クゥン。
か細く鼻を鳴らせば、嗜めるように、それでいてどこか労るように母親の鼻先が擦り寄せられる。ぴりぴりした空気に怯えていたのを宥められ、安堵の中で見る地面でそよぐ草木の緑は、深く瑞々しい夏の色。
草食ポケモンの自立は早く、大いに栄養の補給を必要とする。成長期にある幼子がそれを頬張る誘惑に勝てないのも致し方無い話。
母親に促され、むしゃむしゃと草を食む。
多くの同胞と共に、星空を隠すように覆われた檻の中で。

「おいおい、餌食ってんぞ。あのポケモン、自分の立場が分かってんのかよ?」
「ハン、分かるものかよ」

然程遠くもない場所で、その様子を二つの人影が眺めている。──いや、眺めると言うよりは『見張る』と言った方が正しいか。一人は成人男性、一人はまだ精々ハイティーンの少年のように見える。
十体程の小さな群れは、庇うように囲われたポニータを除いては、皆傷だらけ。野生で生きているからこその汚れというだけでなく、明らかに故意に傷つけられた痕もある。時折檻へ突進を行うギャロップも居たが、赤い光と共にそれは弾かれ、悪戯体の傷を増やすだけ。最早これまでと悟ったか、抵抗の意思を失ってしまったものも少なくはない。

「擬人して街に住むでもにゃし、誰かの手持ちに成っているでもにゃし。本能のまま生きてるだけの、正しくけだもの」
「そうさ。けだもの、希少価値があるだけのな!良く言ったシザークロウ、お前とは違う」
「ご主人のご機嫌伺いは得意でにゃ」

「ポニ?」
『心配しなくていいのよ、可愛い坊や。私が必ず守ってあげます。あそこに居る下衆の人間と、鼻持ちならない裏切り者は、すぐに私が蹴散らします。…密売の手引きなんて』
「ポニ…」

不安げに首をもたげる子馬。その炎は、周囲を囲う大人たちの明々と燃えるそれとは違い、静かに青く揺らめいている。
色違い。
一般的にはそのように呼ばれる、それなりに希少な個体を特別な報奨を支払ってまで集めるコレクターは少なからず存在する。そのような相手に差し出すために、無茶な捕獲を行う輩が居ることも把握している。
平和なシンオウにおいて珍しいことではあったが、野生ポケモンの中にも繋がりはある。我が子が生まれた時に、少なくない相手に忠告は受けたのだ。
母親にとって、目の前の相手が「それ」だった。

『鼻持ちならない裏切り者とは、俺の事かにゃ?』
『お前以外に誰が居るというのですか。主人の不徳を正す意気地も無い、臆病者!』
『生憎温室生まれ温室育ちで、そちらの側に居たと思った事は一度もにゃい。心外だにゃあ』
『…』
『このまま行けばアンタの孫も俺と同じく温室育ちかにゃ?しかし息子は相当トロそうだ、牝の後ろで尻を振るぐらいはまともに出来たらいいけどニャ!』
「ギャローォオ!」
「おうおう、我が子への侮辱は許さないってか?泣かせるねぇ。なんて言ったか知らないが、シザークロウは人を怒らせる天才だからな」

前肢を上げて威嚇した母親を見て、しかし男はその怒りもどこ吹く風、ニヤニヤ笑いを浮かべ一歩二歩と檻に近付き、檻に手を置いて挑発する。

「なぁ?ギャロップちゃん。精々いい子供産んでくれよ?」
「ギャローーーオオオォォォ!!」

度重なる挑発に怒りを爆発させた母親が、目の前を割れた群れをかきわけて助走と共に今一度檻へ突撃。──した瞬間に、赤い光が弾けて敢えなく吹き飛ばされる。
檻を壊して、外の男に額の一角を突き刺すことは敵わない。今までの繰り返し。

「ポニ〜〜!」

駆け寄る子馬に応える気力もなく、どう、と草を散らして遂に倒れ込む母親。もがいた先から草葉が宙を舞い、土埃が舞う。
それを見てゲラゲラと笑う男一人に少年一人。群れは完全に萎縮している。自ら首を深く下げているものすらある。

「ポニ、ポニィ……」

このままでは、捕まえられてしまう。自分は駄目でも、子供だけは。
母親は奇跡にでもすがるように草むらを見たが、期待に反して周囲の気配は静かなもの。
当然だ、誰もが巻き沿いを食いたくはない。自分でさえ、これが他人事であれば可愛い坊やと共に見つからぬよう息を潜めただろう。他のポケモン達が間に割って入る事は無さそうだった。

それでも、落胆の息をつくことはできない。 自分が諦めた時は、即ち子供が掴まる時だ。ただその一心で、一度は折れた膝に力を込め、体を持ち上げる。

「さて。なんだっけ?「耐久性の確認」?」
「「野生の群れを抑えた時の内側からの衝撃に対する耐久度の確認」。ちゃんと覚えてないから研究班のお嬢ちゃんにすげなくされるんだにゃ」
「うるせえな。そろそろ潮時だ、外から適当に痛め付けて、全員捕獲するぞ」

出てこいヘルガー。
男はそう続けると、腰元からモンスターボールを取り出して中のポケモンを解放する。
組織から払い下げられたばかりで、男には殆ど懐いていないために命令に逆らってばかりのポケモンだが、だからと言って使わないのではいつまでも状況は変わらない。
なに、ボールは此方が持っているのだ、いざとなれば直ぐに仕舞って組織でじっくり「教育」してやればいい。

「適当に、何発か、…そうだな、シャドーボールでもぶちこんでやれ。覚えてたよな?」
「ヘル…」

応えるように鳴いたヘルガーが、数歩後ろに下がる。
狙われてるんじゃにゃいか?まさか。俺達には当てるなよ。軽薄なやりとりをしつつ、男はこれ見よがしにヘルガーの持っていたボールを弄ぶ。

「グルル……」
『お願い、やめてヘルガー、助けて頂戴……』
「ニィ…」

「やれ!」

男が手を振りかざした瞬間、男の後ろから吹き出した獄炎が周囲を取り囲んだ。