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with 伊月俊




 観たいテレビ番組が開始時間間近だと気付いた私は、書き終えた日誌と鞄を手に急ぎ足で教室を後にした。今日は一緒に日直をやるはずだったクラスメイトが欠席していたために私の仕事が倍に増え、予定の帰り時刻を大幅に過ぎてしまったのである。こんなに遅くまでかかるとは思っていなくて、録画をしていないから困った。早く職員室に行って担任に日誌を預けて帰ろう。その目的のためだけに廊下を走っていた。

 階段を駆け降り、曲がり角に飛び出す。焦っていた私は、そこから人が出てくるなんて考えてもみなかった。気配を感じた時には手遅れで、鈍い音と汗の小さな雫が弾けた。

「ッ、ごめん!! …って、苗字?」

 よろけた私は、かっこ悪く尻餅をつく。そんな私に差し伸べられた手を辿った先には、心配した顔の伊月くんがいた。この時間帯、彼の所属するバスケ部は既に練習に入っている。動きやすい服装をしているという事は、休憩中なのだろうか。

「大丈夫? …もしかして怪我した!?」
「あ…ううん、平気だよ」

 無沙汰にしていた伊月くんの手に触れた瞬間、ぐぐっと体が持ち上げられて私は元の体勢に起こされた。不覚にも胸が高鳴る。クラスでの伊月くんは物静かなイメージがあるから、意外に硬くて丈夫そうな腕や体に吃驚した。

「その、ありがとう。…それじゃ!」
「あっ……」

 伊月くんが何か言いかけていたけれど、まともな返答が無理そうだった私はその場を走って逃げた。




 職員室に日誌を返し下駄箱で靴を履き替える前に携帯を出して時計を見る。あー…これは間に合わないかも知れない。
 あれこれ考えながら靴を取り出した時、私は人の足音が自分に近付いてくるを感じた。どんどん迫る気配は私の前で止まった。

「苗字!」
「えっ!?」

 側にやって来た人物を認識して叫んでしまった。だって、立っているのはさっき曲がり角で別れた伊月くんだったから。軽く肩を上下させている様子を見ると、走ってきたみたい。
 戸惑う私に、伊月くんはにこりと笑って右手を差し出す。彼の手にすっぽりと収まっていたのは、私が鞄につけていたキーホルダーだった。慌てて鞄を確認したら、教室を出る時にはあったそれが消えている。

「さっき、廊下に落ちていたのに気が付いたんだ」

 渡せて良かったと表情を柔らげる伊月くんはすっかり普通の呼吸に戻っている。体力があるんだなとまた彼を称賛しながらキーホルダーを受け取った。
 さっきは逃げてしまって印象があまり良くなかったと感じて、今度はきちんと顔を見てお礼を言う。伊月くんは暖かく「どういたしまして」と返してくれた。

「伊月くん、優しいね」
「そうかな?」
「そうだよ」

 転んだ私を助けてくれた伊月くん。明日教室で渡す選択肢もあった中、こうして私に落とし物を届けてくれた伊月くん。短い時間で彼の優しい部分を沢山見られたように思える。

「そうだ、ありが十匹でありがとう!」
「面白くないねっ」
「即答か…」

 伊月くんのはにかみは、私の焦りを容易に奪いつくしていた。急ぐとか間に合わないとか、もうどうでも良くなっちゃった。この笑顔を知る事が出来たなら、テレビ番組の一つや二つ逃したって全然構わない。








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