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半生の余罪






 珍しく、父と母が家にいた。だけど何処か様子がおかしいと思った直後に母が大きな声で叫ぶ。そこでわたしは、地が揺れるほどの恐怖を感じたのだ。


「逃げなさい!」


 わたしはただ怖かっただけだ。母の言葉を素直に受け入れて、母に「ただいま」を言いたいだけに走って帰ってきたのに、ほかほかと暖かくなっていた筈の身体が瞬時に冷えていく。左の端に見えた人ではない別の姿に恐れを成し、言われるよりも早く駆け出した足は転びそうなくらいに震えていた。噛み付いていたのは、鬼のような目をした、全身が血に塗れた何か。…もう後は覚えていない。

 自分よりも早く隣を駆けていくそれ以外≠ヘ。



―――




 四六時中一緒にいてくれた優しい母が好きだった。対照的にお金にしか興味のない父のことは大嫌いだった。あの日もそう。自分の命を投げてまで父は母のことを助けようとはせず、わたしのことも母のこともいの一番に捨てて逃げ出したのだ。だけどそれはわたしも一緒だったから文句は言えない。大切な人の命を一つ蔑ろにした父とわたしは、奇しくも同じ罪を背負ったのである。

 そうして、あれから母がどうなったかも分からないまま幾月が過ぎたある日、お腹を空かせていたわたしは父に連れられて随分煌びやかな建物を目に映していた。赤と、金と、キラキラ眩しいそこにはキレイな女の人がたくさんいて、はだけたような厭らしい着物と、下心を隠しもできない男の小さな群れが出来ている。現状生活が苦しいのはよく理解していた。だからもしかしたら、ここで働けということなのかもしれなくて、生活の為ならと覚悟を決めたその瞬間におぞましいほどの悪寒を背中に感じてしまう。

 父の瞳は穏やかで、冷たかった。…そこで気付いてしまったのだ。
 これは働けということでない。これは、


「十二の処女? ふうん…顔はいいね、本当に買っていいのかい?」
「ああ。だが買うなら言い値で買ってくれよ、生活に困ってるんだ」


 身売りだ、これは。しかも父親から直々に店を訪ねていき、売りに回っている。わたしは貴方の娘ではなかったのか。そう駄々をこねられるような相手ではなかったが、流石に身の危険を感じずにはいられなくてぶわっと目の前が水で溢れていく。そこまで最低で悪魔のような奴ではないとばかり思っていたのに、予想とは全く違っていた。


「…いやだ、どうして、なんで…?!」
「子供などもう俺の手には負えん。まあなんだ…つまりな、金がないんだ」


 淡々とした言葉は酷く鋭利で、ぐさぐさと心臓を突き破っていく。哀れな目をした女の人は、ではこちらでいかがでしょうと巾着に入った重量のありそうなそれを父の手の中に納めて、そして嬉々としてばかりに父は、…父だった男は去っていった。
 なんて悲しい最後なんだろう。泣き叫んでも、振り向いた男が向ける顔は自分の子にするようなそれではなかった。まるで他人のように、鬱陶しいと蔑んだ瞳はもうわたしを忘れているようで絶望が襲ってくる。これがわたしに対しての罰だというならば、あいつに罰はないのだろうかと、いるかも分からない神のようなものを責めるしかできなかった。


「おとう さ、」
「まだあんな男を父と呼べるのね」
「う、ひぐ、っ」
「忘れた方がいい。いつか罰が降るわ。…大丈夫、貴女を悪いようにはしないから」
「…?」
「ここは遊郭だけど、勝手な身売りで捌かれた子達に無理矢理仕事をさせたりはしないんだ。人にはね、向き不向きがあるんだよ。名前は?」
「…なまえ、苗字、なまえ」
「そう」


 ちゃんと答えてくれてありがとうと、細くて長い指が頬を撫でる。少しだけ女の人が母みたいだなと思うと、少しだけあの男と離れられてよかったかもしれないとふと考えてしまう。…これからここで何をすればいいのだろうか。分からないことだらけで、身体が竦む。何か目標でも見出したいと考えた時に、ふとまた母の姿が頭の中に浮かんだ。

 そうだ、まだ母が死んだと決まった訳じゃない。可能性は残っている。…だからまだ、頑張れる。

 溢れた涙を地面に拭い捨てて、促されるままに煌びやかな遊郭の屋敷へと一歩踏み出した。生きてさえいればいい。母の為にというのであれば、それこそ身を売って稼いでやる。そんなほんの少しの決意を心の中に宿して、少しでも良く見えるようにと父に着せられた少し高い着物の裾を破り捨てた。


「おや、…中々強い子だねえ」


 そういう子は長く生きていけるよ、という言葉を信じてみたい。父だった男よりも、ずっと信頼できると思ったのだ。