※2015/09/27全書き直し
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数匹の植木鉢が並ぶスタジオ前は穏やかでいて姦しく、二人が寄り添う石畳の日常をHySyの悍ましさで覆い隠している。

“生活感がない。本当にここで暮らしているの?”。

幾度となく尋ねられた言葉は苔生した疑いを前面に滲ませていたが、足元に注ぐ白い陽光を自由に遮ったカラスの影も、目深なフードがてるてる坊主を思わせる不思議な女の子も、囚人の鳥籠に似た面格子の窓も、じゃれ合う唇が落とす可愛らしい音も、これらは全てHySyの日常だ。住まうウタとビビは恒常とした毎日を幸せに暮らしている。どういう訳か、他人の目には薄気味が悪いと映りがちなこの額縁の中でも。

そうして訪れる平生は今日とて変わらず、日めくりの昨日と同じ様に空を渡ったカラスが茂ったビルの向こうへ消えてゆく頃、内気な扉が底冷えする空気を穏やかに退け、今日とて変わらず寄り添うHySyのふたりを外へと誘った。

「入れすぎたんじゃない?お水。今にも溢れそう」

「へいき。」

転んでしまわないよう肩を抱き支えるウタの腕に従うまま、ビビの覚束ない足が嘔吐寸前の如雨露を案じつつ一歩一歩と石畳を撫で歩く。右を踏んでは左を踏み、右を踏んでは左を踏み、ふらりと踵を擦ってはウタの体へ凭れ掛かり、右を踏んでは左を踏む。未だ足元の不確かな子供に似た左右でさえ身を倒さずにいられるのは、こうして寄り添いの平生にあればこそ。大事に如雨露を抱えている灰髪の子を穏やかな瞬きで見守る視線の底で、黒い影として渡った鴉は昨日と、もしかしたら一昨日とも同一かもしれない。

ひとつ、ゆったりと瞬いたウタが海一色の空を見上げ、されどもふたりきりの日常で跋扈して過ぎた鴉を石榴で追う事はなく、ひとつ、もう一度瞬いて灰色の最愛へと凪ぐ瞳を伏せた。

愛情は滲む。

こうした寄り添いの絵を見てもまだ、いつかの日で“薄気味悪い”と自らの体を抱いていた者は、この世の常と変わらずに捲るHySyの日常に眉を顰めるのだろうか。表面張力の裏切りを待つだけの水はブリキの如雨露と共に鏡の太陽を見上げ、一刻も早く透明な嘔吐をと切に願う。

「こんなに寒いと鉢男もイヤがるかもね」

「?」

しん、と冷える空気の中、艶を増す黒髪を耳に掛けたウタが雪花石膏を思わせる声で言った。言葉以上の意味を持たず、ただ最愛の視線を一瞬でも欲する様な、何気ない日常の音だった。

「、」

たった今ウタは何と言ったのか、どういう意味があって、自分はどう返したら良いのか。紡がれた糸を正しく理解出来ずにいるビビは石榴色の瞳をじ、と見つめ、言葉の色を測る瞬きで緩徐に扇いでいる。せっかちな三拍子がふたつ回った頃に溶けて消えゆく吐息は名残まで白いが、その中にあった筈の刺繍もまた同色であったため終ぞ読む事が叶わず、ビビの扇はもうひとつだけ瞬いて蒼い瞳を逸らした。ふふ、小さく笑った雪花石膏の白が、尊い命に水をやろうと如雨露を包み直す小さな手を滑る。

いつからか、HySyのスタジオ前でなんとなく飼われている植木鉢、“鉢男”。手塩に掛けずとも元気でいてくれるそれらの緑色に、ブリキの如雨露を傾ける事がビビの日課だった。今日とて変わらない。大事に支えたブリキをゆったりと傾ける手手を傍らにしゃがんだウタが覆って支え、肌を傷める針先の外気から守る様に睦まじく雫を落とす。冬の間だけ気紛れな如雨露はビビがどれだけ傾けようと数日に一度の頻度でしかブリキの雨を降らせてはくれないが、蓮口から雨が降ろうとも黙そうとも、不思議そうに首を傾げるビビの瞬きは変わらなかった。表面張力のお縄から解放された嘔吐が溢れてはいけない頭から溢れていても、ボタボタと葉を叩くくすんだ雨に鉢男は今日とて何も口にしない。文句のひとつも、根腐れのひとつさえも。ただ与えられるふたりからの愛情のみを口にする。――変わらない日常だった。

底なんて乾かない程の水で満たされていたブリキも、傾け続ければ尽きるというもの。蓮口から落ちる雫がち、ち、と時計の秒針を真似、数度震えたスマートフォンが攫ってしまう時間の移ろいに、まるで後ろ髪を手繰り寄せる様な雫で石畳を叩く。ち、ち、かしゃん。

ビビの興味がスマートフォンに向き、音を立てて落ちたブリキの如雨露は今日とて変わらないとはいえ、遠くの雑踏が鉛筆で撫ぜる殴り書きの雑音として届くHySyでは、やはり尖った針先の音に似ている。耳につん、と刺さる音は鋭く、一拍を置いて空気に混ざる都会の日常が、今度はやけに静かに思えて。

「イトリさん?」

「うん。」

「…嬉しそうな顔してる。本当に好きだよね、イトリさんのこと」

「イトリの。」

「うん。好きでしょ?」

「すき。」

肌を傷める針先の外気から、まるで守る様にしてビビを抱き寄せたウタが情けなく腹を横に向けているブリキの如雨露を片手で正す。ち、と一粒だけ落ちた雫はスマートフォンに、イトリに、そして今まさに如雨露の頭上にて鼻先を擦り合い戯れているふたりに誘われた涙か。寂しさを滲ませてしまうのも無理もない事だろう。時間は移ろいゆく。四季と同じ様に、回る長針と同じ様に。そうして影に立たされたままあの音を数え、心待ちにしている明日を迎えるのだ。変わらず待ち構えるブリキの孤独に、空っぽの内を震わせながら。

もたもたと両手でスマートフォンを弄り、分からない漢字を指差しては「なに?」、分からないカタカナを指差しては「ウタ、」。その度に顔を上げるビビの唇にちゅう、とじゃれ付くのは、イトリさんばかり構わないで、と更なる寄り添いを求めているよう。しゃがんでいるとこうして唇を弾ませる事も容易だ。屈む必要もなければビビを抱き上げる必要もない。白皙に映える林檎の唇は出逢った頃から変わらず愛らしく、ふわふわと柔らかい髪に隠された首を3度目の戯れで引き寄せるウタにとって、ビビの唇は美味しい美味しい砂糖菓子に違いはなかった。

街を歩けば可愛らしく己を飾った女の子達が“甘いもの”を口にしている。喰種にとって、頬も綻ぶ甘さというのは理解も実感も出来ないが、いつか慣れる日が来るはずと口にし続けた所で、思いが報われない事は請け合いである。だからこそ、どうしようも出来ない愛情を滲ませて触れ合う唇こそがこんなにも快味で甘ったるいものに感じるのだと、誰だったか――僅かに紫の入った愛の沼で生きる、道化の笑顔が言っていたような気がする。そこまで真面目に聞いていた話でもなかった為もしかしたら今の自分が感じている色を反映してしまったのかもしれないが、まるで苛める様にぬるりと差し込んだ舌先は痺れを伴う甘さを含んでいて、人工甘味料を味わえない命に正当性をつけただけの言葉でも、そう間違った話でもないのかもしれない。吸い上げたビビの舌先は甘い。

離れる唇に、ふう、と燻る吐息にまで甘さが溶け出している様だった。ここはHySyであり、今日とて変わらない日常だ。分け合った体温で赤みが増し一層と熟れを見せる唇も、少し舌を遊ばせただけでぺたりと頬を重ねて凭れ掛かってくるビビも、また。

「ねえビビ、明日ヒマならおいでって。どうしたい?」未だ頬をくっ付けたまま甘えているビビの頭をもさもさと撫で、当たり前の様にビビのスマートフォンを操作していたウタが問う。数通前のメールから更に辿った昨晩のモノまで遡り、そうする内には見覚えのあるやり取りに辿り着き、ウタはもう一度新着のメールを開く。振り返って画面を見つめていたビビは秘密を暴く行為に文句ひとつ言わず、それこそ鉢男の様に、ブリキの様に、移ろう四角の中を黙したままじっと待った。問いかけに対する言葉はなく、じっと。

おかしい事ではない。よくある事だ。ビビの身を置く時間は殊更ゆったりとしている。今まさにウタからの言葉を受け取ったまま黙すビビはきっと、ただなんとなく、寝起きの頭がぼうっとするのと同じ様な感覚で静かな瞬きを繰り返しているのだろう。そこに応えを引き延ばしてる自覚はなく、従って、無視をしている自覚も逡巡をしている自覚も。

おっとりとした瞬きは隠微と程遠く、同じ時間に身を置き、夜毎身の内に招いては愛をし合うウタの扇によくよくと似ていた。「ビビ、」柔らかく、再度問いかける愛おしげな声。そこに強引な催促はない。ゆうたりと過ぎ去ったほんの数分の間で、早く早くと陽の傾きを急かしていたのはブリキの涙だけ。慈しみ頭を撫でて大事そうにビビを抱いているウタに、緩徐な瞬きと共に振り向いたビビがふに、と柔らかく唇をくっ付け、リングを啄ばみ、口端を辿り、そうしてまた頬擦りをするさまからはウタへの深い愛情が覗いている。

雲がはけて射した陽に鉢男の雫が煌めいても、ふたりの影でくすみを増すブリキの如雨露に届く光は一筋としてないが、ウタの眼前でふわふわと遊んでいる灰色の毛先は受けた陽により淡い銀を示しており、本来であればこうして愛情を寄せ合うふたりの絵に薄暗い悍ましさなど欠片も射さないはず。それなのにどうしてか、どうしてか仄暗い淀みの底を思わせる羊膜がこのHySyには張っていて、だあれも居ないふたりきりの日常を純白と形容する事は難しかった。やる事は一般的な恋人達と変わらない。それは比較対象が喰種でも人間でも。

「――イトリ?」

稍した小節。ウタの肩に手手を突き、そうっと身を離すビビが淡雪の声で呟く。置いた拍を時間で表すとしても、ほんの2分、3分程だろうか。それでも、掌で掬えば忽ち溶けてしまう声は引き伸ばした秒針の糸を尾に括り付けており、ゆうたりゆうたりと波をうたせている。向かい合った胸の間を過ぎゆく冷たさだけが疾い。

ウタの言葉がイトリを表しているのだという事をやっと理解した風であるビビはもう一度「イトリ?」親友の名をなぞった。愛する権利を持つウタでさえ今も焦がれている、赤林檎の貴い唇で。「そう、イトリさん。…会いたい?」ビビほどの間を置かず、ウタが縫い紡いだのは分かりきった応えだ。やはり頷いたビビは期待を含む瞳をウタに向けている。猫じゃらしを前に目目をどんぐりにさせる猫か、或いは、“お散歩いく?”の言葉を疑って主人をじっと見上げる犬のよう。

イトリに会ったのは3日前。あの時はスタジオを終えてふらりと出掛けた帰りに立ち寄っただけであった為、仲良く手を繋いで店の鈴を鳴らしたビビ達を振り返ったイトリは「おーどうしたお二人さん!まーた仲良くしちゃって!座りたまえよ!」なんて、画面の文字を介さない突然の来店にも彼女らしい燥いだ声で迎えてくれた。それを聞いて喜びを湛えていたビビは毎日でもイトリに会いたいと、心からそう思っている様だった。どんなに鋳型の毎日を過ごしていても、昨日とは違う時間で寄り添っているのだと、ブリキでもビルを渡るカラスでもなく、ただの文字として四角の中に収まるイトリが教えてくれる。しかしイトリを強請り、唇で媚びるビビは日常と変わらない。ビビはウタを想う気持ちと、色は違えど等しい大きさの愛情をイトリに向けているのだ。たとえ文字だけだとしてもイトリはイトリ。大好きな親友には変わりがなかった。

「じゃあ明日、お店が終わったら一緒にいこっか」

「うん。」

送信完了の知らせをふたりで見送ると、ビビの視線を引き連れたまま、文字のイトリを抱えているスマートフォンはウタのポケットへと隠される。これはビビのスマートフォンだ。しかし、ウタのポケットへ収まる事に首を傾げる違和感は見られない。取り上げられた形となるビビも相変わらずおっとりと瞬いており、立ち上がってしまったウタにもう一度抱き締めてもらう為その腰に腕を回して額を擦り寄せる様子は、“とられてしまった”という意識は持っていないのだろう。ふらり、一歩よれた踵がブリキの如雨露を小突き、ザリリとした、誰が聞いても肩を竦める様な薄気味の悪い音が響く。

風邪ひいちゃうから、と。数分前と同じく肩を支えてあげたウタは暖かい室内へと足先を向け、甘えているビビを腰に引っ付けたまま繊細な指にブリキの如雨露を引っ掛ける。蓮口から落ちる涙はない。昨日と同じ石榴でビビを見下ろしたウタがビロードにも勝る髪に指を差し込み、暖を蓄えた毛玉をもこもこと撫で、追い縋る灰の毛先をそのままにスタジオのプレートを“OPEN”へ返し、再度まあるい頭をよしよしと可愛がり、そうしてまた、華奢で頼りない最愛の肩を穏やかに支えた。

ウタとビビの日常は、どんなに攪拌されようとも愛情が滲む灰色で在り続ける。


ブリキの如雨露



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