※ほんの僅かながら本誌のネタバレを含みます



友人とその恋人が毎夜を過ごす寝室とは、何故こうも背徳的な香りを湛えているのか。

黄色みの強い肌を恥じる事なく深紅のグロスで塗装した唇、それを蛞蝓でも愛でる仕草で撫でてみせたニコは、一種の恍惚を腰に覚えながら思惟した。中指の腹が性的倒錯を模る妙な艶を演じている。まるで、蛞蝓が這った軌跡のように。

いつぞやの宵で“HySyにおける性の乱れが深刻だ”と旧友イトリが嗤っていたが、斯くの如き粘着質な余韻を残した部屋とあっては、あの言葉も額面通りに受け取って差し支えないらしい。雨上がりの森林でそうする様に、或いは悲喜交々の花園でそうする様に、安らかに睫毛を閉じたニコは淫靡な残り香を肺一杯に味わう。数歩の秒針を無音で渡り、そうしてまるで打ち付けられる腰の恍惚さで吐息を逃がす。凌辱に泣く雌の匂いと、押さえ付けてでも身を開かせる雄の匂いとは、硝子の手前から眺める事しか許されない第三者の欲をも、蝋燭を揺らす内緒話の淡さで炊き付けてくるようだ。

分厚いカーテンで遮られた窓、いけないホテルと大差ない造りで備え付けられたヘッドボードのパネル、異国語の表紙で天井を見上げ続けるメルヘン童話、褪せた薔薇の花弁が悲しそうに溢れ返る鋳物の鳥籠、茎を扇状に裂かれた八本足のガーベラ、最愛の寝顔ばかりが記憶されている灰被ったスケッチブック、針子の留守に伴い時計が止まったままの刺繍、ウタのカットソーでぐるぐる巻きにされたオムライスのぬいぐるみ、ドレッサーから侵入者を黙視する背の低いコスメ達、大事に大事に飾られたつやつやの大きめどんぐり。

見渡す寝室は正午でありながら薄暗く、めちゃくちゃに泣かされた雌の悲鳴も楚々とした壁紙に染みついているようだが、随所に散らばる愛情の影法師が不健全な性の香りをいっそ健全に擬態させていて、やはり内緒話の吐息は欲の蝋燭を曖昧に揺らす。不健全だとレッテルが貼られがちの性的な戯れも、糾弾する指先を引き後ろを振り返って見れば人も喰種もそうした“不健全”を理由として生まれてきているわけで、逆説的にいうならば、滲む性とは不健全である故に至極健全なのかもしれない。自身の出生を振り返りもせず両耳を塞ぐのは、背中に“バカ”と書かれた紙を貼ったまま他人を扱き下ろすようなものだ。時として粘着質な色だからこそ身を焦がす秒針だってあるだろう。そうでなければ、なぜ油絵は人々の憧憬の先にある。

くすんだアイボリーで刺繍を誇る布製の写真立てを、ニコは節くれ立っていながら至って繊細な指先でそっと、そっと静かに伏せた。名状し難い程の愛情を孕む幼い目目が網膜に寄り添って離れない。

初めて素顔を目にしたあの日、まるでお人形さんのように愛らしい唇ねと言葉のみで愛でた。二番目に素顔を目にしたあの日、まるでお人形さんのように愛らしいおめめねと吐息のみで愛でた。ふとした瞬間を切り取った写真であろうに、服も背景も誂えたものではなかろうに、蒼の色彩がレンズの向こう、最愛のウタを見上げているだけで、石榴色の日常はロリータ・アートの糸を辿る。

如何ほどまでにウタは、灰被った幼さから愛されているのだろう。身の内にじん、と滲む温もりがあり、ニコは母性に塗れた瞬きをひとつ零す。そうして緩徐に背後の扉を振り返った時、

「あゝ〜もぉ〜どこ行ったんスかー!」

初めから僅かに開いていた装飾錠を勢いよく押した為に、スカッと空振りをしたロマが転がる様に入室してきた。「あぶねッ」つんのめる姿は小柄であるが、堅牢な檻として構える寝室に勇んで挑む度胸は持ち合わせているようだ。毎度の事ながらそそっかしい様子に、ニコは道化様の眉を呆れ半ばに持ち上げる。ロマが酷く苛立っている理由は訊ねるに値しない。

と、と、と、ぽすん。踏鞴を踏みに踏んでベッドへ倒れ込むロマは、“ウタの留守を狙って毛玉に会いに来た”、はずだった。

「あんなに聞き込み調査したのにー!ロマの無能っぷりがバレちまうー!」

ロマがウタとビビの周辺を、まるでつむじ風に弄ばれる枯葉の如く嗅ぎ回った──4区にある毛玉行きつけの花屋、同胞の紅裙による噂話を紐解いた日付、ストーカー男の記憶を夜通し叩き起こしたHySy臨時休業の図表、その図表に基づき調査した“だあれも居ないはずのHySyから聞こえる謎のくしゃみ”、毛玉を残した外出先からウタが帰ってくるまでの時計、開かずの寝室への入り方、胎児を孕む人面樹について──これらの情報から導き出した“今日”は、全くふざけた事に“今日”でなかったのだ。現に最後の砦である寝室にも毛玉の姿はなく、HySyが文字通りふたり揃ってお留守だと如実に表している。もう、疑いようのない事実として。

「頼む姐さん…何か心当たりは…」

「さあ…ゴメンなさいねロマ、アタシにはなんとも。なかなかないのよ、毛玉ちゃんとお話できる機会」

「ウッソつけぇ!知ってンですよおロマわ!どーせお二人さんリアルでも仲良く虫捕り行ってんだ!ロマなんて顔もシラネってのに!」

「ンもう…癇癪起こさないでったら…」

ご機嫌取りの為に持参したはんぺん堂3DSがただの荷物と化し、毛玉を寝室から誘い出す為に持参したどんぐりに至ってはただのゴミと化した。ロマはいやにふかふかなベッドから身を起こし、親指の爪を噛む。道化の舞台上でも比較的仲良くしている宗太から、“人面樹”の話を聞いたのはどれ程前だったか。ロマも宗太もビビの面立ちを知らない。見知り合いでありながら、決して“顔見知り”ではない。だから、今日こそはあの、いつ会っても顔無しの淑女然としたマスクで佇んでいるビビの素顔を拝見して、なんなら人面樹の胎児達も見せてもらおうと企んでいたのに。

「ほら来なさい。匂いが移ったら大変」

「ケッ、分かりゃしませんて毛玉だし」

「毛玉ちゃんのお鼻は誤魔化せてもウタくんはねえ…どうかしら。おイタがバレたら後が怖いわよ」

「心配ご無用!なんたってロマ、宗ちゃんとイトリ姉さんの香水を嫌ってほど被ってきたんスから!」

「それはそれで“皆して何しに来たの”って話になるじゃない。お馬鹿ねえ…」

立ち入り禁止区域に足を踏み込んだ割には得られる物などなく、再度ばふ、と倒れ込むロマはヘッドボードの平坦なパネルに手を伸ばす。毛玉はお留守だったにしても、あのイトリさえ足跡を残さない寝室に侵入成功したのだ。もう少し寛いでいたいのが本音である。

照明から始まり空調、加湿、音楽、この部屋の全ての操作が指一本で行えるようにされているパネルにはスイッチというスイッチがないが、どうやら英字の上を撫でればそれで反応を寄越すらしい。たとえば病床に伏すビビが過度な湿度を求めたなら、どんぐりのふわふわシールが示す下を撫でれば忽ち雨降りの寝室に代わり、たとえば白む子宮にブランケットさえ暑く感じたなら、ひよこさんが示すそれを指で触れれば忽ち寝室は秋の陽気を迎える。

単純にロマは、あの毛玉良い生活してるなあと思った。その背後で猫足チェストに寄りかかるニコは、フットワークが軽すぎるのも考え物だと思った。

「ねえロマちゃん?」

「はいは〜い?」

吐息だけ聞けば女性の色に擬態した溜息ののち、ニコは危なっかしい子供の名を呼ぶ。

「あなたが何を企んでいるかは分からないけれど、ダメよ。たとえ硝子から出されていたってね、決して触れてはいけないお人形さんはいるの。首輪がついているのなら、な お さ ら 」

「首輪ったって姐さん〜それ“ロマ”に言うんスかあ?ロマニ〜」

誰かのモノはロマのモノ!ロマのモノもロマのモノ!

立場を悪くしない為に手渡した忠告も、ベッド上でジタバタと遊び転げるロマには伝わらなかったようだ。電池を入れれば手足を遊ばせるままごと人形のように、いっそおどろおどろしいほど楽しげな声をクッションに押し付けている。どうせ手を引いてやる仲でもない。道を正してやれないまま理解を示した体で口を噤むニコは、しかし忸怩たる思いを抱くわけでもなく、ただただ仕方なさに耳打ちされた呆れにより憫察に徹した。

そうした中で、

「ビビちゃーーーん!ごめんくださーーーい!いないのーーー?どんぐり持ってきましたーーー!アブラカダブラーーーーーーー!」

面格子に隔てられた外から溌剌とした声が届く。鼓膜で受け止めた瞬間に晴天を錯覚しそうになる暖色の声だが、しかしよくよく考えてみればこの寝室が暗晦でどうしようもないというだけで、今日の天気は元々晴れだった。昨日の予報でも、一昨日の予報ですらも。

振り返ったまま固まっているロマに片眉を持ち上げて見せ、ニコは赤く彩られた指先でカーテンを僅かばかり避ける。そうして、見下ろす。

「あのーーーすみませーーーん!あのーーー!写真売ってもらう約束だったんですウタさんのーーー!ビビちゃんいらっしゃいませんかーーーーーー!」

もう一度ロマを振り返ったニコは数秒だけ見つめ合ったのち、柳過ぎる眉を一層と持ち上げた。「写真?」「写真?」ビビのサイドビジネスを知ってしまった晴れの日の正午。豈図らんや、まさかあの毛玉が恋人を売っているとは。





猥雑とした4区には傘も差せない廃ビルが佇んでいる。まるで水を失った噴水のようだ。そこに立つ意味は亡く、時間の経過と共に雨焼けを待つ秒針しか過ごす事が出来ないのに、何処へ行く足もなければ何処かへ連れて出してくれる人もいない。

この廃ビルはかつて、諸手を上げて裕福層を招くホテルだった───らしい。らしいというのは、煤けた外観からはまるで想像がつかないのだ。

人伝の話によれば数十年前のハロウィン、喰種達による客室ブッフェが行われた為に死者13名を出し、ホテルは撤退した。あれだけ惨憺な事件の現場とあれば新たな買い手はつかず、かといって管理者も取り壊しに掛かる費用を捻出できず、雨焼けの風化と共に心霊スポットとなった“らしい”。ひと夏に13人程度の足跡は残るようだが、ウタもビビも手向けられた花を見たことがなかった。枯れ果てたのは何も外観だけではない。これが世の縮図だろう。声を大にして騒ぐ人間がいなくなれば、如何な惨たらしさだろうとやがては褪せてゆく。何もおかしいことではない。

「お時間頂いてしまってすみません…」

「いいよ、自分でやっておいたから。そっちのお仕事は片付いたの?手、貸す?」

「ああいえ、不埒な輩ではないので大丈夫ですよ、もう自由になりました。常々ご迷惑お掛け致します」

現在、この廃ビルの所有権はウタにある。いらないなら頂戴と、いつだかの雨の日に土地ごと買い取ったのだ。相変わらず足跡もぽつぽつ見えるし雨曝しではあるが、理由もなく佇む日は終わった。ウタもウタで、好奇心の提灯を片手に遊びに来る命知らず達に大した興味も抱いていないようだった。心霊スポットとして名をはせている状況も一切変わらない。

「…あ、わたし東野稲です」

「うん、知ってる」

「そうでした。それで、ウタさんとビビちゃん。本日は如何されました?」

「赫包抜いてもらおうかと思って。6日でしょ、明日」

「そうでした」

そうしてこの廃ビルでは、東野稲──ひがしのいな──がビビの医師として身を置き、日夜必要な研究を楽しんでいる。

地味で化粧っ気がなく、平に研磨された針先に等しい雰囲気はあの西園花と正反対だ。とてもとても4区の片隅で生きていける人間には見えない。重ねていうのなら、彼女には喰種の血など一滴たりとも入っていない。ではなぜ、荒廃地区の4区で鷹揚と構えていられるのか?それは明快に、ウタの庇護下に居を構えているからである。

東野稲は数年前、まるでマネキンの髪ほど傷んだ金髪の青年に出逢い、それを端緒として自身の“探しもの”を見付けた。いわば残渣だ、この関係とは。稲がビビを助けてくれるから、後顧の憂いなくメスを握っていられる安寧をウタは指先を汚してでも提供する。もしもこれで稲の父がプロジェクト参加者ではなく、あるいは父から何の情報も聞かされていないただの医師だったとしたら、それ即ち稲が“探しもの”をする日など訪れなかったのだから、こうしてウタに守ってもらえる事などなかっただろう。稲に辿り着くまで、ウタは幾人もの医師を梔子の死体にしたと聞く。ウタの“探しもの”は稲だった。その二人のお蔭で、ビビは毎日平和の中でタオルケットをごわごわし、お腹をお空に向け無警戒で眠れる日を得ている。

「ええと…あ、ビビちゃんこんにちは」

「こんにちは。」

「さっきも挨拶しましたよね、そうでした。ええと、ええと、…そう、体重は問題ありませんでした。ばっちりです。はなまるアップリケ」

音階を弾く指の様になだらかに行かないのは稲の癖だ。「ええと、それで、ええと、」透けた桃色のクリアファイルへ必死に目を通す様子を、簡易なベッドに腰掛け傍らにビビを侍らせたウタは鷹揚な時計で待つ。そうして、彫り物だらけの腕には針が刺さり、結合されたチューブは赤みが幾らか溜まったバッグへと繋がっている。稲がなかなか戻って来ない為にウタが自ら施した“第一段階”だ。

甘ったれてくるビビを抱きながらではさぞやり難かっただろうに、ウタは何てことはないお顔で自身の腕に針──ビビの尾赫から引っこ抜いた針毛を加工したもの──を刺し、無駄に消費されるばかりであった砂時計に適当な理由を付けた。ビビの為に血液を抜くこの工程は、人間達の善で成される献血を思い浮かべてもらえれば分かりが良い。

「先日の検査では三つの受胎が確認されたんです。平生通り堕胎の方向でも…?」

ビビは丁度針が刺さった箇所へお鼻を寄せ、くんくん、と労わる淡さで匂いを確認している。手元のタオルケットを捏ねる仕草に不安が滲んでいるところからして、ウタが心配で心配で仕方がないのだろう。ベッド上には食パンのカタログ、同じく食パンの写真集がだらしなく身を開いているのに、時折一瞥を向ける程度でウタのそばを離れない。「そうして。どうせ相手、知らない男だから」愛情か依存か、境界が曖昧になってしまった撚糸の仄暗さといったら───今にも紡錘の擦れる音が聴こえるかのようだ。

「分かりました。それではビビちゃん、後で鱗赫をお願いしますね」

「?」

ウタの首筋へまあるいおでこを擦り付けていた甘ったれビビは、名前を呼ばれた音吐に反応して蒼を向けた。暫したんぽぽの綿毛が詰まった頭で思惟していた様子だが、指先よりずっと長いお化け袖を鷹揚に引き上げる仕草で以て、今の言葉は全く理解できなかった事実を伝える。

「あ、採血はまだ大丈夫ですよ」稲穂のような声を背景に、廃ビルの地下は一切の猥雑を黙す。扉を開けてお散歩したなら、鱗赫を肩甲骨の眉間に移植された喰種や、他人の尾赫を半分だけ移植された尾赫持ち喰種など、ジグソウパズルの様に玩弄された個体達が山ほど居るのに、この部屋にはビビのお化け袖をそ、と正す布擦れの音だけが囁く。

ウタは決して、従来の患者衣をビビに着せようとはしなかった。

あれらは針を刺しやすいよう袖が短いものばかりだからだ。幼い頃、施設時代の写真に写るビビは決まって白皙の腕を曝していた。だから、稲の元へ置く際にもまるで子供が大人のパジャマを着てみたような、そんなお化け袖の患者衣を纏わせている。今の様に従順に袖を捲って見せる仕草だって、ウタの柘榴には散ってしまった矢車菊の絵として心悲しく映り、鞠躬如とした記憶が未だビビに寄り添っているのだとまざまざ思い知らされる。

「ブタ、ですか?おわ、中は意外と硬い。何が入ってるんだろう」

「うたんぽ。」

「ゆたんぽ?これはまた…広辞苑に次ぐ凶器の誕生ですね…」

ご飯をたくさん食べた子豚に等しいバッグ、それをビビが抱き、ウタはそんなビビを大事に抱いた。後ろからほっぺたをくっ付けてくるウタへビビは僅かばかり蒼を向けたが、しかし何を言うでもなく数度頬を擦り、ふかふかのカバーに包まれた湯たんぽを稲に見せびらかす。

お泊りセットから出てくるのはウタのお洋服ばかりである。そんなに持ってどうするのとウタは毎回訊ねるけれども、ビビ曰く『いいの』らしい。よく分からないが、最愛の匂いがたくさんあれば落ち着くのだろう。ウタも緩いギブソンタックに纏められたビビの灰色へ鼻先を寄せて、すん、と利かせる。またビビが瞳だけで振り返った。しかし、やはりというべきか、何も言わない。

正午を過ぎた今現在、自宅であるHySyではふたりの足跡が踵を鳴らしているということ、ウタは気が付いているのだろうか。「あ。」もにゃ、とした間抜けな声で頭上に電球を浮かべるビビは、商売相手が訪ねてきていることに気が付いているのだろうか。「どうかした?」片腕で以て抱き込み、頬へ唇を寄せるウタが潜めた音吐でそう訊ねると、ビビは患者衣の合わせ目をちいさな手手で引き下げ「イトリ。いないになった。」と言葉の刺繍を縫った。

「イトリさん?───ああ、本当。居なくなってる」

季節外れの稲穂は小首を傾げているが、ウタは曝された谷間を見下ろして悟ったらしい。青筋が渡る白皙には鬱血の痕がなく、真新な皮膚が白玉の様につやつやしている。青筋が渡る白皙には、“鬱血”の痕がなく、真新な皮膚が、白玉の様に、つやつやしている。

たぷ、と寄るビビの白皙に、赤い“点ポチ”がないのだ。愛咬の裂傷すらも。

イトリは左胸に黒子があるだろう。ビビはそれに強い憧れを持つ為に、自身の左胸にも愛情の鬱血を欲しがる。「ウタ、」至極困った色を湛える上目、してほしいと最愛の項を引き寄せる左手。稲が「なんです?」とふたりを見比べるさなか、平気なお顔で乳を曝せる毛玉はある意味身持ちが緩いといえるかもしれない。

ウタはビビの左手に従うまま唇を寄せる一方で、甘やかな乳を押し上げ一層白い色を曝す。「え、そういうの駄目ですよ、せめて一週間は仲良し禁止って、わ、わ、」両耳を塞ぐ稲穂の眼前、ちゅう、と愛されたビビの白皙に唯一の鬱血が彩られた。イトリの様にまあるくはなく、縫合前の裂傷の様に細い痕ではあるが、緩い緩い溜息で以て偉そうな納得を演じるビビは大層満足したらしい。

ついでの戯れとして首筋を柔く辿る唇は、このふたりが普段どのようにしてじゃれ合っているかよく物語っていて、紅裙がニコに向け言った“HySyにおける性の乱れが深刻だ”とした言葉に決定的な裏付けを添えている。リングではむはむと遊ぶビビの唇を軽く啄んで見せたウタが「稲さん、まだ恋人いないの?」と問うてくるも、いっそ青空色で塗り潰したほど清々しいきょとん顔は決して天然ではないと思いたい。「いないです…」そう答えざるを得ない独り身の虚しさも配慮してほしいものだ。まして融け合う程にくっ付き合った番いの前で、こんな。

「みて。」と手手で支えた乳の鬱血、それを自慢してくるビビにはウタこそが絶対の精神安定剤なわけであって、稲は主治医の権限を振り翳し離間させる事すら出来ない。いわばシャム双生児である。稲はずっと、もうずっと、このふたりは何かしらの何処かしらを共有しているに違いないと思っていた。血や思想や好みではなく、ビビの皮膚を辿り続ければいつのまにかウタに辿りつくような、やはりシャム双生児に等しい“繋がり”を。

こんなにも荒廃した4区に聳える、廃ビルの地下での絵画である。眼前で鼻先を寄せ合い「ウタ、いたい?」「平気」なんてやっているふたりの背か、手か、腰元か、何処かしらの組織が血管を共有していたとして、決して背景に似合わない被写体だとは首を振れないだろう。稲は初めて二人を目にした時、金糸と銀糸があんまりにも愛らしかった為に、握り合った手の間には血の繋がりでもあるのかと考えた。

しかし、身を乗り出し恐る恐る覗いてみても、ビビとウタの間には布の隔たりがあるだけ。なかなか腑に落とせない現実だが、ふたりは確かにシャム双生児ではない。共有している血管は一本たりともない。それなのに、もしもウタが居なくなったとしたらビビは死ぬ。生きていけない。もしそれが逆だった場合はどうだろう。ビビがお空へいってしまったなら、稲の眼前で最愛と戯れ合うウタはどの様にして生きていくのだろうか。片割れと血管を断ったあのシャム双生児達は、果たしてどうなったのであったか。

ウタはよく愛咬を演じてはビビの皮膚を破り、赤き甘露を舌に迎えているらしい。そういえば俗世には内臓記憶という言葉があったと、稲は思い出す。そうしてかつてのウタは、“鏡を見たい”と言っていた。ビビの死肉を口にした日には、“鏡を見たい”と。───稲は少しだけ、ほんの少しだけ腑に落ちた。

「どれがいい?食パン?チョココロネ?」「てょこ?」「“チョコ”。ほら、コロネのクッション。中にも入れるみたい」もう退院した時のプレゼントを決めている声は終わりなんてある筈がないと淑やかに否定しているようだ。稲は決してミスが出来ないプレッシャーに苦笑いを零しつつ、震えで以て通知を叫ぶスマートフォンに明かりを点す。

どうやら101号室の被験体がエラーを起こしたらしい。「コロネのクッションなんてあげたらビビちゃん、たぶんチョコになったまま出てきませんよ」間に挟んでもらえるホットドッグ、中に潜り込めるチョココロネ、300名さまに当たるハイドネリウム・ピッキーのふかふかオブジェ、その他諸々。カタログの隅を覗き込んだまま一層苦笑いを深めた稲は、飾り気のない親指先で“廃棄”の文字を選んだ。液晶の照明を瞑し、また白衣のポケットへ落とす。プリザーブドフラワーは花だからこそ美しい。あれもこれもと最愛におねだりをするビビは花へ纏わりつく雨粒に似ている。

稲穂の見つめる土

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