30分程だろうか。にゃうにゃう苦戦する声が聞こえるなぁと思っていたら、今度は階段を降りてくる覚束ない足音。よたり、よたりと一段ずつの足音に混じってすんすんと鼻を啜る音がする。今にも泣いてしまいそうな、可哀想な音が。 ただ、今日は泣いて降りてくるかなと予想していた為驚く事はない。 というのも、タイミングの良い蛾の焚き付けで朝までウタにじゃれ付かれていたビビは昼になってもぐっすりと、それはもう死体の様によく眠っていた。無理に起こしてまた体調を崩されるよりは起きた時に1人だと気付いて泣かれる方がマシ、と起こさずに置いてきたのはウタの判断だ。 ただ、そんなによたつく程苛めたかな?心当たりはない。控え目に開けられた扉の方へウタは視線を向ける。 「…?」 べそをかきながらビスチェを腕で押さえるビビが顔を出していて、店内のお客さんを見てぼろぼろっと涙を零した、と思ったら扉の向こうへ引っ込んだ。ウタは首を傾げる。今の格好は何かと。上はビスチェだけで何も羽織っていない。 お客さんにあんな格好を見られるわけにはいかないから大人しく引っ込んだのは褒められるが、しかし、あの格好はいったい。 現在マスクを見て回るお客さん、彼の用事はもう済んでいる。頼まれていたマスクは渡したし修理を頼まれたマスクもその場で直した。もう少し見ていたいと店内を散歩しているだけ。なら放っておいてもいっか、とウタは席を立つ。 早足に近寄った扉を開けると、先程と同じ様にビスチェを押さえたビビがへたり込んでいた。片手に握るタオルケットは申し訳程度に膝を温めているがむき出しのデコルテは寒々しい。上にある気配は確かにビビ1人だったし泣くと予想はしていた。だが、それにしても様子がおかしい。俯きの鼻筋を滑る涙が只事ではないと告げている様で、ウタはすぐ側へ膝をついた。 「どうしたの?」 「ウーちゃ…っ」 「おいで。ほら、泣かないよ」 「や…、」 タオルケットを掛けて抱き寄せようとしたウタの手が押し返され、熱っぽく赤い頬をそのままにビビは身を縮こまらせてしまう。うう、と零れる震えた声が乱暴にしないで欲しいと拙く訴えた。スッ、と冷える空気と共に、首筋、胸元の跡を確認する。腕やその他にも特別変なアザ等は見られない。 「ビビ。上、誰かいた?」 「ない、…っ」 「なら血酒でも飲んだ?」 ふるふると否定を示すビビが緩く手を伸ばす。優しくその手をとってやると胸元、を通り越してその背に導かれた。 壁に手を当てて身を捩るビビの背ではビスチェの紐が解けて緩まっている。というより、背面の編み上げを一人で締め上げるのは無理だ。抱く様に胸を押さえる腕、火照った頬、にゃうにゃう格闘していた音、わかった気がする。 「胸、擽ったいの?」 「うう…っ」 こくこくと頷くビビは必死だ。ほんの少しの振動で谷間がぽよぽよと揺れ、またビビの身を縮こませる。 なるほど、心当たりがあった。じゃれ合いの中、チキンレースの延長で散々と胸を構い倒したから。 きっと、擦れるからビスチェで押さえつけたい、でも一人じゃ出来ないと苦戦してスタジオまで降りてきたのだろう。だから、足音もあんなによたついていた。 「ぎゅって…やってっ…、」 「はい、ぎゅう」 「ちがうぅ…!」 むぎゅう、 抱き締めた腕の中でビビが身を捩り、一層胸をキツく抱く。押し殺した様な悲鳴に、店の中まで聞こえたかなと一瞬頭に過るが、ウタさんまたねーの大声と扉が閉まって去る足音。よし、と頷く。 「ひも…っ」 「あ、そっち。…うーん、ちょっと待って」 ふんにゃりと押し潰されている谷間。なるべく擦れない様にと強く押し上げられているその谷間に手を伸ばしてみる。お客さんも消えた事だし、と。 ビスチェの形を整えてもらえるとでも思ったのか、身を捩って壁に寄り添ったまま大人しくしているビビは擽ったさに備えキツく目を閉じている為、壁に手を突いて覆うウタの気配に気付けない。 「よいしょ」 「ぁっ」 むちりとした肉を掻き分けて滑り込んだ手、大人しく収まっていた胸をビスチェの外へ掬い上げる。壁際のビビは逃げを打てず、哀れな先端はぱくりと口に含まれてしまった。昨日と同じ様に、後ろから。 「――っ、」 逆さまに舐められる胸が擽ったくて、むずむずして、もう嫌だと大粒の涙が胸元に落ちた。振り切れた擽ったさに拒否の声すら出ない。 「わ。…え、ごめん」 「ぅ…っ…ぅ…」 ぼたぼた、と降る涙に顔をあげれば本格的に泣いているビビ。ひっくひっくとしゃくり上げるその胸元には引っ切り無しに水滴が叩きつけられ、流星の様に谷間を落ちていってしまう。まさかここまで泣くと思わないウタは恐る恐るビビを抱き込むが、擦り切れる嗚咽。諦めた様に抵抗すらしない。 濡れる胸を袖口で拭うとまた擽ったそうにビビの唇が噛まれ、俯きの涙が袖口に落ちた。どうしよう。 「…ビビ、こっち向いて。ちゅってして」 「っ…、っん」 どこか気怠そうに、されどこんな時まで従順に顔を上げたビビが凭れる様に唇を触れ合わせる。が、すぐに離れウタの胸元へと頬が預けられる。泣きのスイッチを入れてしまった様で、ウタもしょんぼりと眉を下げビビの肩を摩るが呼吸は浅くなるばかり。 怒ってる?もうきらい?小さな問い掛けに首は横に振られ、何かを伝えようとしてくれた唇からはただ嗚咽だけが零れた。泣くのを我慢する、という事はビビ本人にとっても難しい。 「このままだと、苦しくなっちゃうから…」 依然としてやまない横隔膜の痙攣は呼吸数を増やしている割に上手く吐き出せていない。あまりこの状態が続くとビビは過換気を起こしてしまう為、ちょっとした悪戯で済まなくなる前に可哀想でも呼吸の制限をしなければならない。こくり、と頷くビビもよく理解している筈。謝る事は後で幾らでも出来る、まずは。 「…息止められる?紐、縛る間だけ」 「っ…へいき、」 ある意味、ビスチェでよかった。早く編み上げを絞って欲しいビビは従順に頷く。なるべく肺が膨らまない様に圧迫してから呼吸を止めさせ背面の紐を縛り上げると、胸に顔を埋めるその唇が苦しそうに喘いでいる。 もういいよ、と告げられ息を吸い込んでも、ビスチェに支えられた胸は上手く膨らまずに息苦しい。余計に呼吸が早まるビビの鼻と口を袖に隠れた掌がおさえた。 「泣かないで…ごめんね、大好き」 「ぅ、…っ…」 抱き込まれて制限される呼吸。柔らかい袖に受け止められた二酸化炭素がまたビビへ戻り、傾きかけた血液中の濃度をゆっくり整えてくれる。酸素と二酸化炭素のバランスが整って始めて呼吸は落ち着くもの。パニックにさえならなければ。 満足に呼吸ができない状況というのは、恐らくどんな動物であろうと大きな恐怖心を持つだろう。単純な話で、呼吸が出来なければ死んでしまう。過換気の様に生き死には関わって来ない場合でも、普通は呼吸の異常に恐れを成して混乱状態に陥るもの。ましてや自分以外の個体に口元を覆われるなど。 やはり怖がって口元を覆う手を引き離そうとしたビビだが、額に頬を擦り寄せて宥めると何とかウタの呼吸を真似てゆっくりと胸を上下させる。ウタの判断には従うべきだとビビは知っていた。 すぐ側で聞こえる心臓の音、ウタの呼吸、温かい体温。次第に治まる嗚咽をみて、ウタは少しだけ編み上げを緩める。荒療治ではあった為、呼吸が落ち着いたなら制限を解除しなければ今度は酸欠になってしまう。すん、と小さくなった嗚咽はもう呼吸の邪魔にはならない。 涙で束になった睫毛が持ち上げられ、すぐ側のウタを見上げた。薄暗い部屋での蒼色は、涙まで蒼い。 「…もう平気?」 「ん、…。」 「よかった。こんなに泣くなんて、…思わないから…ごめんね」 焦った、ともらした安堵の溜息がビビの睫毛を揺らした。ゆっくりと離した制限の手は涙でしっとりとしていて、覗いた唇は泣いた子供と同じ様に真っ赤になっている。美味しそう、とじゃれ付きそうになる気持ちを今だけは抑えて、頬に残る涙を親指で拭った。 きつく押さえられた胸はもう気にならない様で、ずっと袖口を握ったままのビビが小さくごめんなさいと零し、ぎゅうっとその腕を抱き込む。ウタの悪戯に怒っている様子はみられず、逆に何かを反省しているかのような。ビビは悪くないでしょ、つんとした鼻先にちゅっと伝えた。 泣いて熱くなった身体が冷える前にと自らの上着を脱いでビビに着せる。当然サイズが合わずに寒々しいままのデコルテはビビお気に入りのごわごわタオルケットを羽織らせてケープ代わりにさせた。ウタが着てもだらりと垂れる袖はそのままに、ビビは大人しくタオルケットに包まっている。従順に。 「寒い?」 「へいき、」 「うん、じゃあ…今日はこのまま下にいて?ビビとひっつき虫してたい」 「なにむし…?」 「ひっつきむし」 「ひっつきむし。」 「こうやって、ぎゅうってしてるコト。ビビもひっつき虫になって」 「うん。…ひっつきむし。」 こうかな?と抱き返される温かさ。ただ、それも少しの間ですぐ離れてしまう。あってた?と言う様に首を傾げるビビはおそらく、ハグとウタのいうひっつき虫の区別がついていない。 「んー。少し違うかな」 「むずかし。」 「簡単だよ。教えてあげる」 よいしょ、と抱き上げて店内の作業スペースへ歩むウタを見上げて、泣いて怠そうなビビは思い出した様に言葉を零す。 「べそむし?」 「なに?それ」 「いもむし。」 「いもむしの種類?」 「うん。」 あ、今の “うん”は適当。そう察したウタの脳裏に、そういえばと浮かぶ会話がある。 いつだかイトリが来た時に、2階からべそ虫だの芋虫だのという話が聞こえていた。その時の会話をビビは思い出したのだろう。曖昧に、間違って。べそ虫って探せばいそうだねと笑ったウタに、ビビはまたうん、と頷いた。 抱いたまま椅子に身を置き、膝に座らせたビビを後ろからぎゅうっと抱き締める。ぴったりと重ねた頬が擦り寄せられ、柔らかい唇がウタの口端をあむ、と啄ばんだ。上唇で撫でられるピアス。舌先を擽られた様な昂りを隠して、そのつんとした唇を啄ばみ返した。 「ビビ、ひっつき虫」 「うん。あったかい。」 「…離れないで。離れたらひっつき虫じゃなくなるよ」 「うん。」 タオルケットの下から腹を抱くウタの手が身を離そうとしたビビを引き戻し、やんわりと絡めあった指はお互いの指輪を撫でて愛しく触れ合った。 ひっつき虫の意味をなんとなく理解しつつあるビビは離れないでの言葉通りに大人しく抱き込まれ、後ろを振り返ってはウタの唇を強請る。片手で筆を引き寄せたウタがマスクの塗装を始めても、振り返っては唇を強請り、また振り返っては唇を強請りとじゃれ付く。その度にちゅう、と唇を合わせるウタも飽きる事はなく、ビビの相手をしながら器用に筆を動かし作業を進めるものだから、ビビのじゃれ付きも身を引く事はなかった。 タオルケットの下。腹に回した手が這い上がり、ついいつもの癖でビビの胸を包む。ところが、掌に触れたのは硬くて分厚いビスチェの生地。いつもならここで、ぽわぽわとした肉が掌に触れてふにふにと弄べるのに。そのままするすると上へ登り、やっと柔らかい谷間を撫でられる。でも下からふにふにが出来ない。大泣きをする程嫌がっていたのに今やウタが触れても平気なくらいキツく押さえられたビスチェは頑なで、ウタは仕方なく谷間をぷにぷにと指で押した。 「………ビスチェ、嫌い」 「?」 ふに禁の日々が始まる。 悪戯の散弾射創 |