調和主義とガンコさん


及川が柳野を殴った。
正確には平手打ちだけど、あれは殴ったといっていいだろう。
もろに喰らった柳野は床に叩き付けられて、流血する事態。
えっなにこれドッキリ?疲れすぎて俺は幻覚でも見たの?
色々と衝撃的すぎて、思考回路がわけのわからないものになる。
けど口の端から血が出ていて顔半分が赤くなったままの柳野を真正面から見て、これは現実だってことに心底寒気がした。

「…血、止まったか?」
「…うん。もう大丈夫みたい。」

柳野が押さえていたタオルを外すと、口の端は血が固まったのか赤黒く、その周りはうっすら紫になっている。どうやら歯は折れてなかったが、口の中は随分えぐいことになっているらしい。今も柳野の口内は鉄の味がしているのだろう。想像するだけでも嫌だ。
タオルには生臭い染みができていて、きっと洗っても完全に落ちない。布に染み込んだ生々しい赤色が、否が応にもこれは実際に起きたことなのだと突き付ける。

「…次こっちな。」

濡らしてきた松川のタオルを手渡せば、申し訳なさそうに柳野は受け取り、まだ赤みの引かない左頬に当てる。
あの及川の力加減皆無の平手を食らったんだ。きっと明日は腫れるに違いない。

「花巻くん、タオル汚してごめんね。新しいやつ買ってくるから。」

困ったように笑う。
自嘲気味だったのは否めなかったが、有無を言わさぬ圧力も背筋が凍るような冷たさもない。
…いつもの柳野に見える。
真面目で、控え目で、誰にでも当たり障りのない人畜無害な優等生。

「いいよ。大したもんじゃないし。」
「でも、」
「柳野。」

まだ続けようとする柳野を遮る。
いつもの柳野になってくれているのは、こちらとしてもありがたい。正直ほっとしてるし、安心する。
でも、つい数分前のゾッとするようなおまえを見てしまったことも事実なんだ。
あれは本当に柳野だったのか。あまりにも普段の柳野とかけ離れ過ぎていた。何か乗り移ってたんじゃないかって思うくらい、別人だった。

「何があったわけ?」

あのとき。
せっかく柳野が俺を巻き込まないよう配慮してくれたのに、無駄にしてしまったのは我ながら悪かったと思う。
ただ俺の中であのままおとなしく引き下がる選択肢は無かった。
だって無理だろ。絶対何か良くないことが起きるって思うだろ。
そして見事に悪い予感は当たってしまって、こんな事態に陥っている。

「ぶっちゃけ俺は今もおまえらの間で何があったのか正しくは理解してない。よくわかってねえ。でも、おまえと及川があんだけ派手なドンパチやったのは米原が関わってたんだろ?」

二人とも見たことがない剣幕だった。
激高してる及川は獰猛な獣みたいに荒々しかった。
逆に柳野は怖いくらい落ち着いてて、普段の温厚さは微塵も感じられなかった。
その二人が言い争ってた理由は米原だってことは分かった。

「なあ、ほんとに何があったんだよ。なんでこんなになるまでほっといたんだよ。」

ちゃんと知りたい。なんとかしたい。そう思うのは当たり前だろう?
だって三年間ずっと一緒にやってきたんだ。
ダチが悩んでるなら、話を聞くことくらい俺にだってできるんだから。

「………。」

しばらく柳野は無言でうつ向いていたが、またゆっくり顔を上げる。
いつもの困った笑顔でこう告げた。

「なんでもないよ。」

完全なる拒絶だった。
おまえは関係ないと暗に言ってるようなものだった。
話すことなんて何も無いってこと?
おまえがあんなにぶっ壊れた笑いをしてたのに?
及川がおまえに手を上げるくらい激高してたっていうのに?
米原がおまえと喧嘩してから今日まで来てないっていうのに?
それでも「なんでもないよ」で済ませるんだ?

へえ。ふーん。そうなんだ。わかった。

…そんなふうに笑って流せるほど俺は大人じゃない。
たまりにたまって抑えていたものが、腹ん中で沸々煮えたぎる。
ここまで来て関係ないって言うのか。
ふざけろ。


「……なんでもないわけねえだろうが!!」


静かだった体育館に反響する張り上げた声。
紛れもなく己の発したものなのだが、その怒号に自分で自分に驚いて我に返る。
柳野の呆気に取られた顔は、一度堪えるように歪んだ。

「…悪い。」
「ううん…花巻くんが怒るのは当然だもの。」

違う。そうじゃない。責めてるわけじゃない。
気持ちを落ち着かせるために息を深くゆっくり吐いた。

「…俺、今のメンバーさ、ほんとに最高だって思ってんの。良くも悪くも言いたいこと言えるし、気兼ねなくいられる。」

自分が遠慮なく頼れる人間がいるって、ものすごくラッキーなことなんじゃねえの?
相手が困ってたら損得考えず手を貸したいって思えるって、そうそう出来ないんじゃねえの?
でも全員そう思えるんだよ。ここの奴らは。
その中にはアイツらだけじゃなくて、当然おまえらマネージャーだって含まれてるんだよ。

「これでバラバラになるのは嫌なんだよ。だって俺ら三年なんだ。もう最後になるんだぜ。このままは嫌だ。」

感情が高ぶって視界が滲む。声が震える。ついでに鼻水も垂れてきそうになった。流れてこないよう、すする。

「づまり、俺が何が言いだいっでいうど…。」
「えっ…なんで花巻くん泣いて…?」
「泣いでねえっ。」
「いやでも、えっと、あの、ティッシュあるから使って?」
「泣いでねえがらっ!あどディッジュば今おまえが必要なもんだろうが!俺に渡じでどうずんだ!」
「ご、ごめんなさい…。」

だがしかし。
空気を読まず鼻水は垂れてくるので差し出されたティッシュは使わせてもらった。
ズビーッとでかい音を立てつつ、しっかり鼻をかんで、鼻も視界もスッキリしたところで話を再開。

「つまり、何が言いたいっていうと。」

まっすぐ、柳野の目を見た。
心配そうに俺を見ているのは確かにいつもの柳野で、少し安心した。

「俺ら仲間なんだから、ひとりで背負うな。 」

柳野は何か言おうとしたのか、口を開きかけたが結局閉ざした。
再びしばらく無言になって、また困ったように笑う。

「…うん。」

それ以上、柳野が何か続けることはなかった。
わかってくれてる。納得もしてくれてる。でも柳野は言わない。
なんでだよ。俺達はそんなに頼りないのか?
俺のほうがしんどくなって、想定外にきつくなってきて、再び柳野の顔がぼやけてくる。
柳野の焦るような、戸惑うような表情はぼやけてても手に取るように分かった。

「なんで花が泣いてんの?」

扉の開いた音が聞こえれば、松川が荷物を持って立っていた。

「泣いでねえ。」
「涙目で言われても説得力ないから貴大くん。あと鼻水たれてるよ。」
「うるぜえ。泣いでねえっで言っでんだろ。」
「はいはい、ごめんね。」

俺の睨みを軽くいなして、松川は荷物を脇に下ろす。俺のカバンもある。どうやら部室から持ってきてくれたらしい。
俺はティッシュで鼻をかんだ。強くかみすぎて痛い。今度こそ涙腺を緩めないよう気を引きしめた。

「松川くん…。」

柳野がどこか不安そうに松川を見上げる。
松川はしゃがんで、柳野の口元を見て眉根を寄せた。
柳野の傷を見るその目は険しかった。

「…柳野、明日は部活休めよ。」
「え?」

松川が言ったことに「なんで?」と言わんばかりの柳野。
…今一度、怒鳴りたくなった俺は悪くない。

「え?じゃねえ。おまえ、明日も来るつもりだったのかよ。」
「そうだけど…。」
「却下。ぜってー却下。」
「俺も花と同じだね。」

諭すように松川が続ける。

「休まないとダメだよ、柳野。 念のため病院行って診てもらったほうがいい。部活が心配なのはわからないでもないけどさ、柳野が休んでも大丈夫だよ。うちの部にはもうひとり敏腕マネがいるし、気配り上手な後輩多いし。」
「だけど。」
「俺も松も、迷惑かけるって思うなら、まず傷治すこと優先しろって言ってんだよ。」

困り果てたように柳野は俺と松川を交互に見る。

「監督と唯川には俺から言っとくし。」
「そうだな。松から言った方が唯川も納得するわな。」

柳野は黙っていたが、やがて観念したように一言。

「…はい。」

俺らが望む返事をして、柳野は苦笑する。

「さて、俺らも帰りますか。」

柳野の返答を聞いて、松川が立ち上がった。



着替えを済ませて昇降口で柳野を待つ。
及川に遭遇するかもしれないと思ったが、松川が「あのゴリラなら俺達が帰るまで檻から出てこないから」と真顔で断言したので大丈夫なんだろう。
今更だが、及川を止めに行ったとき結構ガチだったな、松川。俺はショート寸前だったけど。
パタパタ小走りで更衣室のある方面から柳野が見えたので、三人で昇降口を出る。
他愛のない話をしながら、帰路を歩いた。
柳野は変わらず笑ってた。

「あ、私、こっちだから。」

分かれ道で、柳野が指差す。俺らは柳野と反対の方向。

「結構、道暗いな。平気か?」
「慣れてるから大丈夫だよ、花巻くん。」
「家まで送る?」
「ありがとう、松川くん。でも本当に大丈夫だから。」
「…そう。なんかあったらすぐ連絡な。」
「松川くんは大げさだなぁ。大丈夫なのに。じゃ、またね。」
「おー、じゃあな。」
「ばいばい。」

柳野が手を振ってから、背を向ける。
薄暗い道をひとりで歩くマネージャーの後ろ姿を見えなくなるまで俺らは見送っていた。

しばらく俺と松川は無言だった。

「俺達も行くべ。」
「ああ。」

松川が一歩踏み出して、俺もそれに続く。

「…柳野、フツーだったな。」

いつもの柳野だった。それこそ違和感を覚えるくらい、いつもの柳野だった。
すっかり夜になった空を仰ぐ。独り言みたいな呟きだったけど、松川は拾ってくれた。

「…柳野は普段通りにすることで、自分を保ってるんだろうね。泣かないって、弱音を吐かないって決めてる。そんで何も言わない。俺達に頼ることは柳野の中でアウトなんだろ。」
「どんだけ鋼メンタルなんだよ、柳野は。なんで笑ってられるんだよ。」

ここまでくると鋼メンタルというより、ただの頑固者だ。
周りに言わない。頼らない。自分の意思を貫き通す。
普段と変わらない笑顔なのに、俺でもわかるくらい時折ひどく痛々しいものになっている。
その笑顔を見るこちら側にもなってほしい。どんだけHPすり減ってることか。

「…そうだな。俺個人としては、今柳野ひとりにさせとくべきじゃないって思ってる。けど本人は望んでないわけだしな。柳野がひとりになりたいって思ってるなら、無理強いはしたくないけど。」

松川が俺と同じく夜空を見上げる。

「甘えてくれていいのにな。」

ぽつりとこぼした松川の一言に同意する。

柳野だけじゃない。
今は来てないもうひとりの俺達の大切なマネージャーにもいえることだ。
大きく深呼吸する。
よし。明日も俺はやれる。俺は俺で俺のやるべきことをするだけ。気持ちを切り替える。

「じゃあ、松、また明日な。」
「おー、お疲れさん。」

松川と別れて、俺は家路を進んだ。

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