大馬鹿野郎とマゾヒスト
胸倉を掴まれているというのに、目の前のこの女は顔色ひとつ変えない。
腹立たしいほど落ち着いていて、憎らしいほど真っ直ぐに俺の両眼を見ている。
焦りもない。動揺もない。ただただ無表情。
気に入らない。とてつもなく不愉快。苛々する。
「おまえ、今の状況わかってんの?ねえ?わかってんの?」
腸が煮えくり返って爆発しそうだ。
ぜんぶ、ぜんぶコイツのせいで。
コイツのせいでぜんぶ狂ったんだ。
「おまえがいなきゃ、ぜんぶうまくいったのに!」
俺が求めてるのは楓だ。
楓が居ればそれだけでいい。
なんで好きでもない女と付き合った?
楓に振り向いてもらうため。
楓に俺のことを意識させるため。
楓以外の女になんか興味無い。
うるさくて、耳障りな奴ら。
俺が好きなのは楓。楓だけ。
楓だけなんだよ。
「おまえのせいでメチャクチャになった!楓が泣くのはぜんぶおまえのせいだ!おまえさえいなきゃ楓が傷つかずに済んだのに!」
どこから狂った?
とこから間違えた?
ぜんぶコイツが現れたせい。
コイツが楓と友達にならなければ。
コイツが楓によけいなことを言わなければ。
コイツが楓を追い詰めなければ。
俺は、俺と楓は笑っていられたのに。
なんで。
どうして。
こんなことになったんだ。
「わかってるよ。」
感情を削ぎ落とした声が聞こえれば、真一文字に結ばれていた唇がゆっくり弧を描く。
「ぜんぶわかってるよ。」
コイツはわらう。わらっている。
わらってるけれど、わらってない。
目が一切わらってない。
嗤笑?冷笑?嘲笑?どれだろう?
いや、どれも当てはまるのだろう。
見下してんの?ふざけるな。
そんな目してんじゃねえよ。
俺をそんな目で見るんじゃねえよ。
俺に不快な思いをさせるんじゃねえよ。
不快。不愉快。うっとうしい。
まるで嫌な女そのもの。醜く忌々しい嫌な女。
ああ、苛立ちが募っていく。
コイツが俺の前にいることが、心底胸くそ悪くて吐き気がする。
「わかってるんだったら、よくのうのうとしてられるな!」
「そうだね。でも及川くん。だったら、あなたはどうなの?」
コイツの目が白く光る。
「あなたは今ここで何をしているの?」
自分の首に氷の手が掛けられたみたいだった。
一瞬の寒気と動揺に怯みそうになった俺に構うことなくコイツは淡々と告げていく。
「あなたは言ったね。"岩ちゃんから聞いたよ?"って。岩泉くんから聞いたってことは、あなたは楓ちゃんに会ってないってことなんじゃないの?」
否定できない。
なぶるように首が絞められていく感覚。
絡み付く無機質な手は決して強くない力で徐々に確実に俺の体温を奪って弄ぶ。
「楓ちゃんが心配なら私に構ってる時間が惜しいでしょ?なのに、あなたはここにいる。どうして?理由は?答えは単純。」
曲線だったコイツの唇が再び直線になる。
なんでコイツがこんなに臆せずにしていられるのか意味が分からない。
「何故ならあなたも私と同じ楓ちゃんを傷つけた人間だから。」
氷の手が一気に俺の首を絞めた。
冷たい。苦しい。痛い。息が出来ない。
やめろ。やめろやめろ。やめろやめろやめろ。
「違う!」
俺は氷の手を振り払い、己の右手に力を込めた。
「楓を一番傷つけたのはおまえだろ!」
そうだ。
楓を傷つけたのはコイツ。コイツなんだ。
あの日。
左足の調子が良くなかったから養護教諭に診てもらって部室へ向かう途中だった。
渡り廊下で暗い表情の楓とコイツが対面しているところを見かけた。
湿った匂いと重たい空気が混じり合っていて、直感的に嫌な感じがした。
近づいて行けば、予感的中。
楓とコイツの話してることが全て聞こえたわけじゃなかったけど、概ね把握した。
コイツが楓の前から去ったあと、俺は楓と話して、ただただ憤るしかなかった。
そして、絶望した。
「俺、見てたんだよ。おまえと楓があの雨の日、話してるとこ。」
「そう…見てたんだ。」
その単調さもいい加減慣れてきたよ。
腹立つことには変わりないけど。
「迷惑とか、バカとか。楓にひどいこと言ってたよね。大迷惑も大馬鹿も、おまえだろうが。」
だって、そうだろう?
楓は、おまえがいたから俺の思いに蓋をした。
「楓はおまえのためにやったんだよ!楓に頼まれなきゃ誰がおまえみたいなクソつまんねえ女と付き合うか!」
楓は友達を傷付けることを、恐れた。
親友を自分が傷付けて失うことを、恐がった。
自分よりコイツの思いを優先させた楓。
友情?自己犠牲?美しい愛?どれも俺は笑い飛ばすよ。
「おまえがいたから楓は!」
ねえ、楓。
俺の気持ちはどうなる。
今まで込めた気持ちはどうすればいい。
ずっと俺が抱えてた思いは一体どうしていけばいい!
「俺を、俺を選ばなかった!」
好きだった。大好きだった。
誰にも取られたくなかった。
何度でも「好きだよ」って言えた。
ずっとずっと抱き締めていたかった。
なのに、それを邪魔したのは、誰?
「おまえのせいだろうが!」
おまえがいたから、楓は本当の気持ちを隠した。
おまえがいなかったら、楓は本当の気持ちを出せた。
おまえさえ、いなければ。
「だったらどうして守らないの?」
曇りのない真っ直ぐな、あまりにも真っ直ぐな目が深く冴え渡って容赦なく貫く。
「そんなに大切なら、どうして今楓ちゃんのそばにいないの?」
抑揚のない声が、耳に毒を流されているみたいに、ゆるやかに、穏やかに、浸食する。
呪いの言葉のごとく、じわじわ蝕んでいく。
「楓ちゃんを傷つけることがわかってたなら、どうして私と付き合ったの?」
うるさい。
「私と付き合うことを断ることはできたよね。」
うるさい。
「楓ちゃんに言えなくても私に言えたはず。」
うるさい。
「あなたに私と付き合うことを薦めたのは楓ちゃん。」
うるさい。
「だけど。」
鋭くなった眼光が俺を射る。
「私と付き合うことを選択したのは、及川くん、あなただよ。」
息が詰まる。心臓が鷲掴まれる。
違う。違う違う。違う!
「…っ、うるさい!」
おまえなんかに何がわかる?何を知ってる?
俺と楓の何がわかる?!
たかがおまえなんか楓の付属品でしかねぇんだよ!
「ぜんぶ、おまえが元凶だろうが!」
「そうだね。なら、どうして彼女を守らないの?支えないの?そんなに楓ちゃんが大切ならちゃんと守ってよ。わかりやすく言葉で、態度で示してよ。」
なんでおまえにそんなこと言われなきゃならないの?
おまえが、ぜんぶ、わるいのに。
ぜんふ、おまえのせいなのに。
「ふざけんな!」
おまえだって、そうだろ?
どうせ。結局。コイツも他のヤツと変わらない。
俺と付き合うことなんて、下らない理由。
俺の表面的なところしか見てないくせに、わかったような口を聞くな。
「俺の気持ちがおまえにわかるか!」
俺の楓への思いは、気持ちは、おまえが踏み込んでいいものじゃない。
土足で踏み入れるものじゃない。
おまえみたいなやつが入ってくるな。汚すな。ふみにじるな。
「人の気持ちなんて、わかるわけないでしょう。言ったところで、伝わるかどうかもわからないんだから。それを言われてもないのに、わかってもらおうなんて虫が良すぎるよ。」
伝えているのに、伝わらない。
どれも同じ気持ちであるのは変わらないのに、伝わらない。
そんなの。
「…っ、偉そうなこと言ってんじゃねえよ!」
そんなの俺がいちばん知ってる。
なんで俺ばかりこんな目に合わなきゃならない?
なんで俺が狂わされなきゃならない?
なんでなんでなんでなんで!
こんなはずじゃなかったのに!
「どいつもこいつも馬鹿ばっかり。」
聞いたことがない低い声だった。
ひどく掠れていて声だと認識するのに時間がかかった。
「私が原因なのは、わかってるよ。充分すぎるくらい理解してる。わかってる。」
悲憤に満ちた双眸がゆらめき燃える。
「ぜんぶ、わかってるよ!」
初めて、コイツのこんな大きな声を聞いた。
「告白されたとき嬉しかった。さぞ舞い上がってた私はバカに見えたでしょうね。でも気づいたの。あなたには他に思ってる人がいる。その人は私の大切な友達で親友だった!」
普段では考えられないくらい激越な口調。
俺は呆気にとられる。
「このままじゃいけないって思ったから別れた。でも、あとでわかった。あの子が自分の気持ちを押し殺して、あなたに私と付き合うように言ったこと。私に隠したまま、そうしたこと。ぜんぶわかった!」
力を込めていた右手が弱まってしまう。
「私のためにやった?人を馬鹿にするのも大概にして。私から努力する時間も、告白する勇気も、諦めるきっかけも取って一体何が残るの?残ったのは惨めさだけ!こんなに空しい気持ちは初めてだよ!」
惨め?
おまえのどこが惨め?
俺のほうがおまえの何倍も、惨めな思いをしてきたんだよ。
本気の思いを告げては否定され、無視される。
何度も何度も繰り返す。
どれも百パーセントには変わりないのに、拒まれる。
どんなに胸が張り裂けそうか想像できるか?
どんなに心が軋んで歪んでいくのか想像できるか?
その刻み込まれる痛みを知りもしないおまえのどこが惨めなんだ。
こんな思いを何年もしてきた俺のほうがずっと空しいだろ。
なんて、俺は、こんなにも…。
「私は仏でもなんでもない。」
曲がらないで見据えている声が通る。
「私は!可哀想な自分に酔ってるマゾヒストでもない!」
刹那。
全身の血が沸騰する。怒りで目の前が真っ赤に染まる。
掴んでいた右手を離して振り上げる。
まるで轟音。揺れる床。震える体育館。痺れる手のひら。静寂。自分の呼吸しか聞こえない。一秒が果てしなく長く感じる。
倒れている、柳野瑞穂。
今何が起きたのか。すぐ把握できなかった。脳が正常処理しない。
まだ混乱している中、おおよそ優しくとは言えない力加減で首根っこを引っ張られた。
そのまま首をホールドされる。
「はい、そこまでー。」
間延びした言い方にも関わらず、ずいぶんドスの利いた声が聞こえた。
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