夕間暮れに鴉が鳴く頃は確かにスタジオで飾られていたマスクは、長針の足が六歩ほど歩いた現在、猫足バスタブの中にて灰色毛玉のビビにちゃぷちゃぷと洗われていた。当たり前の様に胸板へ背中を預けてくる毛玉を後ろから抱き込むウタがアライグマにも似た手元をじーっと眺める。ふたりきりのバスタイムなのに水面からもう一つの顔が見え隠れしていて、なんとなく、不思議な気分を抱く。

いったいいつの間に泥棒して来たのだろう。乳白色が一層の柔らかさを醸す湯に浸かった時、何かを探して底に手を這わすビビがこのマスクを水面に持ち上げた訳だが、毛玉の犯行現場はもちろんバスタブに沈めた瞬間すら見逃していたウタからすれば、マスクという面立ちは猫足バスタブの底から生まれるものなのだと実演して見せられた気分だ。今まさに目の前でちゃぷちゃぷされている面立ちは間違いなく自分が制作した作品で間違いないのに。

ちいさな手手がアラバスターの花瓶を砕き、深い深い鍋でぐつぐつと煮込んだ様な乳白色。その白に戯れ付かれたまま沈んでは浮かび、溺死しては引き上げられる面が、作り手の最愛――毎日愛でられては灰を増すビビから虐げられる辛さを照明の反射で以て訴える。人形や肖像画など“顔”のあるモノには魂が宿るという。やはり、ウタは不思議な気分を抱く。何より毛玉が上手に泥棒を働いた事実が不思議でならない。

「ウタ。」

「はい」

「そっち…。ビビの…。」

ある種の関心を浮かべるウタに反して、毛玉のビビは平生と変わらずとても楽しそうだった。竦ませた肩越しに振り返るお顔は幾らかの申し訳なさが滲んでいても、相変わらずこれくらいは当たり前と言わんばかりに背中を預けてくるのだし、今だって、お腹に回っていた腕を取ると上にずり上げ、ぽにゃりと実った下乳を支えるように抱かせる。乳白色を割って覗いた谷間はビビの肩が楽になった事を伝えるが、腕に乳の重さを感じると同時にまたマスクを構い出したビビを見るからにして、ウタの腕はテーブル代わりにされてしまった事実に他ならないのである。

「楽しい?」

「や。」

「邪魔はしないよ。それもビビにあげる。ぼくのマスク、たくさん可愛がってあげて」

「…。」

何かを一生懸命に洗うアライグマから玩具を取り上げた時、尋常ではない程の剣幕で怒り狂うらしい。アイスや綿あめなど人間の儚い食べ物を洗わせた日には大変だろう。支える乳ごときつく最愛を抱き竦めたウタに警戒して、マスクをちゃぷちゃぷしていたビビはそれこそアライグマのように急いで水中へマスクを隠す。じ、と横目で様子を窺うさまは“取り上げられる可能性”を必死で追い払う針先でありながら、それでいて強くは逆らえない気の小ささを引き結ばれた唇が如実に表していて、まるでビビにとってのウタがどれ程絶対の存在であるかを伝えているかのようだ。

ビビは一度“嫌”と伝えた。それでもウタがマスクを取ろうとするのなら、自分の立場は弱いと自覚している以上、逆らわずに明け渡さなくてはならない。――と、ビビは本能で理解している。言葉や文字としてではなく、本能や感覚で理解している。お外へ行きたい、違う男の子の元へ行きたい、そうした“さようなら”に繋がる言葉を言わない限りウタは毛玉の好きにさせる男なのだから、ビビの抱く感覚はある意味間違いであるといえるのだが、一人で生きる術を持たずウタに守ってもらえなくては三日も無事でいられない施設育ちの雌喰種からすれば、見上げる立場に甘んじるのはやはり当然と頷くしかない。

頭のてっぺんに実る灰色のお団子へ鼻先を寄せ、慈しみの戯れを縫ってから幼い白皙の頬へ頬擦りするウタは、例えビビのテーブル代わりにされてしまおうと、砂時計を何度も引っ繰り返して作り上げた作品を台無しにされてしまおうと、生意気な毛玉ににゃあにゃあ言われようと憤る様子は見せず、むしろビビが楽しそうにしている姿を見て口元を緩める。依然としてじ、とウタを窺っていた灰色は邪魔される事はなさそうだと理解したようで、溺死寸前であったマスクも間一髪で水面へ顔を出した。柔らかく返される頬擦りに滲む愛おしさ。一層抱く力を強めれば、白皙の谷が乳白色の輪郭を弾く。

「イトリ。あいたいな。」

そうした中でもにゃ、と落ちる――今まさにウタの右手でふにふにされている乳のようなまあるい声は、決定権を持つ石榴へ向けた言葉ではなく何気なしに酸素へ融ける独り言のようだった。ほっぺたをくっ付け合ったままの呟きに重ね、ビビからもう一度のしつこい頬擦り。蒼は依然として面立ちと見つめ合っているけれど、やはりビビにとっての一番は身を抱いてくれるウタのようだ。肩をにじにじさせて一層胸板に背を寄せる仕草が無意識の愛情を教えてくれる。

「ビビさんはいつ起きる予定?」

「あした。」

「うん。…じゃあ、明日かな。イトリさんにも伝えておこっか。今回は待たされないみたいだよって。そうしないと彼女、また不安でヤケ酒しちゃうから」

「うん。」

約束にも似たウタの声にビビも約束の声を縫い、マスクをちゃぷちゃぷしたまま小さく頷いて見せる。一日でも早く目を覚ましてくれますように、そう願う石榴色の気持ちは理解しているのだろうか。

ビビの言う“明日”は日付を一歩進んだ数字ではなく“置いていかないでね”と額を寄せ合った、もしかしたら永遠のさよならになるかもしれない秒針から一夜を越えた“明日”だ。『おやすみをして寄り添い合って眠る夜のように、次の朝になればおはようをするよ。だから待っていて。』そう伝える約束は果たせやしないと知りながら、それでも細い細い糸を縒り、ふたりで居られる明日へと灰被った糸車をからから回す。そうして、生きてきた。今までもそうして生きてきた。灰塗れで軋んだ糸車のまま。

「、」

ビビの手手から離れ興味の糸を切られてしまったマスクが、言葉無く見上げたまま白の底を沈んでゆく。先まであれ程可愛がっていたのに、薄情にもゆったりと身を捻った甘ったれはウタの首へ腕を回し、早く抱き上げてと催促する様に頬を擦る。向かい合うさなかで水音が笑う。とても可愛らしい声だ。心地良く、静謐とした夜に囁かれる秘密事にも似ていて。顔を模ったマスクは黙すままなのに、唇を持たない水が囁くというのも可笑しな話であるけれど。

ウタのお膝に向かい合って座るビビはもう、面立ちの沈む背後には引かれる後ろ髪もないようだった。くんくん、と漆の睫毛にお鼻を寄せる事数秒、顎を引きじ、っと石榴を見つめる蒼には最愛への興味しか彩られていない。次いだしつこい頬擦りも、男性らしい腰元を何気なしに撫でてくるちいさな手も、面立ちへ再度向かう様子は一切としてなかった。

「ウタあした…いたいなるね。ごめんね。」

首の座らない子供を抱く様に毛玉の項を支え、大事に大事に抱き込んだウタへ手渡されるまあるい言葉。ここでいう“明日”は日付を一つ越えた数字の“明日”だろう。申し訳なさそうなお顔を想像に浮かべるウタは思案の瞬きもなく言葉の意味を理解し、「痛い思いをさせるのはぼくなのに、どうしてビビが謝るの?」一層柳腰を抱き寄せ宥めてみせる。押し潰れる胸など気にしないビビが最愛の頬を辿りお鼻同士を擦り付けるさなか、石榴に映った白皙の相貌はやはり申し訳なさそうな色を湛えていて、ウタは本当にこの毛玉は分かりやすいと思った。――いや、分かりやすくなった。毎日一緒に過ごす中で理解が出来るようになった、そう表した方が適切であろうか。

依然として底に沈む面立ちは気泡の一つも寄越さず、決して顔を見せない。お返事を返そうと赤々しく映える唇を開き掛けたビビは、しかし口下手な四方蓮示の真似で静かに噤み、灰の散る瞬きのみで石榴への訴えを紡いだ。

ビビの思っている事などウタは本を読むように分かってしまう、だから会話を諦める態度にも文句を言わず、くすくすと男性にしては可愛らしい声で微笑む。手術の前に疲れさせては可哀想だからと、四方宅で悪さをした夜以降は抱かずにいるビビの白皙が鬱血を手放し始めていて、彫り物だらけの慈しむ指先にて首筋の柔肌を辿った。裂傷という裂傷を感じないまま鎖骨を下り、乳白色を丸く弾く谷間へと。そこにも水で薄め過ぎた水彩と等しい鬱血の名残りがあるのみで、子宮を虐める麻酔と共に破った皮膚の存在はない。

胸元を這う指、その彫り物の繊細さを蒼にてじ、と見下ろす灰色。僅かに揺れる水音に肩を叩かれたか、睫毛を持ち上げて上目で窺うビビは瞬きみっつ分の秒針を置き、まるで甘えるように、まるで媚びるように、同じく睫毛を持ち上げたウタへそっと唇を寄せる。伏し目の睫毛に薄く開かれた子供の唇は雄の舌先を強請るかのようだ。もう抱けない時期なのに乳房をそっと包んでしまうウタも、もっとして欲しいと雄の手にちいさな手を重ねるビビも、引き際なんてものは何も考えずに仲良しな舌先同士を遊ばせているから、どうしたって疼く欲は疼いてしまうし、底に沈んだ面立ちだって居た堪れなさを抱く。

“飼い人”という言葉があるように人間にも喰種にも同じ人型を飼っている者は存在しているが、中には世話を看てやる内に上下の距離が縮まり、そればかりかどうしても構ってやりたくなって必要な時間までペットに費やしてしまう者がいるらしい。相性が良かったのか単に情が湧いたのか時計を色欲に耽る上下もいるそうで、これでは何方が飼われているかまるで分からないだろう。

ウタとビビの間にも上下関係はあれど、その境界線は曖昧だ。ビビばかりが可愛がられている訳では決してなく、同じようにビビもウタを可愛がり、時には生意気にも噛み付いて境界の糸を滲ませて見せる。ただ、ここで首輪を引く手もなくずるずる怠惰を働いてしまってはビビの為にならないのだから、ウタは一歩踵を引いてビビとの時計を守らなくてはならない。

片一方では乳房に悪戯中である手の甲をかりかり引っ掻き、もう一方では自分と違った男性らしい胸板を拙く這うお手手が、遊びに出掛ける陽気さで腹筋を伝い下腹まで下る――前に、ウタは舌を求め合うまま灰色の首を引き寄せていた手にて捕まえた。捕獲に向かう手が首筋をするりと這い胸を通り過ぎた瞬刻、乳白色との逢瀬で僅かな飛沫が生まれビビのデコルテに新しい水滴が彩られる。生温かな舌を含んだまま名残惜しく離れた唇は下腹に響く甘ったるい水音を演じた。

「、?」

これ以上はダメ、そう告げるウタの手に不思議がるビビがひとつ呼吸をつき、しないの?と問う目目で瞬く。何も考えずに生きられる事はさぞ幸せだろう。HySyに訪れる客もよく『ビビちゃんは幸せ者だね』と言葉を落とすが、外敵の心配もなく4区で生活させてもらえている状況も含め、日々気ままにタオルケットを捏ね、どんぐりを数え、世の常識すら知らない白痴でもこうまで可愛がってもらえるのは幸せ以外の何ものでもない。周りの生活ばかりか、自分の身体の時計でさえウタに任せっきりなのだから。

甲で遊んでいた手もウタに捕まり、片手で容易に拘束されてしまったビビは催促するように「ウタ。」と短く最愛を呼んだ。「ダメ」同じく二文字で返される声は彼らしく至極穏やかな上、右手は相変わらず真白い胸と遊んでいる為ビビも叱られているのかもう少しおねだりしても良いものか白痴なりの思惟を巡らせ、じ、とどんぐりお目目でウタの石榴を窺う。「ないの?」ひそひそ話に声が抑えられているのは何故だかよく分からない。ただ、拘束された手手を胸板につき肩を縮こまらせたまま鼻先を寄せる様子は、おねだりをしつつも“あなたの意向に従いますよ〜”といった従順さも演じていて、ここら辺の毛玉は本当に上手だと思う。

「ビビが元気になるまで、ダメ」

「ない?」

「うん。ないない」

「ないない。」

擦り合うお鼻は未だおねだりの色を湛えている風にも見えるが――時も止まり褪せてゆくばかりの噴水、そこに降り頻る雨粒の様な声で諭して見せるウタに、ビビも一応は理解を拾ったようだった。灰被った噴水は砂時計の歩みも止めたがるから、水彩を失くしてはいけないとひたすらに泣く雨粒が彼女の空虚を満たし続ける。物哀しい雨が降らなくなればもう、噴水は枯れて罅割れるだけ。

ちゅ、ちゅ、と柔らかく啄んでくるビビのキスは木の実を突く小鳥の仕草に似ていた。腰を抱いて応えながら弄ぶ乳をもよもよと揺らす。上唇をがぶりとされたのはもよもよを嫌がってか、それとも跳ねる飛沫を嫌がってか。乳で遊んでいたウタの手を取り改める様にがぶりと噛み付くその仕草は、啄む小鳥ではなく子犬を躾ける母犬に似ている。

「お腹へったの?」そう茶化すウタがゆったりと毛玉を抱き込むさなか、「ないよ。」首筋に流れる漆の襟足を子供の指先で構うビビは、身を包まれる温もりに拒絶の色は一切見せない。そればかりか水彩の戯れで束になった灰色の睫毛は緩徐に瞬き、いっそ眠気を醸す安楽の色合いすら湛えているから、きっと、ビビにとって落書きだらけである両腕の囲いこそが最も安心に繋がる牢なのだろう。

まあるいおでこへ頬を寄せたウタに灰の睫毛が持ち上がり、そうしてまた、永遠の眠りに就く子供の穏やかさで灰は伏せられる。「ねえ」吐息に等しい呼び掛けにも散る灰はなく、ウタは小高い鼻先に口付けてまでもう一度最愛を呼んだ。緩やかな瞬きに僅かばかり散る灰。真白い頬に落ちた影から擬態した乳白色が零れていく。眠たげに見上げた蒼が瞬きの内には灰に伏せられてしまうから、ウタはもう一度、もう一度だけ「ねえ、」と灰を求めた。

胡桃染の白痴美

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