「ヘル!」

燃え盛る炎が一瞬男の斜め後ろを中心に広がり、檻までを包み込む。激しい一吹きは一瞬だったものの、残り火は今も地面に揺らめいて、木の葉に陽炎を写す。

「…あっつ!」
「ニャ!」

「ギャルルルルゥゥ!」

男達の軽い悲鳴をかき消さんばかりに、檻の中で激しい狂乱が巻き起こる。ギャロップ達の悲痛な嘶きが森を揺らし、巻き上がる火の粉が天へと登る。
夜にも関わらずまるで昼間のような明るさが周囲を包み、焼けた生木がもくもくと黒煙を生み出した。

「おい!ヘルガー!シャドーボールっつったよなあ!こんなに目立って、」
「……」
「一体誰がどうにかすると、…思っ………」
「どうした、旦那?」

元凶であるヘルガーを一喝しようとしていた男が妙に歯切れ悪く言葉を繋げたものだから、シザークロウと呼ばれていた少年も顔をしかめつつ振り返る。

ヘルガーの姿はそこには無かった。
そこにいるのは、損傷の激しい鎧を着込んで、赤黒い滴りを伝わせる剣を握った、女が一人。
周囲の様子など些事だと言わんばかりに、目を閉じてただ立っている。炎の中で。

「…おう、ヘルガー。まさかお前が擬人するとはな。いい女じゃねえか、少々妙な格好だが、悪くねえ」
「馬鹿。女好きでボケるのもいい加減にしろ」
「あ?」
「あのヘルガーはオス。女装趣味もにゃい。あの女は、突然ここに現れた、ポケモンだかにゃんだか、……兎に角敵!ヘルガーを回収しろ!」

言うが早いか少年は擬人を解き、自身の本来の姿を解放する。鋼のように鋭い爪、二足歩行の黒い体、赤い刃を並べたような尾。シザークロウと呼ばれるに至った自身の爪を前に構えて、戦闘体制になったニューラがその場に現れる。
同時に男が、先程までヘルガーが居た方へ当てずっぽうでボールを開く。檻が内側から衝撃を受けたときと同じ赤い光、女の向こう側へと伸びて行く。気を失っているのか、丁度ヘルガーが寝そべった時のような形に光は広がり、そのままボールの中へと収まった。
それが済んだと同時に、ニューラが疾走し無防備な女へと襲いかかる。爪を構えて、一歩、二歩、三歩、四歩──女が目を開いたが、もう手遅れだ。大きく跳躍し、女へ向けて大きく振りかぶった爪を斜めに振り下ろす。

「シザークロウ!」

筈だった。

気がつけばニューラはその顔を土につけており、斜めになった男、檻の中のギャロップの群れを体の痛みと共に呆然と眺めている。
肩に走る痛みを見るに、剣の腹でうちすえられたらしい。
近くに見えている柱のようなこれは、すぐには分からなかったが自分が襲いかかった女の足甲か?直ぐにそれは見えなくなり、弾けるような痛みと共にニューラの体が宙へと浮かぶ。

「…ニュー!」

宙で体勢を整え、受け身を取る。もとの位置まで蹴り飛ばされたのだということは、体を起こしたときに隣に男が見えたことで把握した。突然現れただけでなく、そこそこ敵対的。完璧にイレギュラーだ、ニューラはそう判断するとすかさずに擬人をし、男と意思の疎通を図ろうとする。
ニューラが体勢を整えたのをさして驚きもせず見て、女は手の内の剣を静かに天へと向ける。
どうすれば良いのか知っていたように、躊躇いなくそれを振り下ろす。
剣先から波紋が広がるように炎が静まり、夜に再び闇が戻った。
もう何が何やら。

「にゃんだ、あの女!」
「少なくとも人間じゃねぇのは確かだな…野生でもあり得ねぇ。少なくとも、こんな、平和ボケした土地じゃ…」

「我が名はフィリアノール!」

闇が戻ると共に、静けさも戻ってきたようだ。女の声が通った後には、怯えて震えるギャロップたちの軽い嘶きと、木葉のさざめきだけが周囲に響いている。

「……フィリアノール?」
「んな種族名聞いたことねえな。新種か?地方外のポケモンが、唐突になんでこんな所に現れる」
「俺が知った事かよ」

「出身は公国、竜帝を討つ使命を王より賜った剣士である。我が名に聞き覚えは?」

「やべえ。何言ってるかわかんねえ」
「キチの振りして油断を誘おうってんにゃら、成功だにゃ」

「無いと。では、もう二つ。貴公らの名前は。それから、このような夜更けに何をしている?」

聞いてはおきながらも、まるで興味無さげに女は剣を持ち上げると、夜風にひらめいていたマントを掴んで滴る血を拭う。曇りもない青白い光が戻り、満足したのか女は残された明かりへ目を向けた。──檻にひしめく、ギャロップの群れへと。
射抜くような視線を向けられて、群れはただ怯えたように萎縮するばかり。気を失った母親と、それにすがる子馬を守ることだけは忘れては居ないようだったが。

「炎を纏う馬か。変わり種だな。炎神の神殿へ寄与すれば喜ばれそうだ。…とはいえ、どのような騎獣も、乗りこなせない者には何の価値もないが」
「…ギャロップが気に入ったかい、お嬢さん」
「ようやく話が通じたか」
「アンタの可愛さに言葉を無くしちまったのよ」
「成る程。それが事実では、会話の通じないのも頷けよう」
「あん?」
「私は、お前達が何者で、此処で何をしているのかとを聞いたのだ」

涼しげな表情が崩れることはない。

「真っ当な商人であれば、騎獣に怯えは覚えさせない。痛みや暴力で服従させたとして、その獣は人に従う事に信頼を抱かない。主人よりも猛々しいもの、力のあるものに怯え、主人と二人であれば打倒できる驚異にも尻を向けるようになる」
「……」


男は一瞬だけ値踏みするような目で少女をしげしげと眺めると、へらりと表情を緩めて肩をすくめた。両手は顔の前でヒラヒラと揺らし、敵意の無いアピールまでしてみせる。
(ちらりとも見ねぇ。お高く止まりやがって…しかし、商人、公国、騎獣、か)
少なくとも、馬を単に畜生としては扱っていないようだ。

真っ当な人間でもなく、ポケモンでもなく、一般的には意味の通じない価値観の下に動き、事態をひっかきまわす。男にしても、そのような存在に心当たりが無いわけではない。

「……もしかして俺、非難されてる?」
「批判している。そのような騎獣を正当な額で買わされて、痛い目を見たことがあるものでな」
「だとしても、お嬢さんには関係がないだろう。俺達の商売だ」
「ふむ。それもそうだな」

頷くと、女は「それにしても見事だ」などと続けて無造作に檻へと歩みを進める。
ニューラが踏み出しかけたが、男が首を振って止めて、男自身も動くことはなかった。代わりに、抗議するかのように高い声をあげたニューラにだけ聞こえるように、ぼそぼそとした声で話しかける。

(待てよ。そうイキる事もねぇ)
(にゃんだよ!)
(やぶ蛇つつくのも好きじゃねぇ、ここは適当に話つけて帰って貰おうじゃないの)
(帰ると思うか?)
(少なくとも、正義感に満ち溢れてるって訳じゃねえ。もうすぐ帰ろうとしてた所だ、下手に騒ぎになるのも……な?)

確かに、表情に男達の行いを咎める動きはない。

(始末した方が早い!)
(殺しは最終手段だ、シザークロウ。お前の前の持ち主がどうだったかは知らんがな。俺は取っ捕まった時の言い訳の余地は残しておきたい)
(……。その名前は、あまり好きじゃにゃい)
(知ってるさ。お前は組織の物。大人しく従うんだな、怯えんなよ)

フィリアノールが近づいて来る。檻に触れられる程近くまで、要するに隣に至るまで。
ニューラが当然裾をぐいぐいと引っ張ってくるが、男はそれを一旦無視することにした。
舐められてはいけないのだ。男達のような生業のものなら、尚更。

「楽しそうだな」
「仲が良くてね。さておき、さっきの質問に答えるつもりは無い。そう物欲しげな顔をしても、お嬢さんにはやれねぇからな。嬢ちゃん、金持ってねぇだろ?」
「……」
「公国…と、言ったか。この辺りにそんな風に呼ばれてる土地はねえ。アンタのフィリアノールって名前だって、馴染みはねぇ」
「それで?」
「ア?」
「それで、と言った。聞こえなかったか」
「…それに、俺は仕事で来てる。人の仕事を善悪の秤で邪魔するタイプには見えねぇな」
「人の欲に貴賤はなく、仕事にも貴賤はない。法が守られるのは人々がその庇護下に置かれたいからで、そうでない人々がどうしようと、その結果どうなろうと、知ったことではない」

もしも少女が勧善懲悪を心に抱き、迫害や社会悪を厭う性格ならば、出会い頭で男達と会話することなくその行いを糾弾していただろう。
少なくとも、この少女は男達の行いが「真っ当」でない事を把握していた。その上でニューラを退け、後は手出しもしないのだ。

「それで?」
「…檻もある。金属製で、中にはちょっとした仕組みのかけられたウチの特別製だ」

「それで。」

少女は依然として檻に手をかけたまま、その手触りを確かめている。ちらりとも男の方を見ようともしない。
「それで、って…」
確かに勧善懲悪を指針とし自身の秤で他人を罰する類いの人種には見えない、しかしなんだ、この不穏な空気は?

「だから、…悪いこた言わねえさ。そこを真っすぐ行けば道に出る。んで適当な街に出て、今日のことは忘れるんだな」

(無理だ!やるぞ!)

隣のニューラが強く警告を発する。

ポケモンではない。ただの人間でもない。世間知らずで、それなりの理屈があれば丸め込める異邦人であると判断した。

「それだけか」

もしや、それは見込み違いであったか?
女にこちらを挑発する異図は見えない。もしそうなら、そうであったなら、隠している本心を暴く話の持って行き方ぐらいは心得ていた。いみじくも組織に所属してネームドのモンスターを支給される程度の矜持というものが男にもある。
背筋に冷や汗が伝う。
女が檻を見たまま、何でもない事のように続ける。


「それでは――この檻を壊し、お前達を叩きのめせば、中の物を自由にできる事には何の変わりも無いな」


「……なっ、あ!?」

その発言に絶句した男を置いて、フィリアノールの手の内にある剣が高く振り上げられる。
風を切り裂く音が一閃。
ギャロップ達の光の照り返しが強く煌めいたと思えば、気がつけばその剣は振り抜かれており──少女は、その剣を初めて鞘へと収めた。

「さて」

少し屈んで檻に手をかけ、軽く力を込める。檻の格子は容易く折れ、人馬が通るには十全な隙間が出来上がる。

「では馬を見繕わせて貰う。否と言っても、私は続けるが。邪魔をするのであれば抵抗はする」
「……、……」

無法者なのだろう?
最後まで振り返ることなく、フィリアノールと名乗った少女はそう言った。

「……合金だぞ!?」

「何の合金だかは存じ上げないが、さして可笑しな事でもあるまい」

フィリアノールは檻の中へ足を踏み入れ、ギャロップたちを見定める。いすくめられたギャロップ達はただただ怯えて体を震わせ、最終的に引いて出てきたのは例の色違いのポニータだ。
男は呆然とした顔でその状況を見ていたが、直ぐに正気に返り苦みばしった顔で声を張り上げる。


「シザークロウ!ズバット!グレッグル、ニャルマー!行け!」


**


男が呆気に取られた少しの間。そう長くもなく、そう短くもない数十秒。
躊躇いの無い行動が持つ強みとは、時間的猶予に他ならない。
そして時は機会の源泉である。フィリアノールが今までによく思い知らされた事だ。迷う事なく中に踏み入れ、怯える群れを刺激しないように目くばせをする。人に怯えたギャロップ達は、視線一つで簡単に後ろへ下がる。一体一体をじろじろと観察しながら歩みを進めると、自然、動かない二匹が取り残されることとなった。
傷付いた母親と、色の違う子馬だ。

「毛色…と、言って良いのか。いや、どうでも良いことか」
「ギャロ……」
「毛色の違う馬は、通常のものより虚弱だと相場は決まっている」

言葉を理解できるからだろう。母親は気力を振り絞ってフィリアノールを威嚇し、子馬に近寄せんとする。女はそれに頓着することもなくすたすたと歩みを寄せ、手慣れた手付きで母馬の首もとへ手を寄せる。

「どうどう…お前は頭の良い馬だ。しかし、今は傷付いた馬は必要ない」
「ギャロロ…」
「そうだ、落ち着け。子供は逃がしたいだろう」

言って、並び立つ子馬をしげしげと眺める。
もう一方の手を差し伸べれば、澄んだ瞳で自らすり寄って来る。危害を与えられないと分かれば素直にもべっとりと涎を垂らしながら子馬の力で掌にかじりつくのを見つめる表情は、先程まで男と話していた時とは違い、どこか嬉しそうですらある。
女は口を開いた。

「虚弱な馬は望ましくない。傷付いた馬も必要ない。しかし、臆病者はもっと相応しくない。時間はもっと無い。私が彼等に喧嘩を売ったからな。しかして、私はお前に決めた」
「ポニ…」
「行くぞ」

フィリアノールが鼻筋を二三回叩いて、青い炎を纏った子馬を引き連れて檻の外へ出る。

母親を恋しがって振り向くポニータを先導し、他のギャロップ達には見向きもしない様は、いっそ清々しささえ感じさせる。後ろめたさというものは無いらしい。


「シザークロウ!ズバット!グレッグル、ニャルマー!行け!」

男の腰元から檻の前に赤い光が三条差して、三体のモンスターがその場に現れる。シザークロウと呼ばれたニューラも、もう一度擬人を解いて原型へと姿を変える。

「こっちも、舐められたままでは居られないんでな。生け捕りにしろ!ポニータも逃すな!」

男の指示が放たれる。その間に、フィリアノールはポニータの首を下げて背に跨がった。
散開する四匹に目もくれず、剣は収めたまま。少女は躊躇いなく炎の鬣に手を差し入れて、首筋をゆっくりとなぜる。筋肉に沿ったこなれた指使い。
触れられている場所全てがじんと痺れて、不思議な高揚がポニータの心の底から湧いてくる。

「一つ、教えてやろう」

──野を自由に駆けるのよ。坊や。その自由が貴方にはあるわ。

母親の言葉が、ポニータの脳裏に思い浮かぶ。

早く走れるか?野に住む他者と上手くやっていけるだろうか?無様だと笑われはしないだろうか?
自分の毛色が他者と違う事、それが悪目立ちしていることを、子馬はこの日の以前から分かっていた。

母親は庇ってくれていたが、いつか別れは来るだろう。そして案の定、余りにも唐突に訪れた。

これからは一人で生きて行くのだ。孤独を心細く思わずにはいられない。踵を返し、母親に甘えたい気持ちが無いとも言い切ることは出来ない。

それでも、心の奥底が高揚を覚えている。
首を掴む手、バランスの取り方、足の挟み方、重心の位置。全てが心地よく、これからの出来事を想起させるのだ。

「この世は、なべて、戦わずには生きられぬ世界だ。生きたければ走れ!」

この少女に預ければ、きっと一人の時よりも自由に走れるに違いないと!

──野を自由に駆けるのよ。坊や。その自由が貴方にはあるわ。

「ポニーーーィイイイィイイイ!」

少女が馬の腹を叩くと共に、ポニータが高い高い嘶きを上げ、足を勢いよく持ち上げる。

「ハイヤー!」

声に奮い立たせられ、ポニータは勢いよく走り出す。その勢いに気圧されたズバットの下をかいくぐれる時にも、女の重心にブレは無い。ポニータの土を踏み締める力は強く、直ぐに初速を抜ける。
四匹は囲い込むように陣取って居たため、一匹を抜ければ後は驚いたようにポニータとフィリアノールを見上げる人間の男一人である。
勢いを緩めることなく、距離を詰め──ザンッ!と土を蹴る音と共に、軽々と飛び越えて行く。

「くっ、この…」

巻き上げられた土が顔に振りかかり、男は思わず腕で目を庇った。

「ニューッ!」
「ズバッ!」
「追うな!…ほっとけ、もう追い付けやしないさ。東京タワーを軽々飛び越える…見事なもんじゃないか。さ、お前ら。ボールに戻りやがれ」

男が腰元に触れて、三匹をボールに戻す。ニューラだけはその場に残されたままだ。
男は眩しいものでも見るように少女と子馬の走り去っていった方向を眺めて、大きくため息をついた。


「備品壊して、色違い逃して、舐められたまま逃げられて。これやっぱお叱り案件だよなぁ?」

「知るかよ。俺は散々口を出したにゃ」

「……つれないぜ、シザーちゃん」