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005




 今日は、夕飯の買い物のために少し遠いところにあるスーパーへ徒歩で向かった。近場の店も良いと思ったんだけど、タイムサービスをやってるってネットで知ったからここを選んだ。
 お目当てのものをきちんと手に入れて、私はかなり満足している。

(ネットは正しく使わないとね〜)

 夕食のレシピと冷蔵庫の中身を頭で巡らせて、鮮肉コーナーに辿り着いた。薄着だから涼しい。この冷えた場所は結構気に入っている。

「苗字?」
「…っ?」

 突然呼ばれた自分の旧姓に、反応遅れて顔を上げた。
 疑問符付きの声からは聞き覚えのあるニュアンスが感じ取れる。もしかしてと振り向けば、仕事帰りなのかスーツを程よく着崩した同年代の知り合いが立っていた。

「奇遇だな」
「笠松くん!」

 声の主は、由孝の旧友で息子の同級生の父親──笠松くんだった。貫禄があるのに何処か愛らしい顔が昔の容姿と重なって、私は目を細める。
 由孝を通じてお世話になっている笠松くんは、籍を入れる前のように私の事を旧姓で呼ぶ。由孝と結婚してから森山呼びにしようと頑張っていたけれど、由孝と区別が着かなくなるからとすぐやめてしまったのだ。「下の名前で呼ぼうとしたら森山に怒られた」と迷惑そうに言われた事もある。確か息子が生まれる前の話だ。懐かしい。

 笠松くんと会ったのは息子の入学式以来。息子達が同じ高校だった事が発覚して、二夫婦揃って叫んだのを覚えている。あの日は少し会話しただけですぐ別行動になっちゃったから、こんな風にちゃんと話すのは凄く久々だ。

「苗字も買い物か?」
「うん。えっ、もしかして笠松くんも……」
「見りゃ判んだろ」

 笠松くんの左手には仕事用の鞄、右手には満杯の買い物籠がぶら下がっている。おっしゃる通り見れば判るけど…笠松くんみたいな男らしい人に買い物籠は似合っているのか似合っていないのか微妙なラインだったので、ちょっと可笑しかった。






 会計を済ませた後、家まで送ると言ってくれた笠松くんのお言葉に甘え、車の助手席に乗せてもらった。女性を気遣えるなんて成長したじゃない、笠松くん。初対面の時に擬音語しか喋れなかった人とは到底思えないよ。

 心地好いエンジンの音がして車が走り出す。サイドミラーから見えた沈みかけの夕陽が綺麗だ。

「森山は元気か?」

 ウィンカーを出しながら笠松くんが訊ねる。私の「元気だよ」という回答に、笠松くんは胸を撫で下ろしていた。由孝は昔からそそっかしかったから心配してくれてるのかも。笠松くんの面倒見の良さが窺える。

「お前、よく森山とやってこれたよな……」

 運転中で無意識だったんだろう。咳払いして誤魔化そうとする笠松くんに、私は笑った。

「悪ぃ、嫌な事言った」
「良いよ、全然。実際、何度も大喧嘩してたし」
「……そうだったな、昔は」

 付き合い始めたばかりの頃、私と由孝が喧嘩しまくっていた事を笠松くんは知っている。由孝が笠松くんに私の事を愚痴って困らせた日もあったみたいだから。
 酷い時には別れ話にまで発展する程、若かった私達は何度もぶつかり合っていた。でも、どんなに傷付いても何回別れようとも、由孝は必ず私のところに戻ってきた。
いつの間にか私だけを愛してくれるようになって、同棲までする関係に落ち着いていたんだっけ。それで結婚か……凄く不思議。

「今はお互い好き過ぎるくらいだよー…」

 呟いて、自分は何を惚気ているんだと口を閉ざした。笠松くんを恐る恐る見ると、カアッと効果音がつきそうなぐらいに赤くなっている。「そりゃあ……良かった、うん」というぼやきを聞いて、慌てて弁解したけど遅かった。

「……ごめんなさい」
「や、別に…。その程度の惚気、森山に比べたら可愛いモンだろ」
「…それもそうだね」

 これからも仲良くな、と呟いた笠松くんの横顔は優しくて穏やかだった。
 ありがたいな…こんな身近に私と由孝の事を解ってくれる人がいるのって。もちろん笠松くんだけじゃない。小堀くんとか、由孝繋がりの人は皆そうだ。嬉しい。









「本当に助かっちゃった!」
「こんな大量の荷物で徒歩とか有り得ねぇだろ…」

 結局、笠松くんには荷物を玄関まで運ぶところまで手伝ってもらった。笠松くんの言葉に、自分の計画性の無さを少しだけ反省する。
 食べ盛りの息子がいると、ついついあれもこれもと買い過ぎてしまう。そこのところは笠松くんも解っているみたいで、苦笑していた。

 全部運び終えた笠松くんは、伸びを一つして、車に乗り込もうとドアを開けた。

「じゃ、オレは帰るぞ」
「お茶ぐらい飲んでいけば良いのに…」
「森山に会ったらマジ面倒臭ぇ」

 そういう事か。笑いそうになるのを何とか堪える。
 手を振ると、笠松くんも軽く手を挙げてくれた。今年度からは息子同士の付き合いもあるし、会う機会増えそうだな。今度は是非、由孝とも話してあげてほしい。


 車が見えなくなるまで見送っていると、ちょうど息子が帰ってきた。

「母さん…?」
「あれ、今日は早かったんだね」
「体育館の点検やるみたいで追い出され、て……」

 息子は、笠松くんの帰っていった方角を睨みつけている。何か誤解しているのかな、面白い。
 「由政?」と息子の名前を呼ぶと、掴みかかる勢いで迫ってきた。

「母さん…まさか…!!」
「んな訳無いでしょ」
「イテッ」

 ペチンと額を軽く叩いて否定すると、息子は至極安心した顔をした。由孝でもしないのに、私が浮気なんかするはず無いだろうよ。まず相手いないし。
 必死なのが可愛くて笑っていると、息子は口を尖らせて玄関へ大股で向かっていった。私はへらへら謝りながら息子の後を追う。

「今のは主将候補のお父さんだよ」
「へえ……。…え、笠松の!?」

 折角潔白を証明するために教えてあげたのに、どうして会わせてくれなかったんだと息子は完全に拗ねてしまった。そっか、うちの息子にとって笠松くんは憧れの存在なんだもんね。

「次はちゃんと引き留めておいてよ!」
「ん〜、出来ればね〜」

 さあ、早く夕飯の仕度を始めよう。








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