お手伝いに励む白皙の手手がOPENの顔をCLOSEへひっくり返し、数時間だけお散歩へ足を立たせ、そうして日付を跨いだ眠りの時刻。外界との遮断を託された寝室のカーテンはウタからの言い付けをしっかりと守り、薄闇の中でぼんやりと示す灰色の最愛を月の視線から隠している。

ベッド上にウタの姿はなく、あるのはただ、ただ眠りとは不釣り合いなビビの姿だけ。宵も更けた時計となれば、あとはウタから可愛がってもらい疲労の瞼を閉じるだけなのに、どうぞ召し上がれと差し出す筈の体は息苦しいまでのコルセットで胸から腰を覆っている。肌が冷えてしまう事を酷く嫌うウタを思い、いい子でブランケットを羽織ってはいるが、押し上げられている胸元は素肌のまま、愛咬の残るまあるい谷間には編み上げの鍵が掛けられていた。

解放を拒むかの様な締め付けを一見すると、ビビを抱ける立場にあるウタへの拒絶に見えるかもしれない。しかし、全く間抜けな事に、蝶結びの鍵が揺れる雌の体はウタを拒絶しているわけではない。間抜けな事、本当に。――ビビは締め上げによって得た身の細さに、すっかり痩せた気になっているらしい。だからこうして寝る間際になっても窮屈なコルセットに身を許している。

大事な雌のお腹がぎゅうっと虐められる形になるからとウタは嫌がっていたのに、ゆったりとしたロングのネグリジェはベッドの猫足付近へポイされたまま。このコルセットでさえ稍の後にはビビの体から引き剥がされ、そうして同じ様に猫足と遊ばされるのだから、今の時点でビビの肌に触れられてすらいないネグリジェは、このまま朝までにゃあにゃあと泣き惑う声に耳を澄ますだけだろう。

「、」

鷹揚に、ウタにも似た静かな柳で瞬くビビが傍らに転がっていた小さなボトルを手に取る。遮光の青に守られているそれは喰種にとってのスキンケア用品であり、先日会ったイトリから「使い切れんのだわ」とプレゼントされたものだった。

ぢゅ、う、と奇妙な音と共に吐き出される中身は黄色く、広くはジェルと呼ばれるもの。鮮やかな血液を遠心分離機に託し、熱処理を加え、タンパク質の変性によってジェル化させ、人間の真似事を好んだ喰種の保湿剤として愛されている。喰種の社会では比較的に安価で、それこそビビのへそくりでだって何本か手に入れられる程度の価格。それもそうだろう。食料とせず、健康体で生かしておけば血液なんていくらでも抜き取れるのだから。家畜同然に飼われている人間は少なくない。これらと同様に養殖された人間のお肉をスーパーにでも並べられたなら――そう願う喰種もまた少なくはないだろうけれど、こればっかりはどうにもならないようだ。天秤の傾きは深いままで固定をされ、だからこそ、人間は怯え喰種は白鳩に追われる。

ふんにゃりとした谷間に透けた黄色を塗り付け、むにむにふにふにとマッサージをする呑気なビビにとったら、天秤の傾きなどはほんの些細な問題にすぎないのだろう。本能が選んだ雄に寄り添うだけで守ってもらえ、自らご飯を狩る必要もない日々は誰よりも優しい秒針で淡々と過ぎゆく。世の喰種達がどんな思いをして、どんな苦難を抱えて、どんな恐怖に足を掴まれて生きているのかは想像もつかない話。身を守る術すら持たないのに警戒心が皆無な素肌は、この部屋へ入れるのはウタだけだと知っている。


――キィ、と。薄暗い淫靡さを揺蕩わせ寝室の扉が開いた。髪を下ろし、緩いボトムを引っ掛けたウタは、余韻の尾を引いて閉まる囁きを背で聞きながらビビの素肌が灯る寝室へ、その足を。

「…結構近いね。どこのコかなあ」

「?」

ビビがちょこん、と座るベッドへ乗り上げ細首を引き寄せると、早速じゃれ付くウタが如何にも雌らしい赤林檎の唇をひと舐めして声を渡す。今夜は平生よりも外が騒がしい。おおかた獰猛な同種同士が共喰いでも演じ始めたのだろう。ちゅう、返事を待たずして吸い付いた柔らかさに恐怖の緊張はなく、ちゅ、ちゅ、と次いだ愛おしさからの戯れ。今宵もウタの愛寵を一身に受けているビビにとっては、時に地を響かせる騒音も非現実的なものであり、そう恐ろしいものではないようだ。お客さんから話し掛けられても無意識の内に無視をしてしまう時と同じく、なんて事はないお顔をしてウタの上唇を啄ばんでいる。ひょっとしたら、喰種同士の喧嘩とは気が付いていないだけかもしれないけれど。

ちゅう、離れ難いと差し出された舌に吸い付いたままウタの首筋を辿り、鎖骨に流れている髪を梳き、胸板を撫で、そうして男性らしい腰元へ手を添えるビビは、掌に感じる寝衣越しの艶めかしさを本能だけで感じつつ、墨が彫られた首筋で小ぶりなお鼻をくんくんと利かせた。――どちゃ、と。大きな肉片の落ちる音が細やかに揺れたが、やはりビビの怯懦は鳴りを潜めているらしい。

「ないなった?お肉。…おでぶ?」

華奢な肩から滑り落ちてしまったブランケットを拾い、再度抱き込む様にしてビビを包んだウタに、こんな薄暗の中でさえぼんやり灯る毛玉がもにゃもにゃと訊ねる。先と似て顎先に唇を寄せ、リングを辿り、ぷにっと唇同士をくっ付ける様子からは「嘘でもいいよ」と言外の媚びが見え隠れしていて、これが艶事を強請る雌のお誘いではなく“痩せた”という判子が欲しいだけな事実に、蒼い瞳に映るウタはくすくすと笑んだ。前で合わされたブランケットを邪魔そうに退け晒された谷は残酷なまでに丸く、捨てきれないでいる食欲の毛玉がコロコロと弾んで見えるよう。

「まだ1日目だから変わらないよ。ビビはどうやってマッサージしたの?ぼくにも見せて」

「、」

胸を揉みほぐせば脂肪が消えるなんて、ある筈がない。しかし、憮然とした瞬きはマッサージの成果を信じて疑わず、それこそ眼前のウタに向ける信頼にも似ている。なぜか?――それは当のウタがビビに吹き込んだ嘘だからだ。従うべき石榴の目で促されるままジェルを手に取り、同じ様にむにむにと谷間を撫でるビビはひたすら従順に、健気に。まあるいおでこに口付けられても目元へ口付けられても伏せ続けた睫毛はただ谷間を見下ろし、緩徐な手手で一生懸命指圧をしている。早く宇宙人が食べたい一心で。早くこんなお肉はなくなってほしい一心で。

呑気なものだ。ひたひたと近まる音からは輪郭を照らした悲鳴が聞こえ、騒音を通り越し人々に畏怖を与えているというのに。「今日のノラ猫さんは元気だね」そう囁いたウタにひとつだけ頷き、何とはなしに部屋の隅へ向く視線。「何かみえるの?」こしょこしょ、と耳元の内緒話がもうひとつを訊ねても、返ってくるのは愛情の縫い付けられた鷹揚な瞬きだけ。扉を隔てた向こうから時計の音がする。喉で笑い、そして隅っこへの興味を遮る様に、ビビの顎を掬って唇を舐めた。


ここに住まうウタは勿論、どの区の者だって口を揃える程4区の治安は悪い。そぞろ歩けば同種とすれ違い、路地の隅で蹲るゴミを蹴れば擬態していた食べカスの指が転がる。良くも悪くも猥雑な都会である為、溢れ返った呑気な人間で標的は散らされているが、獰猛な同種があまりにも多い理由から、やはり喰種達にとっても危険な場所である事には変わりがなかった。むしろ人間よりも喰種の方が4区の危険性についてはよくよく理解をしているかもしれない。

喰場を侵さず、物言わぬ花の様に過ごしていたとしても無事ではいられないのだから、弱虫のビビが幸せに暮らせているのはひとえにウタの庇護があればこそだ。もしもウタのそばに置いてもらえなかったなら、今頃は疾うに喰べられてしまっているか、怖い怖い雄に雌の部分を遊ばれているか、野垂れ死んでいるかの道しかなかっただろう。

力無い喰種にとって4区は荒廃地区。こんな場所で今にも死の淵に落ちるという悲鳴を聞いてしまったら、身の底から震え上がるのが当然のこと。それでもこうしておっとりと瞬いていられるビビは、雌という最大の武器を最も巧みに利用した弱虫喰種といえた。

「…、」

胸を押し潰している蝶結びへ中指を引っ掛け、上から順に締め付けを緩めていくウタに、やはり緩徐な扇で瞬くビビ。悪戯っ子の片割れを咎めるでもなく、呆れるでもなく、薄ぼんやりとした穏やかさでふにふにを続けるさまからは、そばに居てくれるウタへの愛情とご飯への欲求が色濃く滲んでいる。ぐ、ぐ、とウタの繊細な指が紐を緩めていく度、僅かに揺れてしまう身の所為で肩に掛かっていた髪が滑り、ジェルで艶めく谷間に曲を描いて張り付いた。

コルセットとは本来、女性よりも力の強い男性――ひいては恋人や夫が紐を締め上げるのが常。しかし、指で引けば容易に解けてしまう紐が物語るように、ウタは一切として手を貸してはいない。

ビビという飼い猫は、ウタにとってあまり嬉しくない事にコルセットをよく好む。艶美で楚々として在るそれは確かに美しく、最愛にとてもよく似合うと感性も頷いているのだが、必要以上に曲線を求められているお腹と腰に将来を望む気持ちが酷く不機嫌を訴えるのだ。肌とボーンとの間にビビの瞬きほどの緩さがあるのならまだいい。構わない。しかし、この雌はどうしたってきつい締め付けを望み、剰えウタの手で紐を結んでほしいと甘えて強請る。赤ちゃんができてたらどうするの?そう問うた所で妊娠を望まないビビにはそれこそ意識の外で聞こえる悲鳴と差異なき非現実的な響きであり、宿る筈のない命であり、そこには様々な理由があるとはいえ、望んではいない輪郭だった。ただ、形を渇望するウタに反して種の拒絶を続けていても、その実ウタを心から愛している事には変わりがない。分かり合えない唯一の部分がすれ違う秒針で摩擦を起こし、時として大きな亀裂を産んだとしても、心臓が縫い付けられている以上は仕方なさの装いで一層と深く寄り添い合うだけ。受け入れ難い愛執の蟠りだけを残して。

撓む紐の橋、ジャガード織りの蔦模様が繊細な生成り色に紛れ、いっそ気味悪くも見える谷間の青筋をより白皙に、より不自然な生に近付けている。そうする内に鈍色半月で笑うビビの髪を雄の指がよけ、首筋を辿り、緩まった締め付けにより色味を増した谷の愛咬痕を、まるで自らのマーキングを確認する様に淫靡な爪で引っ掻いた。呼吸に合わせて膨らむ胸が愛らしい。生きているのだと如実に教え、ゆうらりと夜気を揺らす安らぎの愛情を感じられるから。

「ふわふわだね。マシュマロみたい」

「まひま?」

「マシュマロ」

「ましまろ」

すっかり解けてしまった紐をゆうたりゆうたりと縛り直す手手のそばで、谷間の丸みを渡る指の白々しさ。大人しく紐を締めるビビは相変わらず穏やかに瞬いているけれど、せっかく終えた蝶結びの端っこを咥えたまま頬擦りを強請るウタはお邪魔虫以外の何者でもないだろう。はらり、解けてしまった紐は緩徐な手手が再度として結び直し、そしてまた、胸元に顔を伏せたウタが淫猥な唇で紐を咥え、甘える猫の様に頬を擦る。

どういうわけか、好き合う者というのは似てしまうらしい。だからだろうか。ビビはウタに似てとても穏やかだ。「ましまろ、おいし?」「さあ。…でも、ふにふにしてて可愛かったよ」ちょっかいをかけられても憤る事なくウタの両頬を包み、まるで朝露に濡れたサンカヨウを思わせる静粛さで訊ねるビビは、緩慢に小首を傾げる様子まで性格をよく表している。壁の向こう側、そう離れていない場所では命のやり取りが行われていて、何かの拍子に巻き込まれてしまう可能性だって否定できないというのに。こうして静かに緩やかに、白波の時計を過ごすには4区は猥雑すぎた。しかし、だからこそ楽しい。だからこそ秒針はゆるりと回る。退屈をしない荒廃地区は確かにくすんだ灰色であれど、ウタのそばに居れば安全と幸せが約束されているビビにとって、鳥籠の外がどんなに過酷な針の筵であれ、格子の手前から眺める灰まみれは非現実的風景に変わりはない。

「食べてほしいの?」

4区らしい怒声に紛れる布擦れの音。頬を撫で耳元を掠った手手が、ウタの頭を愛おしく引き寄せた。唇を真白い林檎の谷に導く様子は“食べて”と、そう言っているようで。中指に紐を引っ掛け、先と同じく撓みをもたせるウタは、どこの誰とも知らない黄色い血液の妙味を舌でなぞり、内緒話の声で訊ねる。引く紐に従って僅かに揺れる身。連なり、素直に頷くビビの首。かぷっと噛んだ谷の膨らみは死んだ女の肌で、思わず力加減を誤りそうな柔さだ。夜毎の戯れで白皙に散らせた痣は多い。中には痛々しい傷も咲き、あの瞬間には嚥下を急かす甘美を舌が受けていたのも確か。どうしようも出来ない愛情の慟哭を痛みで伝える愛咬は紛れもない加虐だが、一層深く抱き込んでくるビビはそれすら望んでいるかのようで。

――この時ばかりは、傷ひとつ残しておけない自らの身体を厭わしく思う。どんなに犬歯を突き立てられたって、愛されたって、目が覚めた朝に寄り添う痛みはない。愛せば愛すほどビビの傷が増えてゆくのなら、同じだけの色を、いや、それ以上の愛執で以て飾ってほしいと願うのは必然といえるだろう。

ひとつ、引っ掛けて緩めた紐にまたビビの身が揺れ、揺蕩って弾む谷に舌先を沈める。僅かに残る裂傷の甘さは曖昧に滲む蝋燭と酷似し、月光すら射さない寝室では唇を離す水の名残さえ大袈裟に響いた。つ、――縋って掛かる透明な橋。吐息だけで笑ってしまうのは、ぷつりと途切れた糸がビビの白皙に落ちていったから。撚り糸のひとつでさえ、自切をしてまで離れたくないのだと。

宵で滲み、輪郭がほやけている痕に差される艶は生々しいのに、楚々とした水瓶の中へほんの僅か程度の淀みを添えてしまった様な、顔を背けなければならない背徳を感じるのは何故だろう。心中で傾げる首は1度目でも2度目でもないが、何とはなしに舐めたリングにはいつまでもビビの幼い温もりが残っており、それはやはり十字を切るべき背徳に思える。だから、フイ、と顔を背けた。しかし、――しかしビビの手手はウタの頭を抱き直し、引き寄せ、もう一度噛んでと強請るのだ。額に唇を寄せ、痛く愛される事を切に強請るのだ。ウタは過ぎた時間を繰り返す様に吐息だけで笑う。これでは一体どちらが裁かれる側が分からない。誘われた方が悪いのか、誘った方が悪いのか。それは唆されたイヴが悪いのか、唆したヘビが悪いのか、答えなんて思想の数ほどある問答にも似ていた。この場合、唆すヘビとして在るビビは幼さを湛えた唇でイヴの鼻筋をなぞり、一層肩を竦めて抱き締める。まるでお願い事にも似た林檎のキスを背徳の唇へと辿り付かせて。

喧噪の宵だ。にも関わらず、鳩目と紐がゆうらりと擦れる音以外に何も聞こえない。時計の音すらも。ビビの瞬きひとつ、痣ひとつ、灯る蝋燭の様に薄ぼんやりとして見えているというのに。時折ウタ、とひそめた声が聞こえては額に寄せられる唇がちゅ、と遊び、愛らしい戯れを曖昧に伝えるだけ。紐が緩められ、無抵抗のまま暴かれてゆくコルセットの奥からは慎ましやかなベビードールが震えている。引き裂かれるか、引っ掛かったままべたべたになるか、コルセットやネグリジェと共に宵を明かすか、或いは、丁寧にビビの白皙からさようならをして足元でくしゃくしゃになるか。どちらにせよ、フリルを噛み上目で窺うウタが、今宵はどの様にしてじゃれ付いてくるかにもよるだろう。

琴線の締め上げを渡る指が最後の鳩目を撫でる頃、白皙を隠すベビードールの裾を割り、素肌の腰へ手を添える。だらしなく引っ掛かった紐はそのままに、ビビの大事なお腹を虐めるコルセットは猫足の元へポイされた。死のそばへよろめいたノラ猫の悲鳴は聞こえない。シーツに押し付ける灰色の最愛が、尚も林檎の捕食を望んでいる。


白林檎の愛咬示唆

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