どれだけの距離を無心に疾走っただろう。
何時間も風となっていた気もするし、過ぎてみればほんの数分の出来事であった気もする。
いずれにせよ間違いないのは、この女に背を預けるのは、今まで感じた事の無い恍惚を呼び起こすということだ。――とても、キモチイイ。無心に駆け抜け足を止めた場所で、体を冷やすやわ風を堪能する初めての悦びに、仔馬は満足げに鼻を鳴らして頭を軽く揺すった。
あいも変わらず空には夜の帳。空気は冷ややかに澄んでいる。
仔馬の背を降り、遠目に光る町明かりを足元に見下ろしていた女が、満足げに呟いた。

「本来であれば、お前の母親をこそ乗りこなしたいと思っていたが…」
「ぽに?」
「少しばかり、見誤っていたかも知らん。若馬の血気を侮っていたとでも言おうか」
「……ぽー、に?」
「褒めているのだ。私の道程の中、瑞々しい命を伴にした期間は然程多くは無かったから、とても新鮮で」


女の手が、柔らかく仔馬の背をなぜる。焔鬣を潜る時に、肉の焼けるような臭いがかすかに漂って、風に流れていった。

いや、私のことはどうでもいいな。

女は、女性にしては低めの声でそう続けると、真っ直ぐに町明かりを指差し、仔馬へ語りかけた。

「明かりがついているな。あれがどのような意味だか判るか、若き跳ね馬よ」
「…?」
「あれは夜営をしている証だ。夜は光量の問題であらゆる作業の効率が下がる傾向にあり、大抵の場所、種族では休息時間に充てられる。夜間に明かりの灯され続ける場所と言えば、警戒の為の物見台を兼ねていることが殆どだが…」
「……ぽにぃ?」
「あれだけ多くの場所で灯されているとなれば、今は緊急事態なのかもしれないな。住民を下手に刺激することは避けたい。…接触は昼に、表門を探し堂々と行うか…或いは、事態が収まるまでは接触を諦めるか。先程の男達とのやり取りを考えると、どうも、私が話したからと言って素直に話を聞いて貰えるとも考えにくい」
「ぽにー、ぽにー!」
「あの明かりは揺らめいていないので、焔のそれではないな。魔法技術が発達しているのか?…まぁ、いずれはどこかに身を寄せて情報を集めなければなるまい。どちらに決めるにせよ…今晩は野宿だな」
「ぽにー!」

仔馬の元気な返事を聞いて、女が口の端で苦笑する。

恐らくは、この馬が自分の当座の騎獣となるだろう。
馬を操るにあたって、乗り手としてそれなりの自覚はあるが、さて、育てる側となるとさっぱり自信がない。やり方も存じない。それは宜しくない。手探りの方法が増えるということは、それだけ、この馬の育ちの不全に繋がるということだ。
普段、訓練された成馬ばかりを伴にして居たことが、このように裏目に出るとは思わなかった。かつての自分の状況を考えれば当然の事なのだが。

「…まぁ。どのように育ったとしても、最後まで面倒は見てやるさ。考えてみれば、私が親の責任を問われる初めての子供という訳だ」
「ぽにー!」
「そう無邪気に喜ぶな。国の騎士団連中曰く、私の鍛え方は機械的なスパルタ式。厳しいらしいぞ…さて、準備をするか」


***


とは言え、その、準備というのがまず大変だった。
植生も分からず、気候も分からず、生態への理解もない。どのような性質の何に警戒すれば良いかも分からず、どのような塒であれば危険を凌げるのか――さっぱりなのだ。

取り敢えず鎧は脱ぎ置いた。
先程までよりも身軽になった体で、貴重品は一まとめにし、仔馬の近くへ。雨が降っていないのを良いことに雨風を凌ぐ屋根は作らなかった。代わりに、身体中に泥を塗りたくって、かき集めた草木の中に沈み込むようにして暖を取る事にする。
一通り自分の支度を終えて、そのまま普段の癖で馬から鞍を外そうとし、そんなものは無かったと思い至る。

「…逃げようとは思わないのか?」

しげしげと女が尋ねれば、仔馬は小首を傾げて、嬉しそうに一鳴きした。
しようもないやつめ。女は面白くも無さそうにそう続けると、草木の山の近くへ仔馬を誘導し、その場へ座り込ませる。

「馬は気配に敏い。お前が成体であれば、セオリーからすれば警戒はお前に任せるところだが、今日の所は休んでおくといい。敵がいれば、私もまず気が付くのでな」
「ぽに…?」
「明日は周辺の探索に入ろう。しっかりと休息を取ることだ。…私も、今日一日の治療を行ったらすぐに睡眠に入る」

興味深そうに長いまつげを瞬かせる仔馬を座らせて、女は草木の隣で胡座をかいた。首に下げられた白銀の飾りを外し、文字を書くようにして空中に文字を描く。

描き初めて、直ぐに女の眉が寄せられた。

いぶかしむような顔をした後、もう一度似たように手を動かし、今度はもう少し長く続く。望む効果がないと知れば、今度は口を開き朗々と言葉を唱した。

「【生と死を司る焔の神よ。その権能を讃え、慈悲を乞う。我が傷を癒したまえ、穢れを祓いたまえ】――……」

女は静かに暫く待つと、首に提げていた飾りを持つ右手を開いた。
月明かりが煌と照らし出す掌は、火傷を負ってじくじくと濡れている。続いて膝の上に置いていた左の掌を開く。じくじくとした傷が、掌全面に広がっている。

「ふむ」

まるで痒くも無さそうに女は頷くと、首飾りを着け直して立ち上がった。
頓着なく草木の中に体を入れて、隣の仔馬を眺めやる。

「少々参ったことになった」
「ぽに?」
「何でもない。おやすみ、若き跳ね馬」

呟き、そのまま枝葉に身を預けて目を閉じる。
これが、一晩目の出来事であった。