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十三のマグロ






「あの子は買えないのか? 金ならあるぞ」
「ごめんなさいねえ、あの子は売り物じゃないのよ」
「あれは売れる、見た目がいい」
「あらあら」


 父に売られて一年余りが過ぎた頃、この店に足を踏み入れるお客さんからそんな声が聞こえてくるようになった。良くも悪くも女≠ノ近付いているらしいわたしは、体付きに少し変化が生まれている。立っていても分かるようになった少しふっくらとしてきた胸と、自慢ではないがそこそこ真っ白に伸びた足はどうやら客の目に止まるらしい。だけど「向き不向き」と言っていた店主のお鶴さんの言う通り、わたしは男を喜ばせるにはあまり向いていない女のようだった。業界用語で言えば「マグロ」と言われるそれは、お鶴さんから言わせれば男にとって一番つまらない女だという。お鶴さんに一度だけと仕込まれる羽目にはなったが、感じず濡れず仕舞いで駄目だねと笑われたのを覚えている。他人に身体を弄られるのは不快極まりなくて、ぶつぶつと鳥肌が広がっていくだけ。けれどもそれはわたしにとってはとても好都合。だから、炊事、掃除、洗濯等、目一杯雑用を任されていて、こうやって酒席の場では空いた皿や器を片付け回っている、ということである。


「なあお鶴、いいだろう、今回だけ」
「駄目よ。雛菊が悲しむじゃない、売り物でもない雑用のあの子に手を出されたら花魁の顔が潰れるわ」
「雛菊の名前を出されたら敵わんなあ…」


 お鶴さんはお客さんの興味をすっと逸らすのが上手だ。あんな風に会話を上手くこなせないのも、わたしが売り物にならない理由の一つなのだろう。

 二人の間をするすると縫って、空いたお猪口や酒器を下げて洗い場に持っていくと、そこに頬っぺたを朱色にさせた女の人がへにゃりと力のなさそうな様子で座り込んでいた。…一年もここにいれば何かと慣れてしまう光景ではあるが、どうにも苦手意識が拭えない。嫌いな客とでも嬉しそうな顔で交わる為に、自ら薬でも飲んだのだろう。失礼だとは思うが、心の底から理解不能だ。


「…大丈夫ですか」
「ん、ッいいの、放っておいて、」
「でも」
「冷や水だけ、頂戴」


 荒い息と独特な匂いが鼻の辺りを漂う。好きになれないその香りに居ても立っても居られなくなり、わたしは氷を入れた冷や水だけを近くに置いてさっさとそこから離れることにした。
 遊郭で働く人は、大体お金に困っている人だ。あとは自分の美貌を分かってて自らお店に志願しに来る人。さっきの人は前者なのだろう。必死に自分を売ってはいるが、中々名前は売れずに底辺を這い回っている。そう見えた。


「…さっさと片付けて寝たい」


 ふと出た本音に思わず息を吸って飲み込んだ。とは言えまだ酒席は続くだろうから、寝るのはいつになることやら。はふ、と溜息を吐いたところで見えたお鶴さんの姿に、背筋がピンと伸びる。お鶴さんには恩があったから、その人の前でやる気のない顔は晒すことができなかった。


「今日は長くなりそうだよ」
「そうですね。なんとなく見てれば分かります」
「なまえはよく働くね」
「…ここしか居場所ないんで」
「ここには勿体無い女だよ、お前は」
「買い被りすぎです、洗い物や洗濯しかできません」
「料理も上手」
「…それは、」
「いつかここから出る決心がついたらもっと広く世の中を見てみるといい。知らないことがたくさんあるよ、…良くも悪くもね」


 知らないことを知りたいとは思えなくて、笑顔を作ったまま「はあ、」と気の無い返事を零す。わたしはこのままお鶴さんの元で雑用をこなして、ひっそりと母を探すことが出来ればそれでよかった。高望みはしない、すればきっとまた罰が下るであろう。そんなのは勘弁だ。

 綺麗な着物も、豪華な食事もいらない。いらないから、わたしの母を返してほしい。たったそれだけを願うのに、天秤に掛けられたものが随分と多過ぎる気がしたけれど、これが人生というものかとふと考えたらあまりにも枠が壮大すぎてどうでもよくなってしまう。叶うならなんでもよかったから、こんな所であっても必死に生きていこうと思えるのだ。


「お前をご所望の客がいてね」
「絶対嫌です」
「安心なさい。面白味のないマグロを客に預けるつもりはないよ」


 お鶴さんからしたら嫌味、わたしから言わせれば賛美。からからと笑うお鶴さんの顔は、歳には相応しない程の綺麗な笑みで、まるで歳を取らない妖怪みたいに見える。…そう考えたら、ほんの少しだけぞわりと鳥肌が立った。