今日のHySyは曇り空だ。ビビよりも淡い灰を持つ雨雲がやってきた。

眉間に構える渓谷がいつもより深いところからして、無精ひげの灰色はどうやら怒っているらしい。だだっ広いリビングでは仁王立つひげの背に窓枠からの陽光が寄り添い、足元にて灰色毛玉のビビがごめん寝、もとい、土下座をしている。お外は目に染みるくらいとても良い天気で、どこかの公園ではピクニックなり日向ぼっこなりが楽しまれている事だろうに、どういう訳か灰色無精ひげの四方蓮示は雨雲になってしまった。

後光の射すひげを眺めながら、ソファでお食事中のウタがつとり、と瞬く。

この部屋を客観的に見てみたら随分と異質であろう。完成を待たずしてビビに泥棒されたマスクは散々戯れ付かれてボロボロになっているし、トルソーなんだか胴体なんだか分からないモノは寝室へ繋がる扉の隙間に横たわっているし、毛玉はごめん寝をしているし、ローテーブルには死にたての首が立っているし、ウタは普通に生身の腕へ噛り付いているし、ちょこっとだけお顔を上げた毛玉はすぐさまごめん寝をし直すし、四方蓮示は怒っているし。ひげが来るまでのビビが楽しく遊んでいたぬいぐるみやタオルケットが、ウタの隣、ソファの隅っこに縮こまっていて少しだけ切ない。

ちんまり、と揃えられた足に乗っかるまあるいお尻。毛玉が蹲っている様にしか見えない灰色のビビ。
コレが妙な行動をとる事は珍しくもない為“また変な寝方をしているだけ”と、それこそ抵抗空しく掃除機に吸い込まれていく毛玉の様にあっさり片付けてしまう事も可能だが、土下座にて日本人ぶった“ごめんなさい”を示している現在の秒針にはそれなりの、一般的には大激怒されても可笑しくない程の理由があった。

「…居なかったな、昨日」

「うん。だって蓮示くんが来るっていうから」

ビビとウタが四方蓮示の自宅で悪い子をしたのは、捨てた日捲りカレンダーを二枚拾った一昨日の話である。昨夜は仄暗いオークションを楽しんだ後、紳士然としたロリコンと出会い、追い払い、そして朝になるまでHySyの扉は開けなかった。

『蓮示くん、きっと怒ってるね』『?』『お出掛けしよっか』『うん。』そんな会話があったかは定かではないが、しかし、四方の名前がウタ達の足をお出掛けに立たせたのは事実であり、今し方の悪戯っ子が悪びれもなく白状した様に、四方が来ると聞いたからお出掛けがしたくなった。

それは例えば、雨が降るから傘を差す、雨が降るからお出掛けをやめる、雨が降るから額縁の窓にモザイクが滑る、雨が降るからウタの毛玉がもこもこになる、というような、極当たり前な時間の渡りに等しい。結局は四方の機嫌をもっと損ねるだけだったけれど、結果に手が届く以前、動機の問題として。

足元で蹲る毛玉には目もくれず、鉄塔から俯瞰する鴉の鋭さで睨み付けてくる四方の目線を現代語に翻訳したならば、人ん家でそういう事すんな、といったところか。尤もな話で、ウタもよく分かっている。弁えていないだけで。

此処二日の出来事を平易に、且つ右脳しか持たない人間でも理解できるよう分かりやすく纏めるとしたら、質素なコンテナハウスでにゃあにゃあ戯れ合っていた時計が速攻でバレ雨雲襲来の今に至る、という訳だ。四方蓮示は怒っている。

「最後までしてないよ。ゴムがないとビビ、お漏らししちゃうし」

「やめろ…!」

服を乱したりビビがこてん、となるほど唇で遊び合ったり、その他モザイク少々でソファを汚した気はしないでもないが、断じて最後まではしていない。結局毛玉はかぼちゃぱんつを履いたままだったのだし、という事は手を突っ込む“触りっ子”程度で済んだわけなのだから、痕跡といえば雌っぽい匂いと弾け飛んだブラウスの釦くらいだろう。

悪びれもなく宣うウタと、声帯のずっと奥から声を絞り出す四方、お尻の乗っかる足をにじにじ擦り合わせるビビ。正座をしたままごめん寝の体勢を保つ足は早くも痺れが来ているようで、ウタの視界には落ち着きのないまあるいお尻がチラついた。

針先にちくちくされているとはいえきちんと正座が出来ている様子をみると、立つ事すら難しかった足もたいぶ良くなったらしい。激怒メーターがまた上がった四方を眼前にしつつ、暢気なウタは毛玉の足を思う。そろそろテーピングの固定も必要ないかもしれない。どうせ一日中ベッドの中で過ごす日も近いのだし、頃合いというやつだ。

どことなくビビと似て――いないでもない四方のジ、とした視線を引き連れたまま、ウタは壁からチェスト、キュリオキャビネットの辺りへ瞳を移す。日付の羅列を探しての移ろいだったが、そうだ、この家にはカレンダーがないのだった。スマートフォンで確認する気分でもなければビビの手帳を取りに行く程の事でもなく、石榴色の鏡に艶美な虹彩を湛えた瞳は雨雲へと向く。視線が足りない、と何とはなしに覚える違和感はローテーブルに立つ首からか。彼は瞼を閉じている。眼球はない。既に喰べてしまった。視線はひとつ足りない。

「まあそう怒らないで。ビビも反省してるし、許してあげたら?」

ウタという男はどこまでも他人事だ。例え中心に自分が立っていようと、今みたいに外野から投げかけるかの様な台詞を平然と言ってのける。コトがコトなのだからビビひとりで成立する悪さではないのに、機械的に腕を食むウタからは一切の反省が感じられない。顔を合わせた瞬間にぺちゃりと土下座を決めたビビとは正反対である。魯鈍で悪い事の判断が曖昧な毛玉がこんなに素早い反応を見せるのはおかしいし、紐を解けばどうせウタから“四方に怒られる”とか何とか脅かされていたのだろうが、それにしたって。

もう一度口を開き掛けた四方に被せ、「足元のそれ、ビビのでしょ?」と首を傾げて見せるウタは、四方よりも一枚、いや、二枚三枚は上手である。こういう時、寡黙は辛い。

「…」

「楽しみにしてたんだよ、蓮示くんが来るの」

「…」

「ビビも気付いてたんだろうね。そろそろ会える頃だって。今は反省中だからこんなだけど、ここ暫くずっとそわそわしてたから」

「…」

言葉だけで誰かを傷付けようとした時、大半の人は大きな声で捲し立て、全く無関係の人間が聞いても耳を塞いで蹲りたくなるような切っ先の言葉を選ぶのではないだろうか。ある事ない事を織り交ぜ、とにかく相手が傷付けばいい、その一心で自分だけが必死になりながら。

何も言い返さず、足元に鎮座している青いボックスを見下ろす四方蓮示の心は僅かな痛みを抱く。「昨日もね、偽名に蓮示くんの文字をもらってさ」蓮華座として如来を支える蓮に等しい穏やかさで紡がれたウタの声は、中庸な立場で淡々とビビの様子を語っただけなのに、易々と肋骨を掻い潜り心臓まで達した。時折お顔を上げては四方の足を見て、またお顔を上げては四方の顔色を窺って、ぷるぷる震えては小さくなって蹲る毛玉が、この世の何よりも可哀想な生き物に見え始めてくるのだ。それこそ自分が苛めてしまったかの様な罪悪感が、心臓の内側にまで易々と。

窓の外を小鳥が渡った。小さな小鳥だ。陽に照らされた四方の足元を、羽搏く影が横切る。
びっくりしてコロン、と横倒れてしまった毛玉がそれでも慌てて蹲り直す様子を見て、もう、四方蓮示は何も言えなかった。完敗だ。深い溜息だけが部屋の四隅まで諦めを運び、真っ赤な血液で濡れるウタの唇が楽しそうに吊り上がる。「…もういい」、と小さく呟く声さえビビの肩を震わせるのだから、ただでさえ口下手な四方は緘黙する他ない。

ふふ、とした石榴色の笑みもまた、溜息を追い部屋の四隅まで足を擦って歩いた。

「………」

約一週間後のある日には、イトリのカレンダーにも四方の心のカレンダーにも丸が付いている。勿論、ビビの手帳にも。
その場に膝を突き、無心に努める四方が開く青いボックスは丸で囲われた数字に備え用意された物で、四角の額縁が纏める中にはたくさんのおやつが犇いていた。瓶同士の擦れるぎちりとした囁き。すんすん、と利かす小さなお鼻。

あと一週間と数日、丸で囲われた数字が鼻先の触れ合う距離まで訪れたら、ビビは暫く病院へと入らなくてはならない。赫包をひとつ抜くのだ。そしてそれを用い、ビビのお薬を作る。

いつかの6の日に行われる手術を前にして四方が大量のおやつを用意するのは、もう毎回の事である。いつもはビビのご飯が入っているボックスだが、今日はおやつの瓶しか入っておらず、また、黙々と食を進めるウタが四方の視線に「ビビの為に少しでも喰べないと」と返した事からして、各々が6の数字に備えているのは明らかだ。

付き合うだけ無駄と見て早々に諦めた四方に反し未だごめん寝を続けるビビは、おやつへの期待を咀嚼する様にお口をもぐもぐさせる。なんにも入っていないお口をむにむにもぐもぐと。痺れに伴い落ち掛けるお尻は足の限界を訴えているが、おやつを前にすればそんなものは容易に我慢できるらしい。

「ビビ、蓮示くんがおやつ持って来てくれたみたい。食べる?」

「、」

毛玉に、というよりはまあるいお尻に向けて投げられた魅力的なお誘い。恐る恐る四方を見上げる目目は隠しきれない期待で煌めき、凶暴な大型犬を刺激しないよう緩慢な動作を心掛ける鼠にも似ているが、しかし、

「……食事制限はどうした」

「ダイエット?あれは平気。体重はそこまで変化ないんだけど、もう上手に歩けるからさ」

“ダイエット”。その単語を聞いた毛玉の反応は早かった。
パッとお顔を上げて振り向き「ウタ、ダイエトない言ったよ。ビビの…。」もにゃもにゃと不安そうな唇で必死さ溢れる日本語を紡げば、ビビにとって絶対の存在であるウタを蒼いドングリお目目でジ、と窺う。どうやらまたダイエットをさせられると思ったらしい。四方の方など振り向きもしない。灰色の後頭部をジ、と見つめている四方など、振り向きもしない。

ダイエットをするという話ではなかったのだし、今のはいわば蒙昧なビビの聞き取り間違いなのだから首を振って日本語を正してあげればいいのに、「そうだっけ?いつ?」なんて掉さすウタはやはり意地悪だ。悪戯っ子と呼んだ方がまだ聞こえが良いかもしれないが、いずれにしても、ビビを弄る事を楽しんでいる。

「イトリとき…。」申し訳なさそうな態度の裏に不満の色を滲ませつつ、“イトリと一緒の時にダイエットはしないと言った”、と訴えるビビは依然として蒼に石榴を映す。ジ、と目目の瞳孔を絞って。
『ダイエットというより現状を維持しつつ歩く練習、かな。このまま好きに食べさせるわけにもいかないし』確かに言った台詞を知っていながら「んー…ビビがそう言うなら言ったのかもね」毛玉の不安を煽る間の取り方をするのは、こう言えばビビがどういう行動を取るのかを読んでいるからだろう。

「、」

ジ、と窺っていたビビがもそもそとゆったりな動作で身を起こすのはウタの予想通り。痺れた足を縺れさせながら這い寄って来るのも予想通り。それを見た四方が物言いたげに眉を顰めるのも予想通り。ソファによじ登り損ね、コテンと引っくり返りそうになった毛玉を抱き上げるのも計算通り。

そうしてウタの隣へ引き上げてもらえたビビは頬擦りする様に身を擦り寄せる。甘えたくなったからでは当然なく、媚びを売ってダイエットを容赦してもらう為。「なあに、」片腕で柳腰を抱きながら小首を傾げるウタと「ダイエト…。」分厚い前髪の奥で情けなく眉を困らせるビビには、たとえ静止画でもよく分かるような恭順の絵の具で陰影を着けられていた。

おそらく、ビビの頭からはもう四方に対する謝罪など吹っ飛んでいる事だろう。
どうにかしてウタのご機嫌をとらないと。どうにかしてダイエットをやっつけてもらわないと。おやつの前でお座りする犬宜しく、ビビは絶対のルールであるウタにお許しをもらわないといけない。コロリとお腹を見せ絶対服従を示す事だって辞さない構えだ。お腹だけはやたらと触らせないビビからすれば、土下座よりごめん寝よりずっと深く意味がある。従って、先ほどのごめん寝は最大級の“ごめんなさい”では決してない。

かつ、かつ、と硬質な音は早く帰りたい四方がおやつの瓶をテーブルに並べている事を伝えるが、ウタの視界にはジ、とお顔を覗き込んではフンフン、と鼻を利かせてくる毛玉しか映っていない為姿が見えず、ただ静かに硝子同士の擦れる妙音が四隅まで響く。勝手にやってろ、と伝えてくる硝子の尖りは心地良い。

口端で固まりかけている血液共々しつこく頬擦りをしてくるビビの向こうで、せっせと自分の仕事だけをこなしていた四方が立ち上がった。

「もう帰るの?」

「?」ひげ宛に投げた言葉。しかし、反応するのはビビ。コルセットベストからふっくら実るお胸を、自らの身体を抱く様にして支えている。ジ、とウタを窺った後に四方へと目を向け、分かりもしない話の成り行きを注意深く見守っている様子は、やはりプレーリードッグあたりに似ているかもしれない。

一瞥の視線だけで頷いて見せるのはいつもの四方であり、声のない返事を受けとったウタも「そっか、」と浅く頷く。このやり取りを上手く読み取れなかったのは頭におやつが詰まっているビビだけだ。

「芳村さんに宜しく伝えて。あと、トーカさんにも」

「…ああ」

沈黙に等しい時計の流れを自身にとって都合の悪い展開と捉えたらしく、ソファから下りようとするビビをウタの片腕が引き戻した。きちんとボーンの入ったコルセットでも持って来て、痩せましたアピールをしようと思ったのだろう。間抜けな毛玉はウタの片腕で容易に抱き込まれ、ぺちゃ、と胸板にほっぺたをくっ付ける。これはこれで悪くない、というよりはむしろ幸せで、ジタバタ抵抗する事もなくおっとり瞬いてはすんすん、と匂いを確認し、ウタもまた灰まみれの旋毛に唇を弾ませてはくんくん、と最愛の陽だまりを肺に招く。

始めの謝罪劇はどこへやら、相も変わらずくっ付き合っているふたりを見て、最後に一言でも昨日一昨日の文句を言うべきかと薄い唇を開き掛けた四方は、

「…」

しかし何を言うでもなく大人しく噤んだ。そこには、言ったってどうせ聞かない友人の性格だとか、そもそも日本語すら理解してくれない毛玉の存在だとかも理由としてあったが、結局は口下手な自身の性格が災いしたのだ。数拍おいてもうまい言葉が思い浮かばなかった。先同様、付き合うだけ無駄だと思った。

フイ、と顔を背けてから、せめて手術に臨むビビには一言くらい残せば良かったと後悔する。が、しかし、今更もう遅い。足早にその場を去る踵は頑固故に止まらないのだし、珈琲豆を渡してしまっては会いに来る理由もない。振り向く事だって出来ない。こういう時、頸椎を失くしたかの様な感覚に陥るから不思議だ。両足はいつも通り二拍子を刻んでいるのに、声帯共々首の後ろが軋み、そうする内にあれこれ考える心臓まで木製になり果てる。口下手の弊害は声帯と唇だけではないという事だろうが、不愛想が過ぎるだけだから四方からすれば本当に勘弁してほしい。

血酒で爆発しがちなコンプレックスを今日も蓄積させつつ扉へ手を掛けると「バイバイしないでいいの?」こしょこしょ話が綿の柔らかさで四隅まで広がり、「蓮示おやつ。ありがとう。」ジ、とした視線と共に、灰被ったビビの声が届いた。

「…、」

それでも口を噤んでしまうまま扉を押し開く――と、

「ああそう、あとね蓮示くん」今思い出したよと言いたげに惚ける声が呼び止める。あの日の人形師を濡らした雨粒の声。

「ソファベッド、送っておいたから受け取って。お詫びの印」
「……」
「いらなかった?」
「普通のソファで…いいだろ」


「なに想像してるの。むっつり」

口下手はつらい。

土下座の置物

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