- 有馬さんと -



「久しぶり。ビビ」

「?」

「結婚したんだね。驚いたよ」

「けこん?なに?」

「おめでとう。これから隣に住むけど、よろしく」

「?」


人との縁というのは奇妙なもので、随分と前にお別れした元恋人がお隣に引っ越してきた。なんてことはない理由でさようならをしたビビの元恋人、有馬貴将くん。

4区周辺の大掃除をするとかでこのマンションに越して来たらしく、昼夜忙しそうにしている。たまのお休みには暇潰しの相手をしてくれたり、おやつをくれたり、ビビにとってとてもいい人だ。

そんな今日も久しぶりのお休みらしく、お隣のバルコニーから仕切りを飛び越えていらっしゃった。

片手に抱かれているのはビビが予てから欲しがっていた仔ブタ。生まれたばかりにも関わらず高層マンションをジャンプする体験をしてガタガタと震えている。

「ピンクと黒のブチ、まっすぐの尻尾、つけ襟にネクタイ、ふわふわ。ビビの条件に合う豚はこの1匹しかいなかった」

「わあ…かわいい。」

「食べる時は呼んで」

「うん。」

オシャレなつけ襟にネクタイをした小さい仔ブタ。フローリングの上で震えながらも必死に立っている。ぽわぽわした毛並みと床に着きそうな程まん丸いお腹はなんとも可愛らしく、ビビは握っていたくしゃくしゃのティッシュをその辺に放ってから大喜びでピンクのブチに手を伸ばした。

ブヒ、まだ小さい鼻が頼りなさげに鳴く。

「ブタ。ブタ。おいで。」

「なに?」

「貴将ちがう。ブタ。」

「あぁ、豚」

お茶の一つも出さないビビに代わって自らキッチンに立つ有馬が顔を覗かせる。勝手知ったる他人の家で、ビビのおやつと自分の飲むコーヒーを持って2匹の元へ戻った。新しいおやつなど必要ないほどテーブルの上には食べかけのロールケーキやチーズ蒸しパンが転がっており、そして、相変わらずブタは震えている。

「ブタ、なんさい?」

「タケの報告によれば、生後2週間程度」

「2歳。かわいい。とてもまるい。」

「君の方が丸いよ?」

あんよ、あんよ、
ブタの前足を掴んでずるずると引き寄せたビビが両手でぎゅっと持ちあげ抱き締めた。ぎゅうぎゅうと胸に埋まる小さいブタが不安そうな目でコーヒーを飲む有馬に助けを求める。助けを求める。助けを求める。だが目が合わない。

ブヒ、気付いてと遠慮がちに請う鼻はやはり助けてもらえず、上から落ちてくるどら焼きのカスに細かい瞬きを何度も繰り返した。

「あ。」

「…?」

もぐもぐとどら焼きを頬張るビビが目をぱちぱちさせて有馬を見やる。何かを思い出した顔。ぽろぽろ落ちた食べこぼしが頭に降り積もるブタはコーヒー片手に首を傾げる有馬へともう一度鼻を鳴らすが、ダメだやはり気付いてもらえない。一瞬の視線すらもらえない。吸い込んだ鼻にどら焼きのカスが入った。

「貴将。そっち。」

たった今コーヒーを淹れて寛いだばかりなのに、腕をぐいぐい引っ張るビビは早く立てと催促。片手で抱かれたブタの脚が硬直した様にピン、と伸び、今にもずり落ちそうにビビの腕へと引っかかっている。腹にもブチがあるんだな、と思いながら立ち上がった有馬はブタの顔には興味がない。ブタの目など一切見ない。ブヒ、呼ぶ声だけが耳に届いている。返事はないけれど。

連れて行かれたのは先程も立ったキッチン。ビビは大きな冷蔵庫を重そうに開け、ピッと指差す一番上。

「貴将。」

催促をする様に有馬を振り返った。

ビビからはなんの説明もないけれど、ゆっくりおっとりと瞬きをした有馬は少しの思案すらなくブタへ手を伸ばす。

「分かった。貸して」

「や!ブタちがう。ウーちゃんのおやつ。」

「ブタはいいの?」

「いいの。貴将、トマトやっつける。」

有馬の手からブタを守る様に反対側へ捻られたビビの体。あまりの勢いにブタの脚がジャイアントスイングされた様に揺れた。幼気な仔ブタの悲劇。誰も気にしない。

ビビの届かない冷蔵庫の一番上、助けてのブヒブヒを無視した有馬が覗き込むとプチトマトが奥の方に押し込められている。赤々しくまるで赫眼の様なそれはウタのおやつ。ビビの大嫌いなおやつ。

CCGの死神にそれをやっつけろと指図するビビはボウルの中に出してもらった敵を水洗いの刑に処し、背の低い食器棚からもたもたと大きなお皿を取り出した。

いかにも適当に選ばれたそのお皿へプチトマトをボトボト落とす有馬は、これを全てやっつけなければならない。ビビはどうにもプチトマトを食べた時の“ぷちゅっ”が嫌いらしい。凍らせたしゃりしゃりのプチトマトには優しいが生のプチトマトには厳しく、こうして有馬へとプチトマト駆逐命令が下った。


無駄に行ったり来たりをして再度戻ってきたリビングで、お客さんを放ってブタと遊ぶビビを眺めながら、トマトのヘタをぷち、と千切り1匹ずつやっつけていく。テーブルの上へ綺麗に並べられたヘタは駆逐されたトマトの首級。

マイペースにもうひとつ口に運ぶと、カチャカチャカチャ。フローリングを叩く小さな脚音がした。

ビビの元から逃げて来たブチのブタ。有馬の足元でウロウロとうろつき、ブヒ。何かを訴える。けれど、すぐに捕まる。仔ブタの扱いがまるでなっていない小さな巨人ビビに。

「仲良くやれそうでよかった。君には友人が少ないから」

「うん。貴将ありがとう。」

ブタ、とても嬉しい。むぎゅりと抱き締められるブタは本当に楽しそうに脚をバタつかせている――ように見える。有馬の目には。持ち上げられただけで何が楽しいのだろうと不思議に首を傾げた。

だいたい昼間はひとりなビビにやっと出来た可愛い友人は切羽詰まった声で助けを求めるが、やはりダメだった。なお強く締め上げられる。ここにはふたりも人間がいるのに何一つ伝わってはくれず、刻々と過ぎる時間に心の傷は増すばかり。

頭にトマトのヘタを乗っけられ、耳をかぷかぷと噛まれ、首が折れるのではないかと怖くなるほど頬擦りをされる。じ、と見つめてくる有馬の表情は少しも変わらないし、助けてもらえないし、頭はトマトのヘタだらけだし、絶対にワザとやっているとしか思えない程強く抱き締めてくる灰色の毛玉は解放してくれる気配がない。

こんな状況で優雅にコーヒーを飲んでいられる薄情有馬へと、ブヒ。抗議の一言を投げかけてやった。チラ、と一瞥されただけのスカした対応に終わったけれど。

パラパラ降るクッキーの粉も、まだ小さい頭をテーブル代わりにして置かれた蒸しパンも、トマトのヘタも、ブタにはどうすることもできない。

ぶひ、ぶ。
悲しそうなその声。抜け出せない恐怖の館。

未だ見ぬ主人の趣味で飾られた蝶の標本やホルマリン漬けだけが、その心を察した様にライトの反射で以て慰めた。


隣人は土足


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