ウタとお揃いで誂えてもらったまあるいおでこ靴、覚束ない足元を運ぶ度にゆさゆさと揺れる鳥籠のクリノリン。およそ浜辺を歩く格好とは思えないビビが、それでも楽しそうにトコトコとお散歩をしている。始めこそは歩く練習に難色を示し今すぐのお肉を強請っていたけれど、幾度か唇の戯れをもらい、これはお散歩だと懐柔させられてしまった今となっては、自らの足で足跡を残す事に抵抗は感じていないようだった。痛んだ右足首に巻かれた黒いテーピングも古井戸の涙が染み込んだ生成り色のガーゼも、ビビがきちんと歩けるよう、転んでしまわないよう、灰色を損ねないよう、手を惜しまないウタが程度をみながら施したもの。未だ繋ぎの緩さが顕著な右足は、優しい黒のお蔭で何とか足跡を残せている。

波の音はザラついていた。
目を移せばゴミが打ち上げられている浜辺であるから、人々が耳を澄ます安らぎのさざめきすらそう聞こえてしまうのだろうか。しん、と冷ややかさを湛える潮風は姦しくも寡黙で、糸を張る様な厳粛さで呼吸を忘れさせる。ビビの瞬きにも似ているかもしれない。涙で扇を束にし、粛々と伏せる灰散らす瞬き。やはり、波の音はザラついている。

ちょいちょい、袖を引かれる甘さに呼ばれ、白波へ向けていた石榴の視線を落とすと、申し訳なさそうに拾ったどんぐりを見せ“持って帰ってもいい?”と伺いを立てているビビ。その手には、艶が目立ち可愛らしい帽子を被っている3匹のどんぐりがいて、なんとなく――ただなんとなく、ベレー帽を被ったビビに似ていると、そう思った。人気のない海だ。こんな日くらいお気に入りのどんぐり帽子を被らせて、好きなお洋服を着させてあげたら良かったかもしれない。葬儀に参列する淑女のトークハットも、体のまろみを隠す魔女のケープも、愛情と言い張る身勝手な独占欲も、全てワードローブの奥にしまい込んで。

――しかし、思ったところで実際に許せるのかというと話は別だろう。控えめにいっても不可能に近い。白鳩の目があるだとか、雄に寄られるとビビが怖がるだとか、そこには最もらしい肉付けがあるとはいえ、芯で煩く鼓動を打つ罪は結局、独占欲という割れたザクロの名を持っているのだから。

少しだけ冷えた頬を撫でる手は袖に隠れ、黒く塗り潰された爪が愛情を隠せないまま僅かに覗いている。こうして些細な憐憫を縫う間にも早足で過ぎてしまう秒針を感じつつ、カーディガンのポケットを鷹揚に広げる事で快い了承を渡せば、窮屈といえる生活にさえいい子で甘んじているビビが心底安心をした様なお顔で大事に大事にどんぐりをしまった。ついでの戯れとして腰に抱き付いてくる毛玉の、堅牢な鳥籠に錠を掛けさせる愛らしさ。顔を背けようとしてもそうさせてはくれない。ただ灰色の最愛としてそこに在り、ゆうたりゆうたりと睫毛を扇ぎ、ひとつ、そしてひとつと増えてゆく愛執の錠を、遺灰が散らばった海の瞳で粛々と眺めるだけ。

「うちゅじん、たべたいな」

ジ、と見上げたまま拙く呟く言葉は、でぶ猫によるでぶ猫の為の餌箱催促だ。平均体重で言ってしまえば、まあ――多少目を瞑って現状が丁度良いくらいなのに、脆い右足は自らの重さを支えられず、これ以上の蓄えを頑として拒む。両手でビビの上唇を摘み、下にみょーんと引っ張る飼い主のウタは、うんともすんとも言わず曖昧に瞬いた。おやつをあげても小指を多めに喰べさせてもお強請りをしてくるのだから、求められるままに餌を与えていたらビビの為にならない。

もう一度繰り返されるお強請りに、「帰ったらね」それこそ曖昧に返しつつビビを抱き、今し方ポケットに入れられたどんぐりを躊躇なく放る姿からは、気紛れに黒髪を攫った潮風すら頷くほど隠す気のない嘘が窺える。大事などんぐりがポイされてしまったこと、胸に顔を押し付けていたビビは全くとして気付いておらず、きっと、次に後ろを振り返った時、過ぎた秒針と同じように申し訳なさそうなお顔でどんぐりを拾ってくるのだろう。ウタのポケットが膨らまない事に疑問も持たないまま、お肉を買う為のどんぐりをせっせとせっせと。

「あ。どんぐり」

「どんぐり?」

よく思うのは、ビビは犬に似ているということ。アザラシの赤ちゃんにも似ているし、でぶ猫にも似ているし、夜中に起こしてみれば間抜けなカピバラにだって似ているけれど、こうして特定の言葉に反応を示してパッと顔をあげる様子に関しては、お散歩が大好きな犬が一番しっくりくるように感じた。裾から忍び素肌の腰を撫でていた手手の爪が、まるで甘い針先の様に柔く食い込む。「そこだよ、ビビのうしろ」そう指差した先を振り返り、なかば転ぶ形でどんぐりを捕まえるビビ。波の囁きはザラついていて、やはり毛玉は犬に似ていた。これはイトリに聞いた話ではあるけれど、離れている時にウタの名前を落とすと今とまったく同じ仕草をするそう。顔をあげ、扉を振り返り、くんくんと鼻を利かせて一生懸命に探すのだとか。

一度膝をついてしまったものだから上手に立てないビビの手をとり、冷笑な潮風の中ではやけに温かく感じる腰を抱いて立ち上がらせる。その間も捕まえたどんぐりを離さない手手にお肉への並々ならぬ執着を感じつつ、膝丈のクリノリンに引っかかった砂を払い、ついでとしてツンと尖ったお鼻にひとつの唇を添えた。チュールの向こう側で慈しむ灰の瞬きは貴い。引き留められる糸を感じてしまうのは何故だろう。気付いた時には睫毛を伏せ、顎を掬い、幼さの残る唇に口付けをしていた。

「、」

ウタが目を伏せた隙に、ころん。ポケットへこっそり入れられるのは、永遠と拾われる運命にある帽子付きどんぐり達。計算を匂わせる毛玉の蛮行に唇を遊ばせたままふふっと笑ってしまうのも仕方がないこと。腰を支えているウタの手をとり胸に押し付け、怒られませんようにとまろい体で祈る姿は強かな雌だ。ケープの影とはいえ、胸元に手を忍ばせていたら周囲から誤解を買うのが当たり前なのに。「うん。…ごめんなさいは?」「ごめなさい…。」唇を離し、きゅっと鼻を摘んだままのわざとらしいお小言に、悪い子をした自覚を持つビビは申し訳なさそうにしている。それ以上の悪い子は偉そうにビビの頬餅を引き伸ばしているけれど。

「帽子かぶってた?」

「?」

「どんぐり」

「うん。かわいいぼうし。」

「今日のコはみんなお洒落さんだね」

「ね。」

風化を帯びたまま砂に埋まっているメッセージボトルは身の内に羊皮紙と文字を抱え、誰かの想いが空気に融ける瞬きを今か今かと待っている。波音に隠れたふたり分の足音はくすんだ瓶を通り過ぎ、コルクの茶色をどんぐりと勘違いしたビビだけが永遠と続く足跡を振り返った。想いとは、総じて主張が強い。ウタの独占欲も、名前すら知らないメッセージボトルの持ち主も、総じて。だから、ああ目の前のそれは瓶で、茶色いへんなのはコルクで、決してどんぐりではないと、お馬鹿なビビにもバレてしまうのだ。だから、どんなに白皙の傷が増え涙を零そうと、お馬鹿なビビは最愛として隣に置いてくれるウタに小さな足跡を寄り添え続けるのだ。薄汚れた瓶はふたりの背中を見送る。ビビの玩具箱の中にて、粗雑に隠されているガーベラの灰のように。

抵抗の少ない砂は歩き難く、子供でも歩かせてみようものなら忽ち足をとられるだろう。しかし、足元に不安を抱えているビビは靴底を包み込む意地悪に何よりの歩き易さを感じているらしい。浜辺の砂であれば足への負担が少ないから――確か、そう穂先の医師に勧められた事が始まりだったか。実際に足元を痛めたアスリートや競走馬は、こうして労わりの浜辺で右と左を踏むと聞く。初めて砂浜を歩かせた時、あんまりにも上手に歩くものだから吃驚した記憶があるが、トコトコと運ぶあんよは今も変わらず愛らしく、ウタの足跡に着いていく事を強く強く望んでいる。

「どんぐり。いっしょくる?」

「どうかなあ…。ビビがたくさん拾っちゃったから怖がって出てこないかも。…海の中にいた方が彼らにとって安全だしね」

ウタの腕を抱き、波打ち際へ行きたいと強請る毛玉の指差し。辿った海に、蒼い硝子を覗く美しさはない。黒に程近い砂が巻き込まれる波は茶色く、泡立つ白波だけが不自然に白い。決して、決してビビの遺灰に似合う色ではなかった。打ち寄せる波をジ、と監視しながらのこしょこしょ話でもどんぐりは見つからず、砂を含むだけの茶色い波にビビも残念そうにしている。――ビビの為なら、浜辺の砂も全て全て真白い清楚なキラキラに替えてあげたいと思う。そうしたらきっと、最愛にじゃれ付く海の水が濁る事もなくて、波の中でころころ転がるどんぐりだって瞬く間もなく見つけられて、灰色を損ねない淡さを選んであげたもさもさのスカートが泥色に汚れる事もなくて、なんなら星屑のグリッターを含んだ白波の中、唯一灰色に灯るビビを飾る事だって出来るのに。

波の飛沫を厭わず鷹揚としゃがみ込んだウタに倣い、真似っこビビもパニエをたくさん仕込んだスカートを泣かせてしゃがむ。僅かに届く波。生成りの裾に滲む古井戸の涙。なんとなくの戯れとして、愛おしさを滲ませたまま軽く唇を押し付けただけ、――それなのにぺちゃっとお尻をついてしまう毛玉の幼さに、好きだなあと灰まみれの心臓だけで呟くウタは愛らしく、また男性にしては可愛らしい吐息でくすくすと微笑んだ。きっと、ビビのドロワーズはべちゃべちゃの砂だらけだ。しかし、構わない。気持ち悪そうなお顔でもぞもぞと脱ごうとするビビの手手は、さすがのウタももう少し待ってと制しはするけれど。

「…ないよ。へいき。」冷々さざめく静かな白波に、転んでなんかいないと唇を尖らすビビの強がり。淡く溶ける声が茶々けたコーヒーに円を描くミルクの落書きで滲み、沈み、そうしてひそひそと囁く波音のザラつきを、ティースプーンの錆びた柄尻で攪拌してみせる。引きも切らず泡立つ波は姦しい。しかしまろみを含んだミルクの舌触りは悪くなく、後を追った灰砂糖が淀んだ泥色に水葬されてしまえば、あとは揺蕩う摩擦でザラついた角を落としてゆくだけ。目を移せば変わらず散らばっているゴミにひとつ瞬き、未だ強がっている海の瞳に石榴の裂傷を実らせた。穏やかな瞬きで見守る薄羽蜉蝣の笑み。耳に心地良い波音を聞きながら、墓碑銘の蒼に弔いの睫毛をそっと伏せる。


濤声の拝啓お元気ですか


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