ジャッジメントとヒロイン

マネージャーへ己の右手を振り上げる主将。

重い扉を開けて、視神経が脳に伝えた映像は瞬きする暇すら与えてくれないほど強烈だった。
鍛え上げられた腕力で空気を切る音が数メートル離れた自分達まで聞こえた。
制止する間もなく、男の平手が女の子の左顔面に食い込む。
自分達は男女の体格があまり変わらない小学生じゃない。身長差も体力差もある高校生だ。
本気で手を上げればどうなるのか。考えなくとも分かる。
しかも打つ側があの殺人サーブを繰り出す馬鹿力の持ち主だ。

そんなもの女の子が受け切れるはずがなく。

当然、彼女は吹っ飛んだ。勢いのまま床に叩き付けられた。骨が砕けたのではないかと思うほど轟いたコートは鈍く震動する。空間に音が無くなる。呼吸さえも大きく聞こえるほどの静けさに覆われる。

あれは練習や試合でボールを打つときとは明らかに違う。
バレーをしている最中は多少の荒さがあっても頭の中はわりと冷静だ。
どう動くか。どこに当てるか。練習を反復していけば、もちろん感覚的なものになっていく。
だが、あくまで自分のものとして身についていることが前提になる。

これはまったくの別物だ。己の感情がままに荒く、理性なんてものは感じられなかった。

よく報道番組で「衝動的にやった」と聞くが、偶然その場を見た人間はどんな気持ちなのだろうか。
床に伏したまま動かない彼女を見て。
突っ立ったままの動かない彼を見て。

「え…?」

隣から小さく発せられた困惑と混乱の声を合図に俺は大股で近づいた。奴の首根っこを掴みバランスを崩される前に片手でスリーパーホールド。

「はい、そこまでー。」
「…まっつん。」

普段と変わらぬ調子で言えば、呆けた及川の目と合った。視界の端に遅れて駆けてきた花巻の青い顔が見えた。

「とりあえず、及川。おまえ、連行な。」

俺が拒否権はないことを告げれば、及川はそのぼんやりした両目を足元へ移した。
正しく表すなら、うつろな目というのかもしれない。茫然自失とは、こういう状態をいうのだろう。
いつものウザさも無ければ、試合のときの頼もしさも無かった。
最も俺からしたら腑抜けな間抜け面にしか見えないし、寝起きのような覇気がない声にも喝を入れたくなる。

「柳野?おい、大丈夫か?柳野?」

震える声が聞こえた方へ目をやれば、柳野をさすっている花巻。
声だけではなく手も震えている気がした。
数回肩から二の腕あたりを往復すれば、小さな呻きが聞こえた。花巻のさする手がとまる。

「柳野…?」

恐々と花巻がまた呼び掛ければ、応じるように柳野がゆっくりと体を起こし始める。
俯いたままだったから 柳野の顔は見えないが、ひとまずは意識があることに内心胸を撫で下ろす。
俺と同じく花巻も安堵したのだろう。ホッとしたように口を緩めたと思えば、瞬く間に蒼白になった。

「おまえ、それ…」

花巻が指差したのは柳野の口の端。
目を凝らして見れば、生々しい赤で濡れていた。

言うまでもなく、血だった。

舌を噛んだのか、口の中が切れたのか、歯が折れたのか。
どれにしたとしても、床に叩きつけられた衝撃が相当なものだったのは明白になった。

俺の中で、何か、逆流しかけた。

「血ーっ!血だよな?そうだよな!?え、流血中?流血なうだよな!?保健室?違う救急車?いやまず止血!抑えるものだよな!ティッシュ!ティッシュ!!だー俺ティッシュ今持ってねー!なんかあったっけ?なんか布的な何か!」
「あ、私、ティッシュ持って」
「あ!とりあえずコレで抑えとけ!安心しろ未使用!」

今まで堪えていた緊張の爆発故か慌てふためいた花巻はポケットから小タオルを取り出し柳野の口元に押し付けた。
力が強かったのか若干涙目になり「痛い…」と訴える柳野に花巻は更にあたふたする。

…うん。なんか大丈夫そう。二人の微笑ましいコントを見て幾分落ち着いた。
不謹慎だが、ありがとう花巻。
君のおかげで少し冷静になったわ。

「花巻」

花巻の肩が跳ねて、俺の方に体ごと向ける。

「柳野のそばに居てやって。あとほっぺも冷やしたほうがいいからコレも濡らして当てて。」
「お、おう。まかせろ。」

俺の未使用タオルを投げて寄越せば花巻はナイスキャッチ。
少し上擦った返事だったが、まだ動揺が残っているだけだろう。

「さて、及川くん。俺らも行きますよ。」

スリーパーホールドの状態のまま、ずるずる犯人を引きずりながら俺は体育館をあとにした。


・・・



いつまで経っても戻ってこないから様子を見に行けば、体育館の外の小窓に張り付いてる花巻。
声をかければ「柳野が壊れた」と真っ青な顔で答えるもんだから俺も窓を覗けば修羅場中。
遠目でも分かるくらい及川は激昂してて、親の敵でも見るような目をしてた。
ひとまず二人を落ち着かせるために花巻と突入したら、これだ。
ほんと見事なフラグ回収だよ。嫌な予感ってのは当たるもんだな。
誰もいなくなった部室に及川を文字通り放り込む。
多少よろけながら、及川は自身のロッカー前で力尽きたように座り、膝を抱える。
俺も部室の出入口に背を預けた。

「おまえ何してんの?」
「…別に何も。」

及川は変わらず覇気のない声音で返答し、膝を抱える腕に額を押し付けた。
あからさまにすぎて笑う。しらを切るんだったら、もっと堂々してくれないかね。
そんなんじゃ肯定してるようなもんだろう。
本人的には相当参ってるのかもしれないけどな。

「ほー、おまえは何もないのに女の子に血を出させるくらいブッ飛ばすのか。とんだDV野郎だな。」
「まっつんには関係ないでしょ。」

関係ない、ね。確かに言えてるな。
二人の問題なら俺が口を挟むべきじゃないんだろう。個人同士の問題に首を突っ込むのはやぶさかではない。

「そうだな。俺には関係ない。でも、おまえはうちの部の主将で、柳野はマネージャーなんだよ。主将が暴力沙汰?何それギャグ?全然笑えないから。これが原因で大会に出られなくなったらどうするつもり?最悪の可能性を考えろって言ってんの。このアホンダラ」

これが学校外で起きていたら、また違っていたのかもしれない。
でも、そうじゃなかった。
俺達の聖域といっても過言ではない場所で起きた。
この意味をコイツは理解しているのだろうか。

「だったらアイツが辞めればいい。」

絞り出すような、聞き取りにくい声だった。

「アイツが辞めたら部員じゃなくなる。バレー部とは無関係だ。アイツが辞めれば楓が戻ってこれる。楓の居場所ができる。ぜんぶ元通りになる。」

熱に浮かされてるみたいに喋る及川は中毒患者のよう。
口を開けば「楓」だな、この男。
幼馴染が大切なの多いに結構。問題ない。だが、今はその話ではない。
柳野が辞めたとしても根本的なところは解決しない。
仮にも付き合っていた女の子に手を上げる、など言語道断。
心配するどころか殺意を含んだ目で、元彼女を見るもんじゃない。
微塵も心配してないってどういうこと?

ー初めから、瑞穂なんか好きじゃなかった。

唯川の震える声が頭によぎる。
好きじゃないヤツにわざわざ告白して付き合うってどういうわけ?
今までの相手と付き合い方が違ったのは、 柳野が心底どうでも良かったから?
遊び?気まぐれ?

なら、柳野と付き合おうとしたキッカケは?

「及川さぁ、柳野のどこが好きだったの?」
「......。」

魂ここにあらず、なのか、及川は何も答えない。

「なんで柳野と付き合ってたの?」
「……。」

これも答えない。いや、答えられない、か。
返答次第じゃ殴ろうかと思ったけど、黙秘されちゃ手も足も出せない。
せめて及川が今どういう表情なのか窺えれば良いのだが、あいにく顔を伏せたまま。
俺は深く息を吐く。

「好きなところも上げられない子と付き合ってたのかよ?意味不明なんだけど。」
「……ム。」

ぼそりと及川が呟いた。

「何?」
「罰ゲーム。」

ようやく聞き取れたと思えば、一言。しかも悪い意味で使われる単語ときた。
ゆっくりと顔を上げていく及川。その目は相変わらずうつろでぼんやりとしていた。

「罰ゲーム。そうだよ。罰ゲームだよ。あんなやつ興味なんかなかった。景色と一緒。ただの風景。居ても居なくても変わらない。だったら最初から居なきゃ良かったのに。」
「……へえ?」

自分は棚に上げて、いけしゃあしゃあと良くいえたもんだな。
罰ゲーム、ね。なるほど。
罰ゲームを受けることになったやつがいるということは当然提案者もいるわけだ。
柳野と付き合うよう及川に言える人物。
おそらく及川と近しい間柄。加えて柳野のことも良く知っている。
俺の知ってる人間でひとりしかいない。

「…そこまで言うのに、柳野をすすめた米原には文句も何も無いんだな。」

及川の幼なじみであり、柳野の親友である米原だ。

「…まっつん、覗き見なんてイイ趣味してるね。」

米原の名前を出せば、及川が小さく反応を示して俺を忌々しく睨む。
図星か。
どうやら今のコイツは余裕皆無みたいだ。
普段ならこんな簡単なカマかけに引っ掛かるヤツじゃない。
…できれば、そうじゃないって信じたかったけど、これで確定してしまった。
及川と柳野が付き合い始めたのは、影で 米原が動いてたからか。

「それはどうも。ま、内容把握するほどじっくり見てねーけどな。とりあえず分かったのはヤバいってことだけだよ。」

もしかして二人が付き合うことになったのは 米原が関わってるんじゃないだろうか?
そう思ったのは唯川と花巻と俺の三人で集まったあの日。
唯川が俺を柳野にすすめておくんだったと言ったとき、ふとよぎった推測。
及川と柳野が付き合い始めたのは、誰かが及川に柳野を推したから?
もし、その誰かが及川と柳野の二人に近い存在であったら?
考えると合点がいくところもあった。
あとは消去法で“誰か”を当てはめれば、おのずと残るのは、米原になった。
ただ確証は無かったし、あくまで俺の勝手な考えに過ぎなかったから誰にも話さなかった。
今にして思えば、話しておくべきだったのかもしれない。

「…楓が言ったんだ。アイツと付き合えって。お似合いだよって。なんで?なんで楓はそんなひどいこと言えるの?俺には楓しかいないのに。楓以外いらないのに。なんで俺ばっかりこんな目に合うの?」
「さあね。」

再び膝を抱え伏せる及川に白眼視を送る。
どこの悲劇のヒロインだよ。
要するに「こんなに頑張ってるのに、みんな分かってくれない!私の何がいけないの!」って言ってるわけだろ。
知るか。自分に聞けよ。自業自得って言葉教えてやろうか。先生だって呆れるわ。
なんでこんなふうになっちゃったのかね。
こういうの、なんていうんだっけ?

「俺は楓がいてくれなきゃだめなのに…」

執着。いや、依存かな。

「おまえが誰と付き合おうが、誰が好きであろうが、おまえの勝手だよ。俺は口出しする気ないし、関係ないし、興味もない。」

…なんとなくだけど、きっと米原も及川と同じなんだろうと思う。
米原は及川にわりと辛辣だけど、本当の意味での拒絶は無かったように見えた。
いわゆる共依存ってやつ?お互い断ち切れなくて生ぬるい中にいる的な関係。
まあ、どうでもいいんだけど。

「本人同士が問題ないなら、俺はそれでいいよ。でもな、及川。」

柳野と付き合っているという話を聞いたときは正直信じられなかった。
及川が公言してた好みとも違ったし、今まで付き合ってた女とは真逆だし。
それに及川にしては随分プラトニックな清い付き合いしてたし。
まあ、付き合い方は人それぞれだ。相手が柳野だから彼女のペースに合わせてるのだろうと結論付けた。
色々と疑問は尽きなかったけど、当人同士が良いのなら俺は構わなかった。
柳野は本当に嬉しそうで、端から見ても幸せそうに笑っている場面を何度も見た。

だが現在進行形で彼女は今どうなっている?


「自分のしでかしたことは認めないってありえねえから。」
「だってアイツが…!」

顔を上げた及川の顔は、まさに醜いって言葉の意味そのものだった。

「だってアイツがいちばんの元凶で!アイツさえいなきゃ何も起きずに済んだのに!なのにアイツは俺に甘えるなって!俺が悪いって責める!アイツがぜんぶわるいのに!」

癇癪を起こしている幼児のように喚く。うるさい。つか、幼児そのものか。頭を抱えたくなる。俺は保育士でも幼稚園教諭でもない。おまえの先生になるつもりもない。
コイツの精神年齢はいくつだ。

「じゃ聞くけど。柳野は自分が原因ってこと認めなかったの?自分は悪くないって、おまえに言ったの?おまえのせいって責めたの?」

及川は口ごもる。言ってないんだな。
そうだと思った。真面目な柳野が自分のしたことに対して投げ出すわけない。
ちゃんと自分の中で受け止めて、どうすればいいのか模索する。
授業も部活も休まず出ているのは、公私混同してない証拠だろう。
ある意味、誰より一番ドライで割り切っているのかもしれない。

「たぶん柳野はおまえを責めてないよ。責めてるとしたら、おまえが米原をもっとしっかり見ろってところなんじゃないの?自分が負うべき役割を押し付けられたら甘えるなって言いたくなるわ。」
「俺は…」

言葉が続かない及川に、俺は本日二度目の溜め息をついて、ロッカーから荷物を出していく。
俺と花巻の二人分を出入り口付近に置いて、俺は及川の前に立つ。
及川が俺を見上げた。

「まあ?どんな理由があったとしても女の子に手ぇ上げる野郎は最低だよな。」

そのまま俺はしゃがんで及川と同じ目線になる。
及川が口を開く前に、胸ぐらを掴んだ。




「次はないから。」




掴んでいた手をパッと離せば、間抜け面の及川を残して荷物を持った。

「そんじゃ戸締まりヨロシク。キャプテン。」

俺は扉を閉めて、体育館へ向かった。

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