「うう、う、ぅ…。」

ウタの下腹にしがみ付くビビは大雨警報の涙を降らせ、もうどうにもならない感情の蠕動に呼吸すらつっかえている。これぞ必死といった様子は別れを切り出された女の様にも見えるし、釣り上げた巨大魚を何とか抱き締めて写真撮影に臨む釣り人にも見えるのだが、ウタが寝そべっているソファには背を向ける男も巨大魚もおらず、一見して大泣きの理由を探るのはなかなかに難しかった。

「したいの?蓮示くん帰ってきちゃうよ」すっかり上半身の服を剥かれたウタが楽しげに茶化す。返ってくるのは「や!」邪魔されたくないビビのきゃんきゃんと煩い拒否、そうして力いっぱいに噛み付かれる腰元。ここは四方蓮示のお宅で、間違ってもこんなはしたない事をしてよい場所ではないのに、最愛のお洋服を丸めてキープする毛玉にとっては、フーした後のタンポポくらいどうでもいい事らしい。

たまーにあるのだ。ウタを好きで好きでどうしようもなくなったビビがぼーんと爆発を迎え、こうして大泣きをしてしまう秒針というのは。愛されることで熟した石榴の心臓が灰被った瞬きの内に弾けた瞬間、それがたまたま今で、たまたま味気のないコンテナハウスで、たまたま四方蓮示の巣であったというだけ。

引き金や前触れなんてものはなく、例えここがOLで溢れ返ったカフェだったとしても、例え今ウタの愛情に蕩ける程揺さぶられていたとしても、石榴が弾けたのなら毛玉は同じように取り乱して大泣きをしたはず。――後者だと、押さえ付けられているビビがマウントを取り返すことは難しく、また、初めから大泣きをしている確率の方が断然高いが、まあそれはモノの例えとして。

揶揄いの色で抱き上げようとするウタの手はビビのふっくらした横乳を撫で脇まで辿り着くけれど、しかし、引き剥がされたくない毛玉がそれこそ釣り上げられた魚の様に身を捩り、ぺしぺし!とウタの手を追い払う。結構、加減がない。出逢った頃は嫌の一言すら言えない臆病であった事を考えれば、随分と生意気になったものだろう。

墨の彫られた下腹へほっぺたを擦りくんくんとお鼻を利かせ、もう一度しがみ付くビビは頬をくっ付けたままずり上がり、次は凹凸の目立つ腹筋へと身を擦り寄せる――ところを、ウタの手がひょいっと抱き上げ、自らの眼前まで引き寄せた。

「や、ふ…っ。」

「発情期かなあ。それとも、いつものアレ?」

「うぅ…、」

楚々とした生成りに隠されたビビの胸元でスン、と鼻を利かす。次いで匂いを求めた首筋でも排卵、或いは排卵の予兆も感じられず、ということは、やはり、石榴が卵胞の様に弾けた事実にしか辿り着かなかった。胸元のボタンへ噛み付くウタを嫌がり肩へ腕を突っ張るビビは、力で以って留めてくる雄の腕をどうしたって振り払えない。ビビは力のない雌だ、何もおかしい事ではない。手中に握られた芋虫の様に身を捩らせるのも、聞き入れてもらえず無抵抗の釦を食い千切られるのも、弱っちい雌喰種にはお似合いというものだ。

ウタの身体を愛でたいのにそうさせてもらえなくて、ひっくひっくとしゃくりあげるビビの谷間に赤い点ポチが増えた。時期が経てば未練もなく引っ越すコンテナハウスとはいえ、他人の縄張りで好き勝手に出来る根性は四方にとって悩みの種だろう。「これ、かえして」ビビを離す代わりに泥棒されたカーディガンを手に入れる。羽織る内には胸板にほっぺたがくっ付けられており、なんなら毎日こうして愛してくれたらいいのに、とすら思った。

例えばの話、好きで好きでどうしようもない相手がいたとする。いたとしたら、その気持ちを消化する為の行動パターンというのは、国籍人種が入り混じるこの世界でいったい何通りあるのだろうか。感情を丸められている内は問題ないだろうけれど、集積した愛情がぼわっと溢れて、もうだめだ〜となって、あんまりにも好きすぎて肌の上を蛆虫が蠕動するかの様なむず痒さを感じた時――行動の選択肢は自由だとはいえ、種々様々な人模様の中にはある程度共通して狂気的な色を含んでいる、のではないだろうか。もちろん水性か油性か、濃いか薄いかのふり幅は途轍もなく大きいとして。

ウタは柳の様な揺らぎを持つ男であるが、しかし、ビビに関しては独占されていたいと常々思っていた。わざと逃げて、もっとずっと愛されたくなる。無意識の自分が愛咬で白皙に傷をつけてしまう様に、ビビからもまたそうされたいと思っていて、痛みでどろどろになった依存の撚糸に何よりの幸を見出していたのだ。痛んだビビの肌を見ると当然継ぎ接ぎの心臓は痛む。それでも加虐の痛みこそが心地よく、それこそが愛だった。

コンテナハウスは暗い。日の下では縦に裂けているビビの瞳孔もまあるくなり、時折窺う様な上目を向けては頬を擦って甘えている。少しでも手を寄せれば邪魔されるものだと勘違いしたビビが噛み付いてストレスを訴えてくる為、ポトポトと実る涙には今だけ知らないふりをして、ウタはビビの手帳を開きふわふわのシールが貼られた数字を目に留めた。「あと一週間…長いね」カンテラみたいにぼやけた呟きには嗚咽の返事しかなく、ビビは胸で淀む太陽にお鼻を寄せ、好きで好きで堪らないと頬を擦る。涙と肌の擦れる音が少しだけ艶めかしい。

ふと――泣きべそビビに伝わる些細な揺れ。

「、? や!」

「どこも行かないよ。怒らないで」

「…。」

床に放置されたビビの太っちょバッグ、ウタはそれに手帳を戻そうとしただけだ。それなのにすん、すん、としゃくり上げる毛玉は精一杯の針先で示し、親猫が体の下へ仔猫を隠してしまう様にウタの頭へぎゅうと抱きつく。好きにさせてほしい、ここに居てほしいと伝える言外の仕種にはこれでもかいう必死さが染みついていて、些かの息苦しさを得たウタも宥める手つきで柔らかく抱き返した。

降り頻る涙で濡れる胸元を、つらつらと浅く笑うウタは厭わない。それもそうだろう、言葉を持たない最愛から愛してると叫ばれているに近しいものなのだから、艶を添えられた鬱血に頬を預ける事を厭う筈がないのだ。一身に向けられる愛情が心臓の小瓶を満たす。それはウタしか受け取れない灰であり、ビビしか手渡せない遺灰である。

背中を優しくあやす手に呼吸を導かれたのか、心なしか皮膚を通して伝わる心音にも並足の変化が見られた。それでも決して離さんとする腕やすんすん啜るお鼻からは治まりのつかない石榴が窺えて、もうちょっとだけ意地悪をしたくなってしまうのは仕方がないというお話。

「、」モゾついたビビがまるでテーブルにでもそうする様に、抱いたウタの頭へお胸を乗っける。「重いの?胸」茶化しの色を含む問いに「…おテプ?」返される声は弱弱しく、また僅かに掠れており、ウタは床に置かれたバッグを手探りで引きつつ「かわいいよ。そのままでいて」嘘なんてひとつも含まない声で愛した。

こうしていると、ここが何処だか忘れがちになる。前科があるし今更何をやらかそうと自分達に減るモノはないのだが、現実の+-はいいとして、ビビと過ごす時間に重なる正当性の膜がただ不思議なのだ。ここは四方の巣で、あまりおイタをしてはいけない場所なのは間違いない。そうしなければ、また四方はソファを買い変える破目になり、そればかりか、お引越しまで早めなければならなくなるから。

それは理解していても、砂漠の砂に落とすたった一滴の雨が輪郭を曖昧にして消えてゆく様に、いつの間にやら自制の念は薄れてしまう。まあいいか、なんて無責任な気持ちにさせるのだから、ビビが身を置く砂時計というのは本当に本当に不思議だ。

「、」

どうにも落ち着きのない毛玉は今し方ウタをテーブル代わりにしたばかりなのに、モゾモゾと身じろいでお鼻同士を寄せる。腰からお尻のまろみを撫で下り、太ももへ手を添えた秒針に散る灰の瞬きが如何にも雌らしいお誘いを揺らしていて、未だにすんすんとやっている間抜けささえ違った色に見えた。「いたいだった?…ごめんね。」酷く申し訳なさそうなお顔と“ごめんね”の言葉。心当たりがなくて一度目を瞬くけれど、毛玉がそうっと手を取り墨の彫られた甲へ頬を擦る様子を見て、過ぎた秒針でぺしぺしっと叩いたことを謝っているのだと知る。

「…ビビになら痛くされても平気」

何てことはないように紡がれた糸も、ウタの本心から落ちた葉であった。質素な箱の中でしん、と響く。

こうして鼻先を寄せ合っていると、ついこしょこしょ話になってしまうのは何故だろう。「へいき?」「うん。へいき。もっと痛いことして」「がぶって?」「そう、がぶって」両頬を包んで愛で、媚びを売って擦り付けられる唇へ言葉を口移すウタに、はっきりとした端緒の輪郭は分からない。

そういえば、と思い至る頃にはこれが癖になっていて、ビビもおんなじ癖を持っていて、そうしていつの間にやらじゃれ合っている時のお約束事になっていた。共時性というよりはミラーリングの方がしっくりくるのかもしれないが、これを説明しようとすると“ビビはウタが好きでウタはビビが好き”、なんてたいした事のない理由になってしまう為、輪郭の始まりなんてものは曖昧なままでいいのかもしれない。

すん、名残でお鼻を啜ったビビの眼尻には涙の雫が引っかかっていたから、親指の腹を滑らせて拭う。黒い爪にじゃれ付いた艶には目もくれず、ウタはビビの首を引き寄せて唇を求めた。窓ひとつない閉塞的な部屋では、こんな当たり前の戯れさえも忍んだ悪事に思えて。

「ぅ、」

「痛かった?」

唇を啄み合い、もう一度吸い付く秒針には赤が滴る。自分から傷付けておいてシレっと訊ねるウタに「、へいき。」一拍置いて頷くビビはきっと、これがウタの愛情表現だと深く理解しているのだろう。ビビだって、嫌いだからウタに噛み付くわけではなく、なんとなく愛おしく思っているから犬歯を立てるのだ。愛でられる夜の延長線上として、柔い胸や首筋を裂傷だらけにされる事と大差ない。

ビビのふっくらした唇には石榴にも似た赤い雫の玉が実っていた。舌先で掬う、子供らしい灰色の仕草。こうした一瞬の所作が石榴の瞳にはひどく愛らしく映り、いっそ手酷く扱って愛だらけにしたくなる。それこそ額縁の中が似合うような極彩色の痛々しさで。舌先にて舌先を掬い、そうして吸い付く戯れに従って素肌の胸に爪を立てられる軋みは甘く、連なる昂りは腰と本能に甘い。あーマズイなあとは感じている、もちろん。

「ウ、た、」

「、なあに」

突っ込まれた舌にどうにか抗ったビビはウタの肩を押して身を離し、はふっとひとつ呼吸を逃がす。四方蓮示は帰ってこない。擦り合った所為で赤く汚れている唇を美味しそうに舐めるウタを、なでなでと可愛がるビビにもここで歯車を止めるという選択肢はなさそうだ。むしろ毛玉の頭には自身が置かれてる状況や踏み越えてはいけないラインなど欠片としてないのが濃厚であり、呼吸の整いと共に愛しく頬を擦る様子からはもっとしてと強請っている風にすら受け取れる。

結局この男にしてこの毛玉在り、というやつで、ウタの唇で鈍く示すリングを啄み、頬を伝い耳に唇を寄せ、そうして真白い首筋へ遊びに行く灰被ったビビは、悪い男とはどの様にして付き合うべきなのかをだあれにも教わっていないようだった。

かぷかぷと浅い戯れは深く息をつかなければ耐えられない擽ったさがあって、ウタは催促を含めてビビの頭を撫でる。躾は――そこまで通していたわけではないけれど、従って力を強めるビビにはどうしてほしいのかが伝わっているらしい。悪い男に可愛がられていれば悪い遊び方だって覚えるのだ。すっかりウタの色に染まり切った灰なのだから当たり前だろう。愛し合うことなんて過去を振り返るよりも余程簡単。

「もっとキツく噛んでいいよ。…そう、」

労わる様にぺちゃりと舐めては力いっぱいに噛み付く。甘ったるく睫毛を伏せるウタは最愛の細腰を抱いて、いっそ皮膚が裂けるほどの戯れを求めた。痛みなんだか甘さなんだか、正直に言ってしまえばよく分からないし何でもいい。ただ首筋で脈を打つ快味につらつらと笑うさなか、胸で中途半端に張っている釦を撫でてしまうのはもう、もう、思考の天秤が大分右に傾いているといえて、「これだけで出せそう…」些細な事とはいえ悪い子をするのは何故こんなにも昂るのか、自分自身の事ながら灰で作った砂時計の様に不思議だった。

悪戯を仕掛けている気分に程近く、しかしそれにしてはどす黒い嗜好に塗れた思考のままビビのもこもこした髪へ鼻先を埋める。あーマズイなあとは感じている。感じていた。

「ね…一緒に怒られよっか」

「なに?」

くるん、と巻き込んで押し倒した毛玉は血塗れの唇で囀る。美味しそうだから仕方がない。最愛はおいしそうだから仕方がない。

他人の家ジャック

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