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with 笠松幸男




 学校通りの信号待ち中。早すぎるくらいの朝方、すれ違う生徒は全くいない。私の側にいるサラリーマンが起こした大欠伸が移りかけた。
 前を横切っていく車を見ながら、昨日美容院に行ったばかりの髪に手櫛を滑らせる。入念にシャンプーした成果が出て、横からほんのり良い香りがした。

 ライトの赤が青に変わったら、横断歩道を走って辺りを見渡す。目当てを発見した私は、朝冷えに身震いするその青年のもとへ一直線に進んだ。

「笠松くん!」
「あ? …苗字か。早ぇな」

 はよ、とぶっきらぼうでどこか優しさを含んだ挨拶に、私は明るい挨拶で返す。隣に並んだら笠松くんの歩くスピードが少し遅くなった。無意識に気遣いをしてくれる彼が、私は好きだ。
 いつもより意味深な視線で笠松くんを見上げてみる。会話が挨拶のみで途絶えたからか、彼は相当困っているように思えた。

「……」
「な、何だ?」

 あまり見過ぎても失礼だから、諦めて「何でも無い」で片付ける。やっぱり、私の変化は笠松くんに伝わっていなかった。
 逸らされてしまった顔へ、バレないように溜め息を吐く。こうなる反応はある程度予想していた。男の子の中でも鈍感の部類に入る笠松くんだもん、私がどんなに髪型を変えても気付かないだろうと割り切れるつもりだった。だけど、私の心では知らぬ間に期待が膨らんでいたんだね。ショックが想像以上に来てしまった。
 自ら事実を告げたくはない、複雑な感情が気持ちを拗らせる。一人落ち込んだ私は校門前に来ても続く沈黙を守る事しか出来なかった。本当は、笠松くんが朝練へ行ってしまうまでにもっと話したいのに。ネガティブ思考に陥っていく自分が嫌になる。

「……なあ」

 笠松くんが校門の直前で突然歩みを止めた。
 私の体に自然と緊張が走る。やけに静まっていると思ったら、周りには誰もいなくなっていた。

「どうしたの?」
「それはこっちの台詞だ」

 今度は笠松くんから私の目を見てきた。吃驚して喉がひゅっと一回締まる。何か言いたそうにしてるのが解った。逸らせない、逸らしたくない。

「さっきまで感じてた苗字の元気が失せちまった気がすんだよ」

 しばらく見つめ合った後に、紡がれた一言。笠松くんが私に与えたのは、期待の遥か斜め上を凌駕する応えだった。
 私の中に暖かいものが流し込まれる。まさか、私の凹みに真っ先に気付いてくれたなんて。ああもう、凄く嬉しい。髪型なんかよりもずっと!

「笠松くん、ありがとう!」
「はぁ!?」
「ありがとう! 気付いてくれてありがとう!」

 私はとにかくお礼が言いたくなり、思うままにマシンガンの勢いで笠松くんに感謝した。本人は、馬鹿みたいに騒ぐ私に着いていけず取り乱している。自分勝手な私でごめん。でも、笠松くんが私を喜ばせた結果なんだからしょうがない。
 彼との分岐点である玄関まであと少しの貴重な距離。笠松くんの朝練に支障が出ない程度に、全力で二人きりを堪能させてもらおう。また独断をした私は、制服の裾を揺らし、朝陽に負けない笑顔で校内に踏み込んだ。

 この数秒後、笠松くんがとどめの一撃を発する事を現時点の私は知らない。


「…髪の雰囲気、昨日と違くねぇか?」








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