雲は掴めなくても貴方だけは味方で(りん)



 立海に転校してもうだいぶ慣れてきた頃、よりは教室からボーっと窓の外を眺めていた。放課後の教室は夕日に照らされて橙色に染まっており、時折吹く風が教室のカーテンを揺らしていた。
 赤く染まった空を緩やかに流れていく雲は、手を伸ばせば掴めそうなのに届くことは決してない。まるであの人のようだと、ぼんやりとそんなことを考えると同時に、ちくりと胸が痛くなった。

「あ、よりちゃん発見」

 ガラっと教室の扉が開いた音によりは振り返る。そこには一つ上の学年であるりんが居た。HRが終わってだいぶ時間が経っているので、教室にはほとんど人が残っていない。とはいえ、下級生の教室に堂々と入ってくる上級生はそう多くないだろう。

「なにー?」

 近付いてくるりんに声をかければ、りんは少し言い辛そうに視線を泳がせて目の前で立ち止まった。この様子は今までの経験で何を言うか予測がつくが、よりは相手の返事を待った。

「今度、大阪にいつ行く?」

 あまりにも予想通りすぎる答えに、思わず溜め息が漏れる。

「よりちゃん?」

「あー……んー……そうだねー」

 あの人とはもうなんでもなくなったんだ。そう言うだけだが、躊躇ってしまっていた。きっとそれを口にすることで何かが壊れてしまうのではないか、そんな気がしていたからだろう。言葉を濁すよりに、りんはきょとんとしている。

「この前行ったばかりだし、また長期休みのときにしようよ」

「それもそっか。あー……オサムちゃん……」

 好きな人を想って溜め息をつく姿に、思わず苦笑してしまう。

「あ、そうそう。北門に跡部くん来てたよ」

「え、待て。なんでそれを先に言わない」

 今見たくない人物ベスト3に余裕で入る相手の名前に、よりは眉間に皺を寄せる。

「東京から車飛ばしてきたんだろうね。愛の力だ」

 楽しそうに言うこの友人兼先輩であるりんを殴ってやりたいという気持ちを抑えながら、よりは鞄を持って教室の出入り口に向かう。

「あ、帰るの?」

「奴に見つからないように帰る」

「素直じゃないなー」

「なんとでも言えばいいさ。じゃ、またね」

 素直じゃないのは自分が一番よくわかっているが、どうもあの俺様相手に素直になったら負けな気がして、よりはいつも反抗していた。
 北門に跡部がいるなら普段は閉じられている南門をよじ登って逃げるしかない。よりは急いで南門へ向かう。誰もいないことを確認して鞄を先に門の向こう側へ放り投げると、よじ登ってぴょんと飛び降りた。

「これでよし」

「何がよしなんだ、アーン?」

 目の前に現れた人物に言葉を失う。りんは北門に居ると言っていなかっただろうか、あの人は方角もわからなくなったのかバカじゃないのか。いろんな考えがよりの頭の中をぐるぐる駆け巡る。

「……なんでここに居るんですか」

「お前の先輩に伝言したはずだ。聞いてねえのか」

「何も聞いてないんですけど」

 よりがそう言うと跡部は盛大に溜め息を吐いた。

「お前を迎えに来たから呼んでくれっつったんだがな。まあいい。で、この俺様を無視してどこに行こうとしたんだ?」

 腕を掴まれ、逃げることはかなわない。顔を背ければ空いた手で顎を掴まれて強引に視線を合わせられてしまう。

「より……」

 お願いだからそんな優しい声で名前を呼ばないで、愛しそうな目を向けないで。そんな叫びは声にならずに喉で引っかかって出ることはない。目頭が熱くなるが、泣いてたまるかとよりは唇を真一文字に引き結んで堪えた。

「この前、大阪に行ったんだってな」

 何も言わないよりに跡部は独り言のように続ける。

「決着は、つけたのか」

 沈黙が痛い。だが、何も言わないことを肯定と受け取ったのか、跡部は小さく「そうか……」と呟くと、よりの腕を引いて抱きしめた。片手で腰を抱きながらもう片方の手で頭を撫でた。その手つきの優しさに、抱きしめられる温もりに、視界が滲んでいく。

「頑張ったな」

 会いたくなかったのだ。会えばきっと泣いてしまうから、惨めな姿を見せてしまうから。だけど、一番最初にそう言って欲しかった人であることに違いはなく、その言葉が欲しかったことは紛れもない事実だ。自分の心を否定することは誰であろうとも不可能なのだ。

「俺様はここに居る。だから、泣くな」

 雲を掴めることはなくても、今この温もりだけは確実にこの手の中にある。その事実が嬉しいと同時に、切なさが胸を占めた。




2013/09/28


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