最愛へ捧げるアラバスターの彫刻は、もうあなたのそばから離れるつもりはないと心を手渡す誓いにも似ている。よくいったものだ、“アラバスターのような肌”だなんて。先人たちが喩えた通り透けた雪の乳白色は冷たい白皙を思わせ、傷として繊細な愛情を彫ってゆくウタの手指に麻酔さえ無意味な罪悪の甘さを抱かせるのだから。

石膏を彫り刻み、何かを象る一連の作業に痛みを感じる工程はない。ウタが人間で、それでいて散漫な注意力でも持っていれば手を滑らせて痛みを得る瞬間もあったかもしれないが、恒常とした毎日を送る現状でそれらの条件は持ち合わせておらず、どんな痛みを指先に感じようと外傷を認める血液は一滴たりとも零れなかった。その事について疑問はない。むしろこれが当たり前であり、ビビのなだらかな頬へ印刻を施すかのような悲しみに自ら身を浸すため、白皙とは似て非なるものだと胸に据えられないまま心を痛め続けている。

痛みや悲しみ、苦しみを、すべての生き物が嫌い、すべての生き物が忌避する針先かと問われると、違う。絵本で読み聞かされた曖昧な幸せを追う者達は裂傷の愁情から逃げたがる傾向にある為、割合でいえば少数派となるのが自然だが、それでも人間達の思考や心がなんとなく想像しているよりかは遥かに多い結果となるはず。手段や理由はどうであれ自己に痛みを課す類型に属する者というのは確かに存在していて、ウタもまさにその性質の欠片を握る一人だ。嫉妬の中に仄暗い高揚を覚え一層の愛おしさを感じてしまうのも、自らより余程大切な最愛の肌に身勝手な愛咬を刻んでしまうのも、忌避すべき針先をどうしてか好んでしまう性情ゆえ。

雪花石膏の贈り物が永遠の誓いに似ているのなら、灰で継ぎ接いだ心臓の縫い目に待ち針を刺し込むウタの奇癖は糜爛した掌で耽る自慰に似ているかもしれない。受け取った小さい手手からひとつひとつ指を切り離し淡い誓いを棄てさせれば、床には砕けた白が遺るのみ。きっと、見下ろして添え置く額縁が似合うだろう。


「わあ。」

そうした痛みの中で形にした壊れやすい雪花石膏は、やはり最愛の灰によくよくと馴染んだ。足元に散らばるリボンと包装紙の残骸、そしてタオルケット。ウタがアラバスターの清楚な花瓶を贈ったのは、つい数分前のこと。

「気に入ってくれた?それ」

「とても…。」

それまで頭からすっぽりとタオルケットをかぶり、ウタの服という服をひっくり返してはあの日の海辺で拾ったはずのどんぐりを探していたビビだけれど、あまりに美しい縞目の白濁を見た途端に感嘆の吐息を零し、大きな目目でジ、と見入っている。この表情を見るのは何度目になるだろうか。何度目を迎えられただろうか。

まあるい瞳孔はアラバスターへの変わらぬ興味を如実に表していることから、ビビを想って形にした石の花瓶は最愛の心臓に花を添えるひとつとなり得たらしい。今日だけは明るくされた照明が誓いの贈り物に淡い光を通す。思わず爪を立てたくなる儚さがますますビビの白皙に酷似しており、加熱処理の手間をかけてまでこの透明感を求めてしまう理由を、心臓の縫い目よりひそひそと囁く自らの声で聞いた。

「ありがとう。」「うん。どういたしまして」代わりに傷ついた雪花石膏は美しく、最愛は無傷のまま歓喜の瞬きを湛えている。視線を合わせる為しゃがんでいるウタが愛おしげに口角を上げるのは、自らの痛みがビビの手にあるからか、それとも、仄暗い背景を知らないまま笑う無邪気さを目にしているからか、それとも、単純に最愛の喜色を微笑ましく思っているだけか、いつだって揺らめきの中にあるウタの性格を思えば判断に難しい。

「、」

花瓶を大事に大事に抱えたビビがいそいそと動き出し、今日も労ってくれる古井戸の包帯に励まされつつ足を進める。重いから代わりに持つよと手を差し出しても身を捻って嫌がり、ウタから逃げるため覚束ない足を運ぶ様子はなんだか――なんだか、掃除機から逃げる灰色の毛玉だ。飼い犬のお散歩綱を握るようにビビの髪を纏めたウタが見下ろす先で、毛玉はトコトコと一生懸命に歩く。

“花瓶はどのようにして使いますか?”街角アンケートでも何でもいい、誰かにそう尋ねられたとしたら、“わたしは花を飾ります”と答える者が大半だろう。体を表す名が“花瓶”とあれば花を活けられることなど至極当たり前であり、茎に穴の中心を底まで貫かれたとしても花瓶自身は何の文句もない。麗らかな窓辺で色のとりどりを支えつつ、褪せてゆく生命を立ち止まったまま見送る。花瓶はそのためだけに生まれてきた。そのためだけに。

しかし、好んで痛みを得る者達がそうだったように、世には少数派という枠が存在している事を忘れてはならない。

「置けないね」

「ね。」

ビビの自室には褪せたアイボリーが枯れぬ想いを弔う、猫足のキュリオキャビネットがいる。ふたりはカーテンのドレープを背負う窓辺に目もくれず、ただ静かに永遠の誓いと共に在るキュリオキャビネットへ足を辿り着かせ、一点の曇りすらない硝子の中を仲良く覗き込んでいた。

アラバスターのチェスピース、アラバスターの羽ペン立て、アラバスターの義眼、アラバスターの小指、アラバスターの香水瓶。鎮座しているのは濁った痛みばかり。これらは全てウタからビビへ贈られたもの。ところが、僅かなスペースには花瓶を立たせるだけの居場所がない。こうしてふたりが困った困ったと硝子を覗き続けていることからして、つまり、雪花石膏の花瓶は花を飾る湖ではなく、硝子の檻に飾られる雪花として形を許されたのだろう。どの誓い達もそうだったように。

特別珍しい石でもなく、そのくせ脆く壊れやすい繊細さから一般的な価値ではダイヤモンドを見上げる立場にあるけれど、鋭く瞳孔に刺さるダイヤを嫌うビビからは赫眼色の石榴石に並ぶほど愛されている。ビビの白皙に程近い淡さを愛すウタ。手渡された誓い越しにウタを想うビビ。詮ずる所、爪を立てればどこまでも削れていく石膏を通し、お互いを想い合っているというだけ。

「だれかいるかなあ…最近は猫足のコ入ってないみたいだし、ひょっとしたらお家がないまま何日か過ごすことになるかも」

「へいき。ウタありがとう。」

「ごめんね。あとで聞いてみるから」

ビビは枯れた花の色と、まあるくて可愛らしい猫の足が好きらしい。家具をみにいっても興味を示すのはアンティークの子達が圧倒的に多く、あんまりにも楽しそうだから連れ回している内にそういった家具を扱う店主の方が好意で入荷の状況を教えてくれるようになった。

お礼代わりにぷにっと押し付けられる赤林檎を舐め、啄みのついでに吸い付くウタは何かないかなと記憶の引き出しを人差し指で開ける。故人が愛用していた物や、首が飾られていたキャビネットでもビビは気にしないだろうし、仄暗いオークションあたりに連れていくのもいいかもしれない。幸いマスク屋を営んでいれば喰種の声がよく入ってくる為、いつどこで何があるかはなんとなく把握している。それにウタの興味が向くかは別として、なんとなく。

今すぐ猫のキャビネットが手に入らなくてもビビは構わない態度だが、しかし、大事に抱える花瓶をどうするかについては考えあぐねているようだった。ビビにとってウタの手が愛したアラバスターは特別なものであり、たとえ淡い白濁が“花瓶”の名を叫んでいても窓際に添えるつもりはない。柔らかな陽光の元で飾ったなら恥じらう白濁が透けさぞ美しい事だろうに、やはりというべきか――唇に艶を湛えたまま、ビビの足は天蓋に守られたベッドへ向く。

「お母さんみたいだね。子守唄でも歌ってあげたら?」

「?」

主がウタと共に夜を過ごしてしまう為ほとんど使われることのないベッドは冷たい花瓶を優しく招き入れ、丁寧な仕種でブランケットを掛けるビビとの間に家族を思わせる輪を滲ませている。いくら自分が形にした白だとはいえ触れていなければ温もりさえ持たない雪花石膏はひやんとしているが、人の感性によっては死産を連想させてしまうごっこ遊びも、ふたりぼっちで寄り添うだけの日々ではそう悪くなかった。これも、ひょっとしたら痛みを楽しんでいるのかもしれない。ただ、誰にも傷付けられやしないだろうかと気遣わしげな表情で花瓶を隠すビビに、一度仔猫を取り上げられた臆病な母性を垣間見た気がして。

ビビにとって誓いの白濁というのは、閉じ込められた世界の中で最もなくてはならないものだ。灰を纏ってこそ頷かれるグレーシャスグレイのように、灰がなくては自己を保てないターンブルーのように。

そして愛欲で濁った貴き白というのは、この世の眼球が果て無く増え続け、人々の嗜好が何色に靡こうとも、僅かな青紫を含む灰に一等相応しい。だからこそグレーシャスグレイはあんなにも儚く、ターンブルーは雨粒の恵みさえ悲壮な涙に思わせ、灰被ったビビは賞翫する男の石榴を永遠と身に受け続けている。愛しているが故に尊い灰を蝕んでしまう愛咬の黒点に、抗う棘も持たないまま。

「ウタ、」

「なに?」

「こっち、ビビの…。」

ふたりしてベッドサイドにしゃがみ込み、ぼんやりと花瓶の白を眺める静かな秒針。腕を導かれるまま抱き込んでやれば、もうここにしか居場所がないと伝えてくれる安らぎのため息が聞こえた。頭に顎を置かれても大人しく胸に寄り添い、時折くんくんと鼻を利かせては一層寄り添ってくるビビの温かさ。もこもこの髪も、まるで胸の中に隠れてしまうほどすっぽり収まる幼さも、誰に察してもらえるものではないけれど紛れもなくウタにとっての幸せとしてある。

「甘えっこ。花瓶はもういいの?」「いいの。」狭い腕の中で戯れ合うふたりは言葉にそこまでの重みを求めない。ビビが日本語を理解できないという理由もあるし、なにより、内包している継ぎ接ぎのこれは言葉で伝えたところでどうしようもない愛欲だと理解をしているからだ。そんなもので吐き出せる程度の心臓であれば今頃ビビは真っ新で、それこそ雪花石膏よりなだらかな肌をしている事だろう。

理性を介さず、また、素直な本能に従うままのセックスでは吐息と共に紡いでしまう言葉もあれど、やはり目が覚めてまで残っているのは痛みと共に刻んだ束縛の愛咬。癒着しかけの亀裂に甘く爪を立てればどうしようもなかった愛を交合わないまま再演でき、一夜経つ頃には元通りどうしようもなくなっている愛を吊れた唇に湛えたまま口付ける。挿し込んだ舌に喰い込む幼い犬歯の、なんと饒舌な事か。

そうした愛情表現を繰り返していたのなら、言葉が“酸素を浮遊するただの透明”になってしまうのも仕方がない話。今まさに、舌先を擽り合う戯れの中でウタは小さな舌を噛む。胸板へ縋る爪は大層気持ちがよさそうで、痛みを愛情として受け取れるようビビの神経は複雑に縫い変えられてしまっているのかもしれない。

「、! けふっ」

一生懸命に飲み下す音と蕩け切った吐息の催促に、ふと、ビビの咳き込む声が割り入った。遊んでくれる舌が欲しくて招き入れようとした時、啄みのついでとして息を吹き込まれたらしい。突如膨らむ形となった肺に当然ビビは驚き、静かに笑うウタの胸板で変なものを拾い食いした猫の様にけふけふと呼吸を逃がしている。

こうした予期せぬハプニングが毛玉の身に起こった場合、ほとんどがウタかイトリの悪戯だ。或いは、毛玉の自爆。現在はビビの他にウタしかおらず、そうとなれば状況的にもウタしかありえないのだから文句の一つも投げつけてやったらよいものを、くすくす笑う犯人に気付く事が出来ないビビはすっかり怯え切った様子を見せ、「どうしたの?小さいイトリさんでもいた?」そう守るように抱いてくれるウタの胸に小さくなって潜り込む。

「イトリ、ないよ。…なにいる?ふうって…。こわいなった…。」

「なんだろうね…ぼくにもわからない」

微笑みを誘う一生懸命なお喋り。たったこれだけの悪戯で震えてしまうビビは本当に臆病だと思う。強かに生きなくては狩られるしか道がない喰種にしては疑いがなく、自らの力で以ってえいっとやっつける気概というものもまるで見えない。ウタが守りすぎた故の怠惰か、室内飼いとして大人しい子に育つよう遺伝子が囁いているのか、ビビは威嚇をしてくる猫にさえ立ち向かうことが出来ず、血統書付きらしい上質な赫子も専らお昼寝用の枕として使われるばかりだった。

しかし、力がないからこそこうして頼ってくることを思えば、翅を毟られ独りでは生きられない体のまま愛し続ける日捲りも、くすんだ包帯の上から繋ぎ留める一種の枷だといえるかもしれない。最期まで守らせて、いつかの過去でそう願ったのはウタ自身。約束の終わりはいつになるやら。

胸板にぺったりと頬をくっ付け、怖くて仕方がないと服の裾を握り、周りを警戒しては頼りのウタを見上げる。額へ寄せられる唇に大丈夫と宥められるそばから顎を指先で捕らわれており、あとはもう、過ぎた秒針と変わらない再演を行うのみ。

「――ふ、けふっ」

けふけふ。くすくす。
些か苦しそうに頬を赤らめているビビを、反して楽し気なウタが軽々しく抱き上げ、決して乱暴ではない動作でポイ、とベッドへ抛った。意識をしていたわけではないけれど、こうやって遊んでいた時期もあったと灰塗れの記憶を浮かべながらベッドへ乗り上げ、一瞬でも安心から離れて不安を感じているビビをもう一度腕に迎える。大人ぶった音で沈むマット、傾く花瓶。半ば押し倒す形で手手を縫い付けると、筆で描いたように扇を示した髪がアラバスターの白濁に灰を添え、雨の日に傘の影へと招き入れたグレーシャスグレイを思わせた。愛欲で濁った白というのは、僅かな青紫を含んだ灰に一等相応しい。

「こわい?ビビ」

「こわ、い…。」

「それは何に対して?この状況?…それともさっきのイタズラ?」

「?」

柔らかく、冬の雪花石膏にも似たウタの声が鷹揚と訊ねる。どちらか――といわずとも大した意味を持たない問いだが、理解ができない言葉を選んだからこそ毛玉の目目はブランケットを背から羽織るウタにジ、と向き、もう一度蒼と石榴が出逢うまで見上げ続けるのだろう。ふたりして潜り込んだ温かさの中でやはりビビはくっ付いてきて、そろそろ店を開ける時間と知っていながら離れることができない。申し訳なさそうなお顔で花瓶を招き入れる様子も、抱き締めてほしくて腕を背に導く様子も、くんくんと鼻を利かせて安心のため息をつく様子も、毎日一緒にいたって足りないよと伝える愛情の頬擦りも、指折り数えたすべてが愛おしくて。

“寝ても覚めても同じ子で飽きない?小さくて、なんだかちんちくりん。”悪意を込めた言葉ではなく、本当に本当に不思議そうな色で問われたことがあった。思い返してみるとあの瞬間も雪花石膏に傷をつけ、継ぎ接ぎの心臓をスプーンで撹拌される痛みを味わっていたのだったか。

唇のリングを啄んでキスを強請るビビに、もう一度ふうっと息を吹き込みつつ何かしら返したはずの言葉を脳裏で探す。けふけふ忙しい唇の艶を拭い、小生意気に高いお鼻を摘み、そうして酸素を求めた秒針に生温かい呼吸を口移ししてやれば、いい加減どうしようもなくなって泣き出した可哀想な咳き込みに重なり、冬の空へひやんと融ける雪花石膏の声だけを聴いた。雪花石膏の声だけ。霧散してゆく輪郭が酷く曖昧で、ひょっとしたらあれは夢の中の自分だったかもしれない。

「ぼくが店に降りたらひとりだね。大丈夫?」「や…ないなる、って。こわいだから…お昼寝、…、」今日はお店なんか開かないで一緒に居よう、そう必死に訴える毛玉の涙を掬い、大事に抱えられている花瓶へと擦り付ける。安心をしたい一心で引っ付き、腰の上に乗せられた足は一層の寄り添いを求めてくるのだから、こんな日にまで引っ繰り返すOPENの文字はどこにもないだろう。んくんくと泣きしきるビビの背を子守唄の手で撫でるウタにとって、泣かせたなら落ち着かせるまでが毛玉との遊び。今日はもう、だいぶ意地悪をしてしまった。置き去りにするよりはこのままお昼寝をして、夕間暮れの頃に僅かな橙を頬に添えてあげたい。

突っ掛かりもなく決まってしまう休業はしかし、いつものこと。柔軟剤の短調な香りを厭うように押し付けられるお鼻も、ビビのベッドではいつものこと。灰の胸に抱かれた安寧の中で雪花石膏は温もりを得ている。失う為だけに宿った体温の尊さには、やはり冷たい白がよく似合って。


硝子の硝子と詰草の硝子

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