが、扉は寂としてゼリーを押し留めていた。 ロマはやがて沈黙したそれへ這い寄り、冷たい肩を押して仰向けにする。身じろぐ様子はない。顔の横に掌を突くと髪の隙間をゼリーが過ぎる妙な感覚がした。お道化るのが馬鹿らしく思えてしまう青さの中で、考えるのは数秒後の時計だ。 この髪をよけて素顔を見下ろしたのなら、肺の中で蛆虫が蠢き続ける高揚は瞬く間に冷めてしまう。生え連なる睫毛の規則正しさを、どの様な輪郭かも分からない唇の甘やかさを、ひとつひとつ拾ったならまたぞろ退屈な退屈に指先を浸す事になってしまう。 ロマはもう一度、物言わぬ体の輪郭を上から下まで眺め舐める。衣服は身に着けておらず装飾も一切ない。ただ照明の青を受けててらてら妙な色沢を持つばかりで、呼吸まで止まった今、白皙のなまめかしさに硬直の気配さえ感じさせる。裂傷すらなければ痣すらない美しい体躯だ。 どうしよう、とは考えなかった。どうせどうにかなると考えていたのかもしれないし、どうにもならなくともどうでも良いと考えていたのかもしれない。とにかくロマは肺の中で哄笑が籠るむず痒さを、今に逃がす快感だけに手を伸ばしていた。それが悪い事であると知っていたからこそ、今更改心しようとは思わなかった。 僅かに覗く細い顎に指の腹を這わせ、両の頬を包んでやる様にして纏わりつく髪を押し上げる。ゼリーが酷く煩わしい。いっそ可哀想なほど頬も冷たい。知らぬ間に異常事態を報せるアラームが鳴り響いていたが、誰がくる様子もない上に、どうでもいい。どうでもいいと思わせるほど、やっと会えた子供の唇は青褪めていたのだ。イトリらの話と反して上唇は薄く、谷も曖昧で生意気そうな輪郭をしている。もしも青褪めてさえいなかったなら、何を話してくれただろう。 はたしてロマは、一思いに髪をのけ去った。支えを失いやや打ち傾く顔立ちに当然ながら見覚えはない。全く初めましての状態だが、子供の黒い睫毛は既に閉じられ、今や微かな反応も示さなかった。 「……?」 しかしロマは、冷めゆく高揚を見送るより早く何か得体の知れない違和に気が付く。 まずは自分の両手を眺めてみる。が、幾らかの髪が絡まっているだけで可笑しな点はない。青みに包まれた銀糸が一層と銀を増していて、やはりそれは少しも可笑しくはない。 まるで見落とした伏線をもう一度拾い集める様に、ロマはビビの面立ちへ目を向けた。親指と人差し指の腹でつつつ、と扱く毛先はざらついている。鼻は低い。眉間も浅い。唇は薄い。睫毛が黒い。睫毛が黒い。身を乗り出して掻き上げた生え際もまた僅かに黒い。脱色をしている。この個体は脱色をしている。 「ちげえーーーこれダミーだーーー!!!!!」 「ロマ?」 「ロマだねえ」 イトリとウタが二人して天井をふり仰ぐ傍ら、今もビビは眠りの住人として睫毛を黙していた。 「騒がしいと思ったらこれよ。カマは何やってんだか」 ビビが慎ましやかな椎の実から出されたのは夕間暮れを少し歩いた頃で、おイタの過ぎた道化が叫んだ通りあの傷一つない美しい体躯は偽物だ。偽物、というよりは別人と表した方が適切だろうか。稲もウタもビビのダミーとして飾っていたつもりはなく、あの少女もまた後の使い道の為にゼリーへ浸していただけである。 髪の特徴が似ていたのも偶然に他ならない。言ってしまえば合致する特徴はその程度の物で、彼女の体躯にはたった一つの鬱血もネックレスもなかった。もしもウタやイトリの様にビビの身体を知ってさえいれば、包装紙然とした髪を引き剥がすさなかでロマの肺に蛆が溢れる事もなかったろう。目が覚めたビビは可哀想な程にお腹がすいているだろうから、少女はその時に役立つ“体躯”、それだけだった。 イトリはいつも、客室にも等しい病室へ移ってから一週間ほど経たなければ見舞いに来てくれないが、『おー生きてっか今回も』と至極軽い調子で訪れたのはほんの数分前である。というわけはビビの自発呼吸が早々に戻ったとウタから報せを受けたからだ。 前回はそれこそ一週間過ぎまで酸素マスクの圧を呼吸代わりにしていて、イトリは“死んだ”か“呼吸が戻った”か何方かの報せが届かない限り会いに行くつもりはなかった。毛玉が居なくなれば中々日常も退屈になってしまうもので、それを考えると待ち続ける間は何とも言えない心持ちで写真ばかり眺めていた事を、今ビビの上手に上下してくれる胸元を見て思う。今回も喪服を着なくて済むという事実は、この部屋の鍵としてイトリの中にある。引かれる後ろ髪もない渡り鳥の様なイトリに、ほんの僅かでも心を砕いてもらえているなどとビビは考えてもいないだろう。 ベッドへぐだーっと半身を伏せるウタがビビのお鼻に珈琲豆を近付ける傍ら、ちょうど腰元すぐそばに腰掛けたイトリは灰被った前髪をもさりもさりと梳いてやる。 枕元は畳まれたウタの衣服に囲まれ、縫いぐるみだのどんぐりだのビビの好きなものが溢れ返っていた。いつもの光景だが、行方不明だったストールがその中に紛れているのを見て、イトリは少しだけ笑う。元気だった時に泥棒していたらしい。 花瓶の足元には一つの愛らしいバスケットが置かれ、ちょうど林檎大の丸いモノがふたつ飾られている。頭のてっぺんには茎の様な棒が生えているので、やはり一見しては果実に近しい。木の皮に似た皮膚に胎児の顔、それらのひとつはウタの片手にあり、既に齧られている。頭蓋も脳もない様子で、皮の中身は緻密で生々しい。 「珈琲豆作戦が鉄板かねえ…」 イトリは再度ビビに目を落とし、確信的にそう呟いた。ウタが先程から珈琲豆をビビのお鼻に近付けたり、唇にちょんちょんと触れさせるのは早く目を覚まして欲しいからだ。今回も知恵を働かせてクラッカーやメガホン、シンバルを持った猿のぬいぐるみを用意したが、ここに来ると珈琲豆に頼るのが何よりの得策に思えてしまう。ビビの唇がむにむにと僅かに動くさまを見てしまうと、その気持ちも尚更に。 ビビの片腕には点滴の管が繋がれている。既に傷も塞がりあとは内側の赫包が再生するのを待つだけらしい。しかしどうにもあの管だけが、あの管から送り込まれるウタの因子だけがビビを生かしている様な気がして、「一緒に寝てあげれば?」といった提案も「ムリムリ」と受け入れられない。朝起きた時に架け橋が離れでもしていたら、いよいよ看病を必要とするのはこちら側となる。だから、珈琲豆での献身的な呼び掛けが一番心穏やかでいられるのだろう。 「ねえ〜はやく起きなビビ〜気分悪くなってきた〜」 「寝る?」 「寝ねっつの」 イトリはビビの胸元にぽふっと、それでいて決して体重はかけず身を伏せた。ビビの匂いがする。いつか失われる匂いがする。睫毛を伏せてみたところで眠るつもりは一切ないが、珈琲豆の誠実な香りが灰色の眠りを退けてくれるように、イトリにしてはなかなか真面目に祈ってみるのだ、捕獲されたらしいロマの悲鳴に耳を傾けながら。 ロマの知らない階下 |