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 一目見ただけでどんな事でもこなせてしまうオレに当時打ち込める趣味なんか無かった。中等部入学と同時期に始まったモデルの仕事をこなしながら、淡々と学校生活を送る気怠い毎日。熱中出来る事も心揺さぶられる事も見当たらないまま進級した中学二年の春。虚しく過ごしていた日々を一蹴する転機が訪れた。


 それは、放課後の事だった。

 ホームルームを終えた教室内では様々なクラスメイトが部活や遊びの予定で浮足立っている。仕事が別日に変わるという急な連絡を受けたオレは、普段早々と去るその騒がしい空間で人が減るのを待っていた。女の子の群れに遭遇しないよう、帰宅は混雑時を避ける。いつの間にか身に付いていたオレの暗黙ルールだった。
 やがて交う声が一つ、また一つと消え、教室の住人はオレだけとなった。ドアを抜けた先、無人の廊下をぶらぶらと歩く。この空っぽの廊下がオレの心を現しているようだ。ああ、今日もつまらない。

(……誰か、)

 誰かオレを燃えさせてくれるすごい奴、出てこねぇかな。

 ──そう思った刹那。

 通り過ぎようとした空き教室からトランペットの音階が流れてきた。覚えの無い音色に、玄関に向けていた足が止まる。聴こえるのは一音ずつ上がっていく単調なものなのに、オレはそこから動けなくなった。綺麗な、綺麗な音だ。何も無い廊下の空気を色付けるような、そんな音だ。気になって音源の教室を覗いたら、体格の良い褐色の肌をした男が楽器を構えていた。ちょうど音が鳴り止んだところだった。

「ん? 誰だ…って、モデルで有名な黄瀬クンじゃん!」

 名前も学年も知らないトランペット吹きはオレを認識して軽く笑った。年上には見えない。敬語無しって事は同級生だろうか。

「今の…アンタが演奏してたんスか」
「へ? オマエ、吹奏楽に興味あんの?」

 スイソウガク…? あの、音楽の授業で耳にした事があるアレか。
 別に、というオレからの否定語を遮って、トランペット吹きはノートぐらいの大きさの紙──吹奏楽部のチラシを差し出した。太く堂々と“校内演奏会”と書かれたタイトル文字の下には、見た事の無い曲名や作曲者の名がずらりと並んでいた。玄関にも同じ内容のポスターが貼ってあったのを思い出す。そういやホームルームの時、紫原って人が似たような宣伝を面倒臭そうにやってた気が……

 オレの思考は明るい声に呼び戻された。

「来週日曜日の演奏会! オレ、すげーかっこ良いソロやるからよ、聴きに来いよな!」

 それだけ言うと、そいつはチラシを押し付け、トランペットを軽々持ち上げて去っていった。オレは唖然と立ち尽くす。すげーかっこ良いって何だよ意味解らん。しかも日曜日って…ちょうどモデルの仕事オフなのに。
 でも、何だかそのチラシを捨てる気になれなかったオレは、それを乱雑な二つ折りにして鞄に押し込んだ。耳にはまだ、トランペットの音が鮮明に焼き付いていた。




 数日後。中等部の大ホールで行われた演奏会でオレはそいつの──青峰っちのソロに息を呑んだ。
 ワイルドかつ高らかに奏でる野性的な迫力、強弱を無限に生かす表現力、重厚な伴奏との洗練された絡み合い。全てがオレを虜にした。電流が走ったみたいに体がビリビリと痺れるこの感じが堪らなく気持ち良い。

(すっげぇ…!)

 夢中になっているうちに曲は終わって、オレはただただ舞台に釘付けになっていた。司会のアナウンスが入り、曲とソロの紹介がなされる。

《トランペットソロ、青峰大輝》

 他のソリスト達が真面目な顔で丁寧にお辞儀する中、青峰っちだけは楽器を高く掲げてやり切った笑顔を輝かせていた。人一倍大きい会場中の拍手がソロの大成功を称えていた。

 もしも、あの人と同じ舞台で演奏をしたら。あの人のような美しい旋律を奏でられたら。オレは、どんな世界を知る事が出来るのだろう。
 心に新しい風が吹いた瞬間、オレは折り目のついたチラシを握り締めて走り出していた。

 見つけたんだ。一生かかっても極められないかも知れない、オレが打ち込めるものを。





──── 013





 帝吹の昼休みも既に半ば過ぎ、校舎内からちらほらと自主練習をする管楽器のトーンや打楽器のリズムが聴こえてくる。遠くからやって来る音達を背に受け止め、名前は一区切りとなった黄瀬の話に相槌を打った。
 彼が中二から吹奏楽を始めた事はパート選考の時から知っていたが、経緯は初耳だ。つまり青峰は黄瀬の憧れの存在という事かと解釈する。

「本当は青峰っちと同じ楽器やりたかったんスけどね〜。オレが入った時にはもう人数埋まってて…決まったのはこれだったって訳っス」

 黄瀬は快活に笑ってソプラノサックスを揺らす。蛍光灯が管をキラキラと光らせた。

(大輝くん…悪い人じゃないのに)

 名前の頭にある真の疑問符は残ったままだった。話を聞く限りの青峰は実に好印象だ。黄瀬にきっかけ作りをした彼が、黒子や桃井を哀しませる要因になっているとはどうしても考えられない。
 黄瀬は名前の困惑を知らず、話を続行する。名前は一先ずそれに応じる事にした。

「青峰っちのサウンドは、変幻自在で大きくしても小さくしてもしっかり音楽になってて…あー上手く言えねぇっスけど」
「痛い音になったり貧弱な音になったりしないって事…かな?」
「そうそう! まさにそれなんス!」

 言葉を付け加えて明確化された説明に黄瀬は喜ぶ。
 天才的なサックス奏者である黄瀬がここまで褒める逸材だ。きっと青峰の実力は計り知れないのだろう。聴いてみたいと溢した名前の声を拾い、黄瀬はまた青峰は凄いのだと繰り返し推す。

「そんで、中等部にいた頃のオーディションではいつもソロパート勝ち取ってたっス!」
「…オーディション」

 一番正確で手っ取り早いソリスト選びの方法にオーディションという手段がある。
 舞台に乗ってしまえば学年は関係無くなる。上級生がいても、上手ければ下級生がソロを吹く。強豪ではほぼ当たり前の理だ。
 珍しい事では無い。中学時代、部員数がコンクール出場ギリギリだった名前さえもオーディションはそれなりに経験してきた。これのおかげで上手くいった演奏会が何度もあるし、部員のやる気に繋がったエピソードは数え切れない。
 しかし、名前はオーディションが大嫌いだった。部内で優劣を決めるのはどうしても好む事が出来ない。たとえそれが、音楽を向上させるのに欠かせないものだと解っていても。

「やっぱり強いところはそういうのあったんだね」

 素直に頷けず検討違いな言葉を返してしまったが黄瀬は満足そうだ。名前には、彼がオーディションの話を楽しんでいるように見えた。

「ねぇ…涼太くんは、」

 大輝くんが来なくて寂しくないの?
 訊ねようとした名前の声は、黄瀬の「あ!!」という叫び声に消し飛ばされた。彼の見開かれた目は時計を向いている。針は桃井がいなくなってから10分動いていた。

「すっかり忘れてた!! オレ、練習しようと思ってたんスよ!!」

 名前と桃井に会うまでの自分を黄瀬は回想する。いつも使っている音楽準備室で赤司が書類をまとめていたため、使われていない教室を探していたのだ。つい青峰を語るのに熱中し過ぎて当初の目的を頭から無くしていた。
 大まかな事情を話し机に突っ伏す黄瀬を見て、名前は頬を掻く。赤司がいる場所での自主練習は確かにおぞましい。

「良かったら、ここで吹いてく?」

 咄嗟に名前は、発する言葉を青峰の事から練習の事へと切り替えた。さすがに練習を邪魔してまで訊く話では無いと思ったのだ。
 判断は正しく、黄瀬に「そう言ってもらえると助かるっス!」と盛大に感謝された。

「私は聴いてても大丈夫?」
「もちろん!」

 黄瀬が楽器を構える。吸う息が小さく響き、豊かな音色が生まれて空気に馴染んだ。
 また今度、機会がある時に窺えばいい。名前は青峰の事を頭の引出しに仕舞って、ソプラノサックスの奏でに耳を預けた。

 窓から覗く午後の太陽は高く上がり、燦々と輝き続けている。今日一日は晴れそうだ。








***


トーン=音色、音調
ロングトーンの「トーン」もこれにあたります。

 予想以上に長くなりましたが、黄瀬君の入部経緯でした。完全な登場ではありませんでしたが、ちらっと青峰君が出せました!
 毎回完全に明るい話にする事が出来ず、ちょっぴり虚しいです…。


***







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