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 3階の廊下は窓から射し込む西陽で照されていた。一番奥の教室の中から小さな音が微かに聴こえてくる。
 巡回を毎日行っている訳では無いがきちんと覚えている。一生懸命練習する、目立たない彼の姿を。
 電気のついていない教室のドアを、名前は静かに開けた。

「テツヤくん」

 窓際一番後ろの席に彼は座っていた。優しい色の髪とシルバーのユーフォニアムに夕陽の橙色が映し出されている。影の薄い彼はこの橙色に消え入ってしまいそうなくらい儚げに見えた。
 名前の姿を認識すると、彼はゆっくり楽器を傾けて振り向く。

「苗字先輩、こんにちは」

 ここはたったひとりのユーフォニアムパート、黒子テツヤの練習教室である。





──── 009





 黒子はユーフォニアムを横抱きにすると、膝に乗せていた水色のタオルで口を拭った。

「今日は巡回あるんですね」
「? パート練の時はいつもリコちゃんが回ってるはずだけど…」
「よく忘れられるので」
「……リコちゃんに言っておくね」

 想像していた以上に黒子の影の薄さは容易ならないものらしい。名前は苦笑して、彼の隣の席から椅子を引いて座った。

「どう? 調子は」
「いつもみたいな感じです」

 黒子は譜面台上に置かれているチューナーに目線を落とした。
 彼の“いつも”とは否定的な意味を含んでいる。黒子は中等部出身でありながら個人の技術があまり高くない。肺活量は無く、個人チューニングもなかなか合わせられない。
 しかし合奏になった途端、彼は音を自由自在に溶け込ませる。周りの音を聴いて合わせるのに特化しているのだろう。そんな黒子の長所を名前は理解していた。

「チューニング、私で良ければ見ようか?」
「苗字先輩のご迷惑になりませんか?」
「迷惑だなんて全然! むしろ頼ってほしいな」

 黒子のチューナーを持ち上げて笑みを浮かべる名前に、黒子は申し訳無さそうに眉を下げた後「お願いします」と柔らかい声で言った。





♪────



 黒子のユーフォニアムがチューニングの基本音を、弱くも真の通った音色で奏でる。

「ん、ちょっと音低いかな。もう少し暖かい息で…」

 最初は大きくずれていたが、少しずつ正しいピッチに近付き出した。
 名前は実渕や木吉に教わった金管の知識を思い出しながら、彼のためになるアドバイスを少しずつ増やしていく。

「…あ!」

 そして黒子の音程が見事に真っ直ぐになった時には、喜びのあまり椅子から立ち上がった。

「合った! 合ったよテツヤくん!」

 はしゃぐ名前の隣で、黒子は少し乱した息遣いで微笑んだ。

「苗字先輩のアドバイスのおかげですよ」

 黒子の言葉を聞いて、名前は益々嬉しくなった。彼は心の底から自分のアドバイスを受け入れてくれる。
 気性の荒いパートの巡回後だけあって、黒子の穏やかな受け答えは名前の心を和らげ、癒していた。

「……テツヤくん、」

 うっかり弱音を口に出してしまいそうになる。他のパートの事も自分の力不足の事も相談して楽になってしまいたい。だが、それを言っても黒子を混乱させるだけだ。
 言いかけて口をつぐんだ名前に、黒子は首を捻る。

「苗字先輩?」
「ううん、何でも無い! チューナーありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」

 黒子は名前が何か悩んでいるのだと悟ったが原因が解らず、かける言葉が見つからなかった。

(苗字先輩ひとりで抱え込み過ぎないと良いんですけど……)

 ドアが閉まる音を耳にして、音程の合ったユーフォニアムに再び息を吹き込んだ。








***


▼ユーフォニアムパート

・中低音域を担当
・1人構成(黒子)


▼今回の登場

≫黒子テツヤ(ユーフォニアム)
高等部1年。中等部からの内部進学生。影が薄い。パート巡回の時によく忘れられ、誰も見に来ない事がある。


▽今回の用語

・ピッチ…音高(知覚される音の高さ)。音の物理的な高さ(基本周波数)。

 吹奏楽の基本周波数は442Hzです。
 音程は通常、「高い」・「低い」で表されます。今後は、「音が高い」・「音が低い」などの表現で出てくるかと思われます!
 ユーフォニアムは吹奏楽のみに使用される楽器で、オーケストラに無いので知名度が低いんですよね…。「チューバの小さいの」と言えばだいたい伝わりますよ! チューバも有名じゃないですけれども…!(泣)


***







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