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 全パートを音楽室に集めるために走り回った名前は最後にフルートパートへ戻ってきた。後輩二人の音が聴こえ、廊下で立ち止まる。美しい旋律が嫌でも耳に飛び込んできた。
 桜井は曲の十六分音符刻みを途切れる事無く奏でている。緑間は既にインテンポで練習しており、曲をほぼ完成させていた。自分がいないくらいで彼らには何の影響も無い。暗くなる気持ちを押し殺してドアを開けた。

 どういう顔をして良いか判らず、ずっとパートを抜けていた事に謝罪の言葉を並べた後、集合の旨を伝えて教室の現状復帰をする。出してもらった椅子も結局使わずに片付ける事になってしまった。
 桜井が「お疲れ様でした」と声をかけてくれたのが救いで、控えめな笑顔を向ける。緑間は名前の表情に顔を歪ませ、一足早く練習教室を出ていった。





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 音楽室に辿り着いた時点で合奏形態のセッティングは完了していた。パーカッションパートや早く来たパートが用意をしてくれたのだ。名前は彼らに感謝し、指揮台が目の前にある自席に荷物を置いた。左隣の桜井、右隣の緑間も各々の準備に取りかかった。
 帝吹ではフルートとオーボエは最前席で固定、クラリネットはその後ろの二列目にいる。ほぼ真後ろの桃井が名前に優しく笑いかけていた。基礎合奏時のクラリネットパートは桃井が内側、真ん中に小金井、外側に伊月が座るのが基本型となっている。その他の楽器配置もオーソドックスなもので、クラリネットの隣にサックス、三列目にホルンとユーフォニアムがいる。管楽器の最後列にはトランペットとトロンボーンボーンが控えており、パーカッションはさらにその後ろだ。チューバは、ユーフォニアム・黒子の左スペースに緩くカーブする状態で、奥から紫原、水戸部、木吉の順に並んでいる。
 全然吹いていないせいで名前の楽器は冷えきっていた。まだ音出しすらしていない事を思い出し、慌てて楽器にチューナーマイクを繋げる。息を入れ基本音を即行でチューニングした後、指をキイの上でバラバラと動かし固まっていた手を解していく。なんとか赤司が来る前に一通りの音出しを終えた。
 基本、合奏前のチューニングは各自で行っている。比較的仲の安定しているクラリネット、サックス、ホルン、トロンボーンは毎回パート内で合わせているが、名前は以前緑間に必要無いと言われてから誘っていない。

 音楽室に管楽器とスネアの音が入り交じって響く。名前は基礎練習用のファイルを譜面台にセットしながら、背後に伝わる音韻を聴いていた。




「待たせたね」

 しばらくして赤司がタクトとスコアを持って入室し、音は一気に止んだ。彼はそのまま指揮台に登り、周りを見渡した。少し古びた台には指揮者用の譜面台と椅子が置かれている。赤司の手の届くところには先日購入したばかりの新品のハーモニーディレクター、電子メトロノームも準備されている。

「始めようか」

 赤司の一言で全員が椅子から立ち上がった。合奏の最初と最後には必ず全員で立って挨拶をする。合図出しは3年がローテーションで行う決まりになっていた。

「今日誰だ? オレ違ぇぞ」
「オレはこの前やった。今吉じゃないか、多分」
「ワシか…」

 宮地と森山から話を振られた今吉が「お願いします」と声を出し、全員がそれに続いて頭を下げ、適当に座った。

「…では、まず音階ロングトーンから──」

 帝吹の基礎合奏では一般の学校と似たようなメニューをこなす。赤司が部長になってから少しずつ変更されているものの、基本的な項目はそのまま継続されている。





♪────



 様々な調でロングトーンを終えた後は半音階やタンギングの練習を繰り返し行い、最後にハーモニー練習としてコラールを吹いた。赤司はどのメニューをこなす時も顔色を変えずに聴く。近くだからか倍増しの威圧感に名前は背筋が凍る思いだった。

 時間というのは楽器を吹いているとあっと言う間に過ぎる。帰りミーティングと片付けの事を考慮し、赤司は20分間を残して練習を切り上げた。






 ミーティングが終わりほとんどの部員が帰路に着く最中、名前は時間を取り戻すために音楽室で譜読みを兼ねた自主練習をしていた。

(あ……、音間違えた)

 鳴っていたフルートの音色がプツリと途切れ、譜面にマーカーの印が付け足される。中学の時から吹いてみたいと思っていた新曲だったが、調がかなり複雑で名前は苦戦していた。今日もし初見合奏をする事になっていたら確実に吹けなかった。

(真太郎くんに睨まれてただろうな…)

 一人になるとどうしてもネガティブな思考に陥りがちになり、指が上手く回らなくなっていく。首を横に振り、もう一回…と楽器を構えて姿勢を正すと、眼前に人が立っていた。

「苗字先輩」
「うぎゃわっ!? …テツヤくんかぁ」
「自主練、お疲れ様です」

 ユーフォニアムを抱えた黒子が頭を下げる。驚いてしまった事を謝ると、彼は特に気にした様子も無く「大丈夫ですよ」と笑んだ。

「テツヤくん今日も残ってるんだ、偉いね」
「そんな事ありませんよ」

 晴れない笑顔の名前。黒子はパート巡回時に彼女が気落ちしていたのを基礎合奏中もずっと気にしていた。ユーフォニアムの位置からはサックス奏者やフルート奏者の後ろ姿がよく見える。彼女の背筋は少し前屈みになっていた。

「あの、苗字先輩」
「うん、何?」
「今度開いている時で構わないので…またチューニングを見ていただけませんか?」

 名前は思いがけない黒子のお願いに「へっ?」と素っ頓狂な声を上げて瞬きした。声を上げて瞬きした。

「今日、苗字先輩がボクの音程を気にかけてくれたのが嬉しかったんです」

 これは嘘偽り無い黒子の本心だった。音の役割も学年も違う彼女だが、まるで同じ楽器の先輩のように自分の音程合わせに付き合ってくれた。個人パートの黒子にとってそれは堪らなく幸せな事だったのだ。
 名前の重い心がふわりと軽くなった。ここには自分を頼りにしてくれている後輩がいる。先輩としての自分の存在価値を黒子に諭してもらえた気がした。

「お願い出来ますか」
「…うん!」

 名前は力強く頷いた。輝く彼女の笑みに黒子は心から安堵した。

 赤い時計の針が下校時刻に近付き、聞き慣れた校内放送が校舎内に響く。春の夜風がカーテンを揺らし、名前と黒子の間を通り過ぎた。








***


▽今回の用語

・チューナーマイク…音が飛び交う場所でも正確にチューニングが出来る便利アイテム。楽器のベルとチューナーに先端部をそれぞれ繋げて使用。別名・コンタクトマイク。
・ハーモニーディレクター…ピッチや音程の調節が出来る、吹奏楽指導のために開発されたキーボード。

 インテンポとは音楽用語の一つで「正確な速さで」という意味があります。今回は「曲の指定通りのテンポ」の意味で使わせていただきました!
 キイは木管楽器の側面にあるボタンのようなものの事です。これを指で押さえ、音孔を開けたり塞いだりして音を変えます。
 ハーモニーディレクターを使えば、平均律、純正律、不協和音など様々な音を作る事が可能です。メトロノーム機能もついている、まさにハイスペックキーボード…!
 長い割に淡々としてしまいましたが、基礎合奏&黒子君のターンでした。彼の協調性は吹奏楽部に必要不可欠ですね!


 見難いのを承知で、帝吹の楽器配置を以下の図にまとめてみました!



…──パーカッション──…____
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←トランペット→_←トロンボーン→___
←─ホルン─→_ユーフォニアム_____
____________
チューバ_
_____________
チューバ
_________Bサックス____チューバ
____クラリネット_____Tサックス___
クラリネット____Aサックス_____
クラリネット_________Sサックス___
フルート___
フルート___オーボエ____
_

[指揮]___



S…ソプラノ、A…アルト、T…テナー、B…バリトン


 学校や楽団によって前列に来る楽器が違ったり配置が左右逆になっていたりするので、様々な団体を比較してみると面白いですね!


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