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004




「ただいま…」
「お、おかえり…」

 夕食作りもある程度片付いたのでリビングでアイスティーを飲んでのんびりしていたら、朝元気いっぱいに出かけて行った息子が呻き声を上げながら帰ってきた。
 息子の帰りは毎晩かなり遅い。というのも、最終下校時刻ギリギリまで残って自主練をしているからなんだけれども。

「父さんは…?」
「今日は残業。遅くなるって」
「そうか…。うぅぅ…相談出来ないじゃないか…」

 今日も口説きはダメだった模様。どんな女の子にアタックしたのかと訊けば、隣クラスのマドンナ、としおらしい答えが返ってきた。またハードル高いところへ行ったな…。

「何秒くらい会話出来たの?」

 テンションの低さ的に、秒単位で訊いてみる。

「5秒…かな。笠松狙いだからってバッサリ斬られた」
「……御愁傷様」

 黄瀬涼太のような一際目立つ子は今の海常バスケ部にはいないから、残念な息子にもチャンスはあるかもと私は期待していたけれど、現実そんな上手くいく訳無かった。バスケ部の女性人気は全部、ポイントガードの笠松二世がかっさらっていくのだ。
 たった二人の1年生レギュラーのうち片方しかモテないってどんだけ悲しい状況なんだろう。チャンス多きこの条件下、モテないうちの息子。なんて不憫な。

 息子は背負っていたスポーツバッグを床に下ろすと、ソファーにダイブした。フラれたショックと部活の疲れが一気に襲いかかってきてるみたい。まあ、ほとんどの原因は後者だろう。レギュラーだからって、1年生が雑用免除される事はまず無いだろうし。

「元気出して、由政」

 私は、うつ伏せになっている息子の近くにしゃがみ込み、サラサラした髪にそっと触れた。切れ長の瞳がゆっくり私の方を向く。シトラスの良い匂いが香った。昔、シトラスの香りが女の子にうけると由孝が自慢気に話していた事を思い出す。

「良いんじゃない? その子は運命の相手じゃなかったって事で」
「そう、だよな」
「明日からまた頑張れば良いんだよ」

 部活お疲れ様の意を込めて頭を撫でれば、息子は顔をほんのり赤くしてはにかんだ。普段なら「子供扱いするな」くらい言うけど、今は疲れているからか抵抗してこない。
 制服を着替えておいでと促すと、息子はソファーから降りてバッグを持った。息子に優しい表情で見下ろされ、私は穏やかな気持ちになる。

「母さん、ありがとう」
「うん」
「あ、そうだ。ねぇ、母さん」

 息子が私の身長まで背を低くして、「今日の弁当の卵焼き美味しかった」と由孝似の笑顔で言ってきた。今朝、いつもより早起きして変えた味付けに気付いてくれたらしい。
 もちろん嬉しいんだけど、いきなりだったから、私は小恥ずかしくなって下を向いた。

 こういう直球攻撃は、私じゃなくて女の子の前で発揮すれば良いのに。

「……残念なイケメン二世め…」

私がそう呟いた時には、息子はもうリビングから出てドアを閉め切っていた。









「ただいま、名前」
「おかえり、由孝」

 由孝が帰宅したのは息子が寝てしばらく経った後だった。
 息子が今日も歪みなくフラれた事を報告すると、犯罪現場に遭遇したかのように吃驚な顔をされた。誰のせいだと思ってんのよ、と心の中で苦笑しながら鞄を受け取る。

「早くあいつにも可愛い彼女が出来ると良いな…」

 チラチラと私を見ながら由孝が言う。私は“可愛い彼女”じゃなくて“可愛くない妻”だろうが…と思いつつ、早く風呂に入ってくるようにリビングのドアを指差して会話の流れを断ち切った。「お風呂にする?ご飯にする?」なんて一切訊かない。そんなものやる以前に、森山家には選択肢が無い事がほとんどだ。

「…あのさ、名前。その前に一つ良いか?」
「うん?」
「今日の弁当の卵焼き、前より美味くなってた気がしたんだけど…何かした?」

 私は目を見開いて由孝を見上げた。親子っていうのは味覚まで似るものなんだろうか。息子と同じ箇所の反応が、私の心を擽る。

「……名前?」
「あ…えっと、味付け変えたの。よく解ったね」
「愛の力だな…!」

 大袈裟だよと突っ込む前に、大きな手が頭を撫でてきて声が詰まった。由孝の手は、いつも私にとってちょうど良い温度なのだ。この手に触れられるのは嫌いじゃない。

「名前の料理は最高だ〜」

 心地好くて黙り込む私に、由孝が微笑んだ。
 どんな些細な事でも、旦那に褒めてもらえるのが一番嬉しいな。








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