ハロー、青緑の君
「こういう場では笑いなさい、玲琅」
隣に立っている父親が、憮然とした表情で言った。
この人はいつもそう言う。
普段はわたしの存在なんか目にも入らないってくらい放っておくくせに、
パーティーやお呼ばれの場なんかではいつもニコニコ笑って、わたしを気にかけて、
いい父親のふりをしては、ちっとも笑わないわたしに笑えと命令する。
「本日はお招き感謝します」
またひとり、本性を隠して無害そうな笑みを浮かべた小太りの男が近づいてきた。
父親はさっとさっきまでの表情をひっこめて、人のよさそうな、けれど隙のない様子で返事をする。
嘘で固めた自分を売りこむ男と、自分を嘘でのし上げた男。
これほど馬鹿馬鹿しい組み合わせはない。
父親が男の相手をしている隙に、わたしはさっさとその場を離れた。
いまや世界にも通用する大企業の社長の娘に生まれたことを、誇りに思ったことはない。
父親はとんでもない利己主義者だし、母親は有り余る金で好き放題だし、兄は自分が有能だと信じて疑わない馬鹿で、妹は全部が思い通りになると思ってる。
唯一まともなのはわたしだけど、家族ではわたしがいちばん浮いている。
無口で、自己主張が少ない、自閉的、批判的、感情表現が乏しい。
好きでそうなったわけじゃない。そうならざるを得なかっただけだ。
どんなに綺麗な宝石も、上等なドレスも、豪華な部屋も、何もかも、わたしにとっては汚いものだから。
全然欲しくなんかない。全部売り払って、それで一軒の家を買って、ひとりで粗末に暮らしたい。
通わなくたって卒業できる学校も、いなくても問題ない友達も、お互いに興味がない形ばかりの家族も、馬鹿馬鹿しい。いらない。壊してしまいたい。
どうしてそんなに、素敵な自分を作り上げてまで、お金が欲しいと思うんだろう。強欲なんだろう。人間だから?
それならわたしは何だと言うの。強欲でないわたしは人間ではないの? でもたぶん、家族ではないんだと思う。
休日の一家の団欒や、なんでもない友達とのお喋りや、ほんとうに些細なことに必死になることが、ずっと羨ましかった。
いまはもうそんなの夢だってわかってるけど、この状況を受け入れることは出来ない。
きっとわたしはおかしいんだ。みんながわたしを羨ましいって言うのに、全然いい気分になれない。
そうやって言われるたび、わたしの価値はこの家の娘だということでしか成り立たないようで、気持ちが悪くて、喚いて、相手を殴りつけたくなる。
そんなわたしは変わり者だと周囲からも認知されていて、最初は何かと近寄ってきたクラスメイトや父の知人も、どんなに媚びへつらっても無駄だとわかっているから、いまではあまり関わろうとしない。
父親はそんなことを知りもせずに、なおもいい印象を与えたいのかわたしに笑えと無理を言う。
それなら他を出せばいいのにと思うが、残念ながらうちの兄弟ではわたし以外あまり容姿がよくない。
まったく踏んだり蹴ったりだ。
「ああ、玲琅」
置いてきたと思っていた父親が、オレンジジュースのグラスを傾けるわたしを探しあてた。
うしろに見かけない男のひとを連れている。まだ若くて、二十かそこらかな。なんとなく、嫌な予感。
「こちらは饗庭工業を継ぐことになった松山遠一さんだ。前々から話していたんだが、彼がおまえを甚く気に入っているようで、この機会にぜひ結婚を前提に交際をと……」
最後まで聞かないうちに溜め息が出た。驚愕っていうより、やっぱり、って。
今回のパーティーの主役だという松山遠一は、にこにこおどおどしながら何度もむやみに頭を下げている。
一見好青年に見えるけれど、契約条件にわたしを求めてくるあたり、ただの善人とはいえないだろう。
父がそれに応じたということは、彼の会社がうちに並ぶか越すほどの大企業だから。
その証拠に、さっきから父はわたしに「うまくやれよ」という視線を送ってくる。
「松山さんと少し話したいから、父様はあっちに行っていて」
わたしは適当に父を向こうへやって、松山さんを振り向いた。
父は去り際「それでいい」と言うように頷いていたけれど、これからわたしが彼にどう当たるか想像もしてないのだろう。
松山さんはわたしを見て、にへらと笑った。笑い方はまぬけだけど、隙がない。
うまく世の中を渡っている人間はみんなそうだ。
「ずっとあなたと話してみたかったんです」
松山さんはそう言って、さりげなくわたしに近づいた。
なにか香水をつけているのか、柑橘系の香りがする。つんと鼻にくる、嫌いな臭いだ。
「それならそう言えばいいじゃない。わざわざ父様の承諾を得て、相互扶助の条件にしなくたって」
「そっちのほうが、あなたは断りづらくなると思ったから。お父上の会社が潰れるのは、嫌でしょう?」
やっぱり、ろくでもない奴だった。
にこにこ笑いながら、軽く首を傾げて、そんなふうに毒を吐いた。
こういう人間が嫌いだから、わたしはどんどんねじれていく。
こういう人間に飲まれるのが嫌だから、それに逆らって孤独になる。
「嫌よ」
わたしの言葉に、松山さんは愉しそうな顔をした。
思い通りに事が進んで、欲しいものが手に入って、満足したような顔。
けれどわたしは、それを、突き落とす。
「あなたの玩具になるのは、」
嫌。
そう言いかけたとき、会場に音楽が鳴り始めた。
前方のステージの上で、いつのまにか現れたオーケストラが、ゆったりとした舞踊曲を演奏している。
わたしの台詞を聞きそびれた松山さんは、恭しく跪いて、わたしに手を差し出した。
「一曲いかがですか、お嬢さん」
にっこりと、普通の女の子なら即座に頷いてしまいそうな甘いスマイル。
わたしがYESと答えるのを完全に信じ込んでいる、自信に満ちた表情。
けれどわたしは、頷かなかった。
綺麗なものは嫌いだ。その下には、すごく汚いものが隠れているから。
松山さんの綺麗な微笑みの下も、きっと醜いものでぐちゃぐちゃだ。
それを見るのが嫌だから、それを受け入れたくないから、わたしは頷かなかった。
その代わり、差し出された手を片手で払いのけて。
「嫌。あなたと踊るなら、死んだほうがマシ」
そう言って、呆ける松山さんを残して踵を返した。
裾の長いドレスは歩きづらくて、踊る人たちをうまく避けていくのは大変だった。
途中父親に会って(母ではない綺麗な女のひとと踊ってた)、松山さんはと聞かれたけど、さあ、なんて言って肩をすくめるとさっさと会場を出た。
熱気に酔って気持ち悪くなりそうだ。涼しい風にあたりたくて、庭に足を運ぶ。
今夜は満月が綺麗だった。整備された芝生をキラキラと照らして、頭上高くに輝いている。
綺麗でありながら、唯一穢れないもの。それは綺麗を通り越して、崇高ですらあった。
きっと父なんかは、こうして月と見つめ合う静けさを知らないんだろう。風にあたる心地よさを、満たされた感覚を覚えていないんだ。
広間からは光と音楽が漏れていて、静寂とのコントラストがなんだかすごく虚しかった。
「一曲いかがですか、お嬢さん」
聞いたことのある台詞を、聞いたことのない声が言った。
振り向くと、庭に出てきたのは背の高い男。年は、わたしとあまり変わらないかもしれない。
月明かりのせいで青緑に見えるのかと思った瞳は、わたしの目の前まで来ても青いままだった。
そのせいで、まるで人形みたいだ。無国籍の、絵に描いたような青年。
「それとも、俺と踊るくらいなら死んだほうがマシ?」
くつくつと喉の奥で笑って、男は首を傾げた。
「見てたの」
「あれはいい。あんたがいなくなったあとのあいつの顔、最高」
男は顔を崩して笑うといくらか幼く見えて、いくら待っても自分はどこの会社の誰だとか、何をやっているだとか、わたしが聞き飽きたようなことをひとつも言わない。
名乗ることさえせずに、わたしの前に膝をついた。
「Why don't we dance?」
聞こえてくる音楽はテンポの速いワルツに変わっている。
男は青緑の瞳を静かに揺らして、わたしを見つめていた。
それを見つめ返していると、無意識に手を重ねてしまう。
今度は、振り払ったりしなかった。なぜか振り払えなかった。
「Why not?」
わたしが答えると、男は薄く微笑を浮かべて立ち上がり、うまくリードして音楽に乗せてくれる。
強引でなく、柔なわけでもなく、一つ一つの動きが、どこまでも澄んで洗練されている。
ダンスは恥をかかない程度にしか習っていないわたしでも、まるで踊り子になった気分だった。
ステップが軽くて、指先の動き一つまで美しく、ドレスの長い裾だって気にならないし、相手が見知らぬ誰かだっていうことが心地よい。
「上手ね」
一曲踊り終わって素直に褒めると、男は恭しくお辞儀をしてみせた。
「光栄の至り」
顔を上げて笑うと、それがまた嘘っぽい。
けれどそれは不快なものではなく、何かを隠そうとしているというよりは、わざとおどけているみたいでおかしかった。
父の知人に限らずこういうパーティーなんかに来ているひとたちはみんな、利益しか考えない人間ばかりだと思っていたけど、この男はなんだか違う。
飾らない、それでいて無視できない存在感があった。
青緑の瞳も、見る者を惹きつける。
「あなた、名前は?」
わたしが聞くと、彼はなぜか苦笑した。
「なに?」「いやべつに」
そう言って苦笑を引っ込めてから、「シアン」と答える。
「シアン?」
「そのまんま、あだ名」
なるほど。彼の瞳はたしかにシアンだ。
「本名は」
「出来れば言いたくないけど」
「どうして」
「がっかりするだけだから」
「わたしが?」
「俺が」
意味がわからない。
いいから教えて、と急かすわたしに、彼はまた苦笑して肩をすくめた。
「ためしに聞くけど、樋口碧って知ってる?」
「知らない」
「やっぱり」
溜め息をつく彼は、落胆しているというよりは呆れているみたいだ。
樋口碧なんて、聞いたことがない。たぶん。
碧って、本名までそのまんまじゃないか。
「まあ、いいや」
碧は浅く息を吐いて、上等なスーツが汚れるのも気にせずにその場に座り込んだ。
こんな不躾な男がよくも今夜のパーティーに呼ばれたものだ。
呼ばれた人間だからこそ、注意しなければいけないわけだが。
「俺、あんたのクラスメイトなんだけど」
突然そんなことを言われて、わたしは思わず目を見開いた。
その瞬間はたしかに油断していて、まったくの無防備で、腕を引っ張られれば簡単によろけて地面に膝をついてしまう。
「嘘」
転んだわたしの手首を掴んだまま、碧は悪びれたふうもなく言って笑った。
だから、油断できないのに。わたしは彼を睨みつけて、「離してよ」と低く唸る。
「気が短いよ、お嬢さん」
碧はやれやれと溜め息をつく。
「離して」
「最後まで聞けって」
「嫌」
最後までも何もないだろう。
結局こいつも他と変わらない。
少しだけ違うように見えたのは、彼の瞳が息を呑むほど綺麗だったから。
澄んでいた窓ガラスが、とたんに曇っていくみたいだ。
「ほんとは隣のクラス」
碧は真面目な顔で言うけど、わたしは疑う顔を隠さなかった。
「嘘じゃない。あんたが学校嫌いなの知ってるのに、こんな嘘ついたって意味ないじゃん」
なんで知ってるのかは疑問だけど、たしかにそうだ。
クラスメイトだの何だのと言われようと、心を開く気になんかなれない。
けど、わたしは張り詰めた神経を緩めなかった。
それを見て碧はふっと笑って、
「可愛い。ほんとは急に手を引かれて、びっくりしただけなんじゃないの」
そう言って、ぱっと手を離した。
……図星でないこともない。
不意に掴まれた手首は熱が絡みついたように、放されてもなお熱い。
「俺はただあんたと話をしたいだけ」
「……どうだか」
「疑り深いなあ」
「信じたってしょうがないでしょ」
信じても何も得ない。奪われるだけだ。
疑えば騙されない。冷めてしまうけど、奪われるよりずっといい。
信じても大丈夫なのは、玲瓏と浮かんでいるあの月だけ。
思ったより冷めた口調をしていたのか、碧がきょとんとしてわたしを見る。
広間から流れてくる音楽が、ひどく色あせて耳障りだった。
「なるほど」
無理に同調するのではなく、素直に感心したような声だった。
「信じるだけ無駄?」
「そう」
「それは、裏切られるから?」
「奪われるから。みんな自分の利益しか考えてない」
「そうかなあ」
「少なくともわたしは、そういう人間しか知らない」
そう言ったわたしに、碧はまた「なるほど」と頷く。
今度はなにか満足したみたいな声音だ。
「あんたは賢いんだ」
「は?」
「奪われるってわかってるのに、みすみす騙されたりなんかしない。けど、可能性を知ってる」
「可能性?」
急になんの話だろう。
碧はうん、と頷いて、にっと口角を上げた。
「そうじゃない人間もいるっていう可能性」
「……なにそれ」
「俺と一曲踊ったのが証拠だ。俺は違うって思った。あんたからなにかを奪うような、そういう人間じゃないって思っただろ」
「自惚れないで」
「正確な自己分析だと思うけど。実際に俺はあんたを騙したりしない」
どう? と碧は笑ってみせる。
どうもなにも、ここまでナルシストな男は初めてだ。
けど、なぜか不快じゃない。どうして。
「確かめ足りないなら、もう一回踊る?」
「嫌」
「俺は嫌じゃない」
「そんなの知らない」
「いいね、混乱してる」
碧は愉しそうに笑うけど、こっちは全然愉しくない。
上手にあしらえないし、本性が見えなくて調子が狂うし、たしかにわたしは混乱していた。
「もう中に戻ったら」
「なんで」
「あなたと話したくない」
「ふうん?」
「ふうんじゃなくて……」
そろそろ混乱を通り越して苛立ってきて、振り向くと彼はやけに真面目な顔をしていた。
じっと見つめられると怯んでしまう。
彼のシアンの瞳は、強力な魔力かなにかを持っているみたいだ。
「あのさ、俺の気持ちを考えてみてよ」
苦笑して、さらにわたしを戸惑わせる。
「学校には来ないし、大企業のお嬢様だし、見かければいつも仏頂面だし」
「それがなに」
「話せばこんなふうにつっけんどんだし、さすがの俺もどうやってコミュニケーションをとるべきか悩むのに、さらに困るのが、そのあんたが好きだってことなんだよね」
一瞬聞き間違えかと思って、つい呆けた顔で見つめ返した。
碧はちらりとわたしを見てから続ける。
「ようやく関われたと思えば話したくないなんて言われるし。あんたと踊ったとき、俺がどれだけ嬉しかったかわかる?
やっぱりとは思ったけど、顔も名前も知られてないのは残念だった」
嘘みたいだった。
嘘だと思うのに、碧の顔が妙に真剣で目がそらせない。
「そういうわけだから、もう一度俺を喜ばせてくれる気はない?」
流れてくる音楽が変わって、碧がにっこりと笑う。
差し出された手を、とることも振り払うことも出来ない。
「踊ってくれないと、これから毎朝迎えに来ることになるけど」
「……なんのために」
「学校に連れてく」
「嫌よ」
「ならこの手をとれ」
ほとんど脅し紛いなのに、頷かざるを得ないような力強い声で言われて、わたしは反射的に手を重ねていた。
そのまま強引に引っ張られて立ち上がり、曲の流れに呑まれる。
悔しいけど、やっぱり碧のダンスは上手だった。
無駄がなくて、優雅で、気取ったわけでもなく、純粋な。
綺麗なものは嫌いなのに、彼の瞳には惹かれてしまう。
澄んだガラス玉の奥から淡い青緑の光がさすような、神秘的なそれから目がそらせない。
「俺のことを知ってみる気はない?」
「ない」
「ちっとも?」
「ちっとも」
碧は苦笑して、急に立ち止まる。
わたしもつられて足を止めると、月に照らされて立ちすくむ彼が、怖いくらい綺麗だった。
「けど俺が、どれだけあんたを好きかとか」
「……興味ない」
「ほんとに? 俺がなんであんたを好きか、知りたくない?」
わたしは答えられずに俯く。
知りたくはない。けど、不思議ではある。
接点も、全然ない相手なのに。
それに、愛想がないひねくれ屋だっていうのは自分でいちばんわかっていることだ。
そんなわたしの気持ちを見透かしたみたいに、碧は笑った。
「教えてほしいなら、キスでもしてみる?」
「馬鹿じゃないの」
「至って本気。こうして一緒に居んのに、ただ話して終わりなんてつまんないだろ?」
「つまらないとかの問題じゃない」
碧はくつくつと喉で笑って、シアンの瞳を怪しく揺らめかせる。
「あんたが欲しくてここに来た。がっかりさせるなよ」
ぐっとわたしの腰を抱き寄せて間近に囁く。
そんな勝手なこと、知らない。
そう言いたいのに、いまにも触れ合ってしまいそうな唇が反論することを拒む。
「俺に惚れてよ」
碧はそう言って、まったく無防備だったわたしの唇を塞いだ。
抱きすくめられて、逃げられない。
じわじわと込みあがる熱を抑える術を、わたしは知らない。
どんなに抵抗しても、離れるどころかさらに深く重ねられてしまって、わたしに為す術なんてなかった。
「好きになった?」
「……馬鹿みたい」
「あんたが誰かのものになる前でよかったよ」
呼吸の浅いわたしに碧が笑う。
それからもう一度キスをして、わたしを強く抱き締めた。
甘い香り。香水の匂いは嫌いなのに、誘われてしまう。
青緑の瞳がわたしを見つめて、「玲琅、」と名前を呼ぶ。
家族以外にそう呼ばれるのは、ほんとうに久しぶりだった。
「あんたが好きだ」
求めてくる視線。頬を撫でる指先。
熱くて、胸が来るしい。壊れてしまいそう。
「信じなくてもいい。俺はいつも仏頂面で、愛想がなくて、だけど月を愛でることが出来るような、そういうあんたに惚れてるから」
そう言ってまたキスをする。拒む隙なんてない。
慈しむように、あるだけの愛情をこめて、わたしの頬や額にキスをくれる。
振り払えない。だって、嫌じゃない。
嘘じゃないって信じたい。
「そういうわけでたまには、学校来いよ」
吐息混じりに碧が囁く。
甘くわたしの鼓膜を揺らす、シアンの瞳の魔術。
「行ってるじゃない」
「月に一度来るか来ないかで、来たら来たでなんも話さねーし、その代わりテストは嘘みたいに完璧で、伝説化されてるっつーの」
それは初耳だ。
碧に抱き締められながら、ぼんやりとそんなことを思う。
どうしてこんなことになってるのかとか、いまはどうでもいい。
月が優しくて、温度が心地よくて、泣いてしまいたい。
「真面目に通えば、それなりに楽しいと思うけど」
「どうしてそう言えるの」
「だってほら、俺がいるし」
「……馬鹿みたい」
碧と話していると、これが口癖みたいになってしまう。
とんでもなく自信家で、だけど、それを疑わせないだけの何かがある。
だから惹きつけられる。青緑の瞳に、魅せられる。
「来るよな? 明日」
秘密の約束でもするみたいに、そっと耳元で囁いた。
わたしの髪を指先に巻いて遊びながら、またキスを求めてくる。
軽く唇を交えて、「返事」とわたしを急かす声。
「……考えとく」
その一言で満足したのか、碧は愉しそうに笑った。
ほんとうに久しぶりだった。慣れない空気に酔ってしまいそうだ。
クラスでは席替えがあったらしく、以前見た風景とずいぶん変わっていた。
「あの……」
近くの女の子のグループに声をかけると、びっくりした目で見られる。
「わたしの席、どこ?」
リーダーっぽい子が戸惑いながら、親切に案内してくれた。
柄にもなく「ありがとう」なんて言ってみると、その子は少し迷ったふうにしてから、残してきた子たちを呼び寄せる。
なんだろう、なんて思いながら見ていると、わたしに向かって小さく微笑んだ。
「あの、久しぶり」
距離を測りかねているようなぎこちない様子で。
だけど彼女は笑うと綺麗で、わたしは「久しぶり」と返した。
「授業、ずっと出てなかったでしょ」
「うん」
「その、ノートとか困ってない?」
おどおどと見つめてくる様子は、悪意がないように思えた。
暗に親しくしようとしてくれているのだとわかって、わたしは少し考えてから、
「ごめん、貸してもらっていい?」
出来るだけ高飛車にならないように、精一杯の友好的な態度で頼んだ。
彼女はほっとしたように笑うと、何度も頷いてすぐにノートをとってきてくれる。
「字が読みづらいかもしれないけど、ごめんね。こっちが古典で、あ、数学と公民は同じ色なんだけど……」
緊張しているのか早口で説明し始める彼女の声に被さって、ガラリと乱暴に教室のドアが開いた。
わたしたちに好奇の視線を向けていた教室中が一瞬しんとなって、わたしはドアのほうを振り向く。
「玲琅」
耳に心地よい声と、ガラス玉のように綺麗な瞳。
いつのまに力んでいたのか強張っていた身体をほぐして、わたしは小さく笑った。
「おはよう、シアン」
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