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初々しい唇




 キスをさせてくれと笠松に頼まれ、名前が了承してから早くも数十秒。名前は目を閉じたまま唇を動かし、幸男くん?と笠松の名前を口にする。笠松は意を決して、ついに彼女に──


「悪ぃ…名前…、やっぱ無理だ……」

 触れる事無く、離れた。




「大丈夫だよ…! そんなに落ち込まないで」

 笑って言う名前に、笠松は申し訳無い気持ちになりながら握り拳を固くして俯いた。笠松より少しだけ人生経験の長い名前は寛容な態度で、まだ触れる事も億劫な彼を優しく見つめる。

 日が射し込む部屋の真ん中に二人は並んで座っていた。今日はお互い用事も無くて久々に会う事が叶った休日だ。名前も笠松も日々多忙な生活に身を置いているため、この日を逃したらまたいつ会えるか判らない。そんな中、彼女にキスさえも出来ない自分は面倒な人間だと笠松は思った。
 触れたい願望や満たしたい欲求はつのるばかりだが、自分にはその段階に至れるまでの勇気も経験も無い。爪が食い込む程に手の力を入れていると、名前から手に傷が付いてしまうと咎められた。

 名前はいつも「心の準備が出来た時で良いよ」と言い聞かせてくる。笠松はそれが何だか納得いかなかった。本当は男として名前をリードしたい。年下だからといって甘やかされるのは嫌だった。

「私はいつまでも待てるからね」

 そしてまた、彼女は笠松を甘やかそうとしてくる。笠松は男心を解ってもらえない切なさでズキリと痛む胸を片手で押さえた。

「ど、どうしたの! 気持ち悪くなっちゃった?」
「ち、違っ…!」

 体調が悪いと勘違いした名前が笠松の間近に迫る。バランスを保てなかった名前と笠松は抱き合うような形で密着した。
 女性らしい匂いが近距離で香る。香水か、シャンプーか、はたまた彼女自身のフレグランスか。鼻を擽る甘さはゾクゾクと笠松の身体を震わせた。

「〜〜ッ、やめろ!!!」

 このままでは理性が失われる。直感した笠松は名前の肩を掴んで思い切り遠ざけた。
 突然の拒絶に名前の瞳が揺らぐ。笠松にこんなに強く怒鳴られた事は今まで一度も無かった。心理的な衝撃を受け、息が詰まる。辛くて苦しい、そう感じた瞬間に名前の視界はじわりと霞んだ。望んでもいない涙がほろほろ溢れ出す。

「!? 名前…」
「…あ、ご、ごめんね……」

 笠松の困惑混じりの声に自分が泣いているのを自覚すると、意志に反して涙の量は更に増した。
 こんなくだらない事で幻滅されたくない。名前は慌てて何度も謝り、目をごしごし拭った。出来たばかりの涙痕が痛々しい。

 笠松は初めて見た名前の泣き顔にそれはそれは動揺した。普段から年上らしく強かに振る舞っている彼女が自分のせいでいとも簡単に涙してしまった。直ぐ様、如何に泣き止ませたら良いものかとぐちゃぐちゃな脳内を無理矢理回転させる。
 咄嗟に体が動いて名前の華奢な肩を掴み直す。とにかく今の彼には悩む余裕など無かった。

「…っ、幸男く、……んっ」

 擦れて赤くなった名前の頬に笠松は自分の唇を吸い寄せた。純粋な涙の味が舌を撫ぜる。漂う甘い香りに負けじと目を強く閉じ唇を動かす。小さなリップ音が響いた。

 体を離して目を開くと何が起きたのか理解出来ずに硬直している名前が映った。

「幸男…くん」

 驚きのあまり、名前の涙は止まった。だが、紅潮する頬はどうしようも出来ない。そこでやっと、笠松の思考は正常に戻っていった。取り返しのつかない事をしたと脳が理解し、顔面蒼白になる。
 名前は暫し固まった後、白黒させていた瞳の焦点を笠松に合わせた。知らぬ間に先程の自分のようになっている笠松に、名前は狼狽える。

「あ…オレ…、こんなつもりじゃ…。すみません、でした…っ」
「えっ? そんな! 謝らないで…!」

 笠松が敬語になるのは極度にあがっている時だと名前は解っている。弱々しく動く笠松の両手に触れて、しっかり見つめた。

「私、凄く嬉しかったよ」

 大好きな彼が、初めて唇で触れてくれた。仲が進展した気がして喜びが溢れ出す。名前の口から出たのは感謝の気持ちだった。

 笠松は鼻をぐずぐずさせて、手を握られたまま低位置にある名前の左肩に頭を預けた。名前は右手だけ離し、笠松の背中をあやすように数回叩く。

「大丈夫?」
「嫌われたかと思ったじゃねぇか…。あんな顔しやがって…」
「私が幸男くんを嫌うなんて、死んでも有り得ないよ。というか、私の方が嫌われたかと思ったじゃない」
「……悪かった、本当に」
「もう、良いってば。お互い様!」

 体勢を戻した笠松を名前が励ます。そこに悲しみの色は無く、一段と暖かい表情が窺えた。
 笠松は未だ震える自身の掌で名前の頬を包み込んだ。まだ恐いが、さっきまで自分を支配していた不安はもう無い。

「も、もっかい…すんぞ」
「平気なの?」
「今度はちゃんとする、から」
「…うん」

 名前は小さく笑み、目を瞑った。瞼の裏側に彼の真っ赤な顔が浮かび、幸せが膨らんでいく。

 ぼやけた影はゆっくり近付き、やがて一つに重なった。




fin.

(2013/10/26)



 年上相手に頑張る笠松君でした。夢中で書いているうちに自然とふわふわした方向へ進んでいきました。良くも悪くも…(^^;)
 ナナ様、大変お待たせいたしました! 申し訳ありません…! いかがでしたでしょうか? 書く側がドキドキしてしまう素敵なリクエストで私の頭の中はもう幸せいっぱいでした…! 拙い文章ですが少しでも楽しんでいただけたらとても嬉しいです(*^^*)
 リクエスト&50000hit企画参加、本当にありがとうございました!




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