イチズちゃんとイチズくん
とても、歩けそうにない。
早く帰ろう。
でも鞄は教室に置きっぱなしで、戻らなくてはならない。瑞穂も菜々実ももう部活に行っただろう。
委員会などで遅れる部員に、鉢合わせするかもしれない。
作り笑いして誤魔化せばいい。そんないつもやってる事も、今は出来そうにない。
一番に恐れていた事が、起きた。
瑞穂を、意図的に及川に推したこと。
それが瑞穂本人にバレてしまったのだ。
私の違う、は全部肯定の意味。彼だって言っていた。どんな気持ちで瑞穂は聞いていたのか。
嘘つき。嘘つき嘘つき嘘つき。
その言葉だけが頭を巡る。
ここにいてはいつか誰かに見つかる。矢巾とか渡とかならなんとかやり過ごせる。でも同学年はどうだ?あそこはやたら心配性が多い。松川や花巻は逆に2人に言いそうだ。それだけは避けたい。
でも戻りの道も、前すらも人がいる。
交友関係は広くない方だけど、及川、の幼馴染、という言葉だけは一人歩きしている。
誰にも会いたくない。
この土砂降りなら、洗い流してくれるだろうか。このどうしようもない気持ちを、少しでも。
ーぴちゃん。
上履きに水がしみこんでくる。
普段なら最悪だと嘆くこれも、今はどうだっていい。
「濡れちゃうよ」
そんな時に聞こえてきたのは一番聞きたくない声。
違う。幻聴かもしれない。聞き慣れすぎて、そう言われたくて聞こえてきたんだ。
あいつはいない。主将なんだから、真っ先に部室へ向かうべきだ。
足を踏み出せば踏み出すほど、頭から肩へと水が染み込む。全身を打つ雨粒が、まるで矢のようだ。矢で撃ち抜かれるように、激しく突き刺さる。
「また無視するのかよ。」
聞きなれた声。何度となく、私を呼んだ声。当然のように呼ばれる名前に、何度も何度も何度も胸を躍らせた。
例えば用事があって呼ばれた時、意味もなく呼ぶ時、褒めてくれる時。
私以外の人を名前では呼ばない。
とんでもない優越感に、幸福感。
「本当は気づいてたんでしょ?俺の気持ち。」
ばしゃん、と強く水を踏む音。ああ、濡れちゃうよ。風邪ひいちゃうよ。
左足が変だな。
なんで気づくの、病気だね。
「何度も何度も言ったよね。楓が好きだって。」
高鳴る心臓と、締め付けられる罪悪感。
…顔を上げることは出来ない。
彼がどんな顔をしているのか。自分がどんな顔をしているのか、わかっているから。
わざわざ、私なんかのためにこっちに来なくていいんだよ。
「知らないよ。」
「知ってて柳野さんのこと、推したんでしょ?」
知らない、はそうです、の意。この人にも、彼にもバレてしまったこと。
自分も彼も、声のトーンはいつもより低い。めげずに私は首を横に振る。
「なんで答えてくれなかったのさ。あの時はっきり言ってくれれば。」
どこか困ったように、でも優しく。いつもの徹だ。
「それはこっちのセリフだよ。」
「は?」
それでも吐き捨てるように言ったのは、やはり、自分が意地っ張りだから。
意地っ張りって、響きが悪いから嫌いだ。悪口の中とかでもよく聞く単語。
雨も嫌い。びしょひしょになるから。制服が肌にくっついて邪魔くさいし、乾かないし。でも今回は雨のおかげで、鼻のすすりは聞こえていないだろう。今日だけ感謝しとこう。
ー好き。
何度となくあった。及川は何度も言ってきた。好き、とか付き合う?とか。
幼馴染として、一番理解している。しているはずだ。
それが本気かそうでないか。わかっていた。
気持ちだってあった。
岩泉と話す時とは違う。彼に褒められたりすると、嬉しくってたまらなかった。
もっと話したい、とも思った。
もしかして、本気なのかな?
とさえ、錯覚した。
そう。錯覚なんだ。
「何度も何度も彼女を変えて…そんな好き、に誠実さはあるの?」
及川徹はモテる。ルックスも、優しいところも、成績も。
おちゃらけているけど、それは一部の部分で。
名前も知らないモブ達なんて、どうせ彼の顔だけ目当てなのに。性格だって互いに知りもしないくせに。それでも取っ替え引っ替え甲斐性なし。
「察してよ。俺のこと、逃さないように。よそ見しないように、はっきりと。」
「それは私に言うことじゃないでしょ。」
「自覚しろよ。好きだって!」
瑞穂を推した時、いつに無く及川は聞いてきた。本当に付き合うよ、と。
聞けば聞くほど胸は痛んだが、悟られまいと繕った。
何度と無く、知らないモブの告白の橋渡しだってした。好きな子のタイプやらなんやらも聞かれた。
けれどそんなもので、及川は揺れないと知っていた。直接言えないようなら、伝わらないのだから。
自分もその1人だったけれど、少なくともモブどもよりはずば抜けて優位だった。
思えば思うほど、支配感と罪悪感がこみ上げる。今自分の中にはどす黒い汚い感情しかない。
「及川の言う好きとは…違う。」
「違くないだろ!じゃあなんで泣いてんのさ!」
呪文のように繰り返す。違うよ、と。
でも本音なんてバレバレで、強く肩を掴まれる。驚いて見てしまえば、彼の表情は歪んでいて。
今までの気持ちが全てこみ上げるみたいに、糸が切れたみたいに、地面に崩れ落ちた。
全てがびしょびしょになってしまったが、そんなもの、今はどうでもいい。
「知っちゃったんだもんっ!!」
薄々感づいてはいた。可能性が無いわけでもないのに。
大丈夫、だなんて。
「瑞穂が徹のこと好きだって知っちゃったんだもん!」
私は…及川くん…かな。
なんて、たまたま恋愛話をしていて聞かされた。
恥ずかしそうに頬を赤らめて言うその顔が。可愛いな、と同時に絶望感を与えてくれた。
あまりにも真っ直ぐに、曇りのない目で、言うそれは。
「怖かった…怖いの!どう転がっても崩れそうで!」
及川を手放したくない。
でも、瑞穂の性格ならよく知ってる。
女の子らしい可愛い性格。
恥じらいがあって、かわいい、と抱きしめたくなる性格。
詳しく知れば、及川が気に入るかもしれない。欠点がない。
瑞穂と及川が付きあったとしたら。
及川に「楓はもういらない。」なんて言われたら、私はどうすればいいの?
それとも万が一、私と及川が結ばれたとして、瑞穂はどうするの?
多分、いや絶対何も言わない。おめでとう、としか言わない。
けれど家では泣くんだ。
初めてできた友達を、傷つけたくない。
「だから…だから俺の意見無視したのかよ!」
「じゃあ私はどうすればいいの?!徹にはわからないよ!瑞穂もはじめも菜々実にだって!!!私の気持ちなんてわからないんだよ!!」
卒業式の日、告白を受けたあの日。告白だと気づかなかった。意識が別のことに夢中すぎて、簡単に承諾してしまった。
それはすぐに訂正しようと思った。
彼だって、気の迷いなんだと思った。
そんな真っ直ぐなものだとは思わなかった。
何度も何度も別れようとした。好きな人がいるから。でも彼は大切にしてくれた。ちゃらんぽらんじゃなく。
ちょっとした変化まで気づいた。それこそ少しオーバーに。
揺らぐ、なんてありえないはずなのに、何か違う感覚がして。
ずるずると今も続いて。何年も続いて。
その事は周りには黙り続けていた。気づいた人もいたけれど。相手が誰かはバレていないはず。
軽はずみで返事をした私のせいだ、と責められるのが怖くて。言えなくて。
「…気づいてくれなかったじゃん。」
地面に吐き捨てた。
好きだった。大好きだった。
誰にも取られたくなかった。
反面、
気づいてほしかった。
彼ではなく、あなたに。
たまにやるあの優しい顔で、抱きしめて欲しかった。
楓はわがままだなぁ、なんて、まんざらでもない顔で、頭を撫でて欲しかった。
この後に及んで、まだまだ、求めるなんて。
「楓が好きだよ」
って、もう一度言って欲しかった。私が告白される前に。
瑞穂の気持ちを知る前に。
そしたらきっと、今度こそ「私も好き」と答えたかもしれない。
私臆病だから、誰も手放したくなかったから。
都合いい幼馴染ポジションをキープして、2人が私の理想の恋人になってくれるように念じて。嫌な気持ちと、希望を心に潜めて。
「…もういいよ」
今までにないくらいの低い声で、彼は言った。水を踏む音がする。
気配が遠のいていく。
大好きだった彼はもういない。
今までの「徹」はもういない。
もう彼を「徹」とは呼べない。
全部手放したくなかった、欲張りすぎた罰。
嗚咽が漏れたけど、誰にも届きはしなかった。
ひとり、ぼっち。
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