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001




 薄暗い部屋の中、目を覚ます。
 ぼやけた視界のまま右側を見ると、閉じられたカーテンの隙間から日が差し込んで朝の訪れを告げていた。鳥のさえずりを耳に焼き付けて枕元を探り、眼鏡をかける頃にはだいぶ頭は冴えてくる。

 左隣を見ると、枕を抱き締めるように眠っている旦那の姿がある。昨日も遅くまで仕事だったし、もう少し寝かせてあげたいな。伏せられた切れ長の瞳に微笑み、物音を極力控えて寝室を出た。

















 コンタクトレンズを付けて身支度を整え、旦那と息子の朝御飯やお弁当を準備。朝にやるべき事は沢山ある。
 家事を大体片付けてから、私は息子の部屋へ向かった。バスケ部の朝練がある息子を起こす事が、私の日課なのだ。

「由政ー、朝だよー」

 私と由孝の間に産まれた一人息子・森山由政は、今年度の春から海常高校に通い始めた1年生。由孝から教わったバスケを生かして、仮入部後からレギュラー入りを果たしている。
 ノック無しに部屋に入って電気をつける。息子は由孝と全く同じ格好で寝息を立てていた。

(似てるなぁ…)

 スマートな輪郭に切れ長の瞳を持った、典型的な父親似の息子。艶のある前髪を短く横流しにしているあたり、本当に由孝そっくりだ。
 起きている時より幾らか幼く見える息子の寝顔をしばらく眺めてから、私は布団を剥いだ。

「由政起きて! 今日も朝練でしょっ!」
「……ぅ」

 頬をつついても体を揺さぶっても、起きる気配が無い。この子は朝に強くないのだ。
 私は力を強めて何とか起きてもらおうと試みる……すると、

「…っひ!?」

 突然息子がバチリと目を開けて上半身を起こし、私の手を握った。

「君はなんて美しいんだ。前世はきっと姫だったに違いない。麗しの姫、オレとこの現世で出逢ったのは運命です。お付き合いいたしませんか?」
「……」

 再度確認させてもらうが息子は朝に強くない。だから、こうして直前に見ていた夢を引きずってしまう事がある。
 息子がどんな夢を見ていたのかはこの残念すぎる台詞から検討がついた。夢の中まで女の子の事考えてるってどうなんだい、我が息子。

 この子を授かった時、私は願っていた。思考だけは、思考だけは由孝に似ませんようにと。けれどそんな願い虚しく、息子は脳内を拗らせた可愛い女の子好きに育ってしまった。

「……ほぁ…、母さん…?」
「おはよう、由政」
「……おはよ、あれ?」

 手を離して目を擦る息子に、支度をするよう急かして部屋を出た。いったん起きれば大丈夫な子なので、二度寝の心配はしなくて良い。
 基本的には素直で良い子なんだよね。素直すぎて由孝の言う事盲信しちゃうのが玉に瑕だけど。


 リビングに戻ると、いつの間にか着替えまで済ませた由孝が、食卓でコーヒーを飲んでいた。
 向かいの席には、もうひとつ淹れたてで湯気が立つコーヒーが置かれている。これは私の分だ。

「名前、コーヒー淹れておいたぞ」
「ありがとう」

 ワイシャツ姿でマグカップを片手に微笑む姿は、とても絵になる。私はそのコーヒーに手をつけずに、息子と由孝の朝御飯を盛り付けにかかった。由孝は何も言わない。私が猫舌で、熱々のコーヒーが飲めない事を知っているから。

「もう少し寝てても良かったのに」
「名前と一緒にいたいんだ、1分でも1秒でも長く」
「……はいはい」

 由孝は、今朝も私に甘ったるい言葉をかけてくる。相変わらずどこか気障っぽくておかしな台詞。でも、悔しいけど、妻である私だけに言ってくれてるんだって思うと嬉しくなってしまって。

 熱くなった顔がバレないように俯いていると、制服を着た息子がリビングに入ってきて、「母さん、顔赤い」と茶化してきた。確信犯の顔である。
 由孝はニンマリ笑って、またコーヒーを啜った。









「母さんいってきます! 父さん、今日こそは彼女をゲットしてくるから!」
「期待してるぞ、由政!」
「…いってらっしゃい」

 玄関まで家族を見送るのが、森山家のハウスルール。由孝に応援され、息子は意気込んで家を出ていった。
 この親子のやり取り、今まで何回聞いたっけ。ちなみに息子から「彼女が出来た」と報告された事は一度も無い。


 リビングで少し夫婦水入らずの時間を過ごしてから、由孝はネクタイとスーツで正装して、椅子に立てかけていた鞄を手に持った。

 二人で玄関へ向かい、由孝が靴を履き終えたところで対面する。

「待って」
「ん?」
「ネクタイ曲がってる」
「……ん」

 由孝は毎日、わざとネクタイを曲げて玄関に出る。少しでも私と戯れる機会を増やしたいという細やかなアプローチらしい。
 身長差のせいで首に手が届きづらい私に合わせて、由孝が屈んできた。私はやれやれと眉を下げながらも、由孝のネクタイを真っ直ぐに直す。今日も一日頑張っての想いを込めて。

「いってきます、名前」
「いってらっしゃい、由孝」

 この夫婦のやり取りも結婚してから数え切れない。由孝は、今まで何回私の名前を呼んでくれたんだろう。

(……私って幸せだ)


 さて、そろそろ淹れてもらったコーヒーがちょうど良い温度になる頃かな。
 一人で笑って、私はリビングに戻った。








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