春よ、どうか訪れないで(りん)
それは突然だった。春を目前にした、まだ寒さが残る時期。三年生は卒業を控えて浮足立っている者、感傷に浸る者と様々だった。
「サボリとは感心せえへんなー」
りんは屋上で柵に寄りかかりながら、ぼーっと景色を眺めていた。すると背後から声をかけられる。ゆっくり振り向くと、大好きな先生の姿がそこにはあった。いつもなら喜んで傍に駆け寄るが、今日はどうしても気分が乗らず、視線を落とした。
「なんや、りん。どないしたんや? お前がサボリなんて珍しいやんか」
いつもならここで「オサムちゃんもサボりやんか!」と適確にツッコミを入れてくるはずのりんが何も言わないことに違和感を覚えないはずがなく、オサムはゆっくりと近付くと彼女の目の前で立ち止まる。顔を覗き込まれ、りんはさっと顔を背けた。
「りん?」
名前呼びはいつからだっただろうか。オサムの口から名前が紡がれる度にそんなことを考える。元々仲良くしていた白石繋がりで自然と接する時間が増え、そして彼への想いもそれに比例して増していく。
なぜ彼に恋してしまったのだろうかと、後悔する日さえあった。それでも嫌いになれないのは、本気で好きになってしまったからなのだろう。
「……転校、することになってん」
絞り出すように出た声は掠れていた。泣かないようにすることが精一杯で、彼の方を見ればきっと泣き出すとわかっていたから、顔を上げることができなかった。
「ああ……聞いたわ。ちょっと前にお前の親御さんから連絡あってな、三学期終わり次第、転校手続きするんやってな」
元々、りんの親が勤めている会社は転勤もありえる仕事だったから転校する可能性だって高かったのだ。だが、それでも現実にそれが実現すると受け入れるのに時間はかかるものである。まだまだ子供であるりんには、特に受け入れ難い事実だった。
だが、大人であるオサムは違うのか、普段と変わらない声音でただ事実を口にしていた。
「まだまだ寒いなあ」
そう呟きながらオサムはりんの隣に並んで空を見上げた。目頭が熱くなるのを感じるが、りんは何も口にはしなかった。今、これ以上何かを言えば泣くことを我慢できないだろう。
「春休み明けたらりんはここに居らへんねんなあ」
どうしてそんなことを言うのだろうか。事実を突き付けられる度に、息が出来ないような錯覚と、胸が締め付けられるように苦しくなる。
「寂しくなるなあ……」
「な、んで……」
笑って「ありがとう」と伝えたかったのだ。今までお世話になりましたと、先生好きでしたと、最後に全て綺麗に終わらせて新しい場所に行こうと、たとえ言葉だけでもそうしたかったが、オサムの一言でそれが崩れた。
「そん、な……こ、と……言われ、たら……っ」
抱き寄せられ腕の中に閉じ込められると、りんはオサムの胸に顔を埋めた。背中に回された腕に優しく撫でられ、熱くなった目頭から一滴の涙が頬を伝う。
離れたくない、傍に居たい。先生とずっとここに居たい。そんな想いが爆発しそうになり、必死にそれを堪える。
「寂しいもんは寂しいんや、りんもそうやろ?」
「で、も……」
「でももヘチマもあらへん。ほら」
少し身体を離されると、ポケットから折り畳まれた一枚の小さな紙切れを手渡される。それを受け取ると、りんは不思議そうな顔をして彼の顔を見上げた。
「俺の電話番号とメールアドレスな。いつでも連絡してきてええで」
ニカッと笑いながら言われたことに、りんは頭がついていかない。連絡先? なぜ? そんな疑問と同時に、嬉しくてたまらない。様々な感情が入り乱れ、頭が痛くなる。
こんなことされたら諦められない、笑ってさよならなんて言えなくなってしまう。それを見越しているのか、それとも偶然か。りんにはわからなかった。
「さよならなんかさせたれへん」
りんの頬を伝う涙を指で拭いながら、オサムは呟く。それでもりんにはしっかり聞こえる声で、はっきりと。
どうして。その言葉は口に出されることはなかった。それを言って答えを聞くことが怖かったからなのだろう。“大事な生徒”だから、なんてただの生徒としか思われていなかったら、その事実を今は受け止めるだけの余裕がりんにはない。
「たくさん、メールする」
「おん、しておいでや」
「電話だって、いっぱいする」
「そら嬉しいなあ。りんの声聞けたらええ一日なりそうや」
「……先生のアホ」
ぽつりとそう呟くと、りんは再びオサムに抱きついてその胸に顔を埋める。
「……せやな」
その小さな声で紡がれた言葉の意味は何なのか、自嘲交じりに聞こえた声に顔を上げようとするが、頭に腕を回され胸に押し付けられたのでそれはかなわなかった。
どうか今だけ時間が止まればいいのに、そう願わざるを得ない。
これは春が訪れる前の小さな物語。
2013/09/30
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