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生まれたときに、小学校まで生きられないと言われた。けれど小学校に上がって、中学まで生きられないと言われた。
そのあとも15歳まで、17歳までと言われたが、18歳になったいまも、まだわりと元気に生きている。
筧航汰は市立総合病院の7階にある個室で、ベッドに横になってぼんやりとそんなことを考えていた。
生まれつき心臓が悪くて入退院を繰り返していたが、もう13度目の入院で、いい加減面倒くさくなってここ一年は病室に閉じこもっている。
退院してもどうせ一時のものだろうし、それならいっそのこと入院したままでいい。
彼の病気はいまの医学では完治は難しいらしいので、安静にするに越したことはないと、主治医も快く頷いてくれた。
昼までダラダラと眠って、適当に勉強をして、数少ない友人といくらかメールのやりとりをして、ぼんやりしているうちに一日は過ぎていく。
暇を持て余すのはそれほど退屈ではない。過ぎていく時間を惜しいとも思わない。明日もその先も、あたりまえのようにそれは訪れるから。
必死になるようなことがない彼は、時間にも、退屈にも、特に何も感じないし、興味のないものだ。
けれど彼にも一つだけ、心を動かされるものがあった。
それは、平日の午後六時になると訪れるある少女との時間。
その時間だけは過ぎて欲しくないと思うし、退屈でないどころか、楽しいとさえ感じる。
航汰はわずかに目を細めて、正面の壁にかかっている時計を見た。
長針がちょうど11の真上に来ていて、短針はほとんど6に近い。
午後5時55分。そろそろ、彼女がやってきてもいい時間だ。
そう思ってベッドから起き上がり、窓を開けたときだった。
コンコン、と控えめなノックの音がする。夏の匂いを運ぶ風が、室内に入ってくる。
「どうぞ」
航汰がそう答えると、静かにドアが開いた。
何かあったのか嬉しそうな微笑みを浮かべた少女が入ってきて、航汰、と柔らかな声で呼びかける。
この一瞬で、白で統一された味気ない病室は、たちまち鮮やかで温かな色をつけた。
白く揺れているカーテンに、窓の外に広がる空の青が染み込んでいくような気がする。
彼女の微笑が、淡く、おぼろげな黄色を連想させる。春に咲く菜の花のように、風に揺れる可憐な姿。
「まだ来てないよね?」
彼女はそう尋ねながら、航汰の隣に来て窓の外を眺める。
何が、という部分は、航汰にはすぐに察しがついた。
二人が出会ったきっかけでもある、一機の飛行機のことだ。
毎日6時にこの病院の真上を通る、白い体に赤のラインが入った飛行機。
5月も末になり、暑さに耐えかねたのか彼女は今日は半袖を着ていた。
細い腕が窓枠に肘をついている。航汰と同じくらい色白だったが、彼女のそれは不健康というよりもっと崇高な感じがした。
触れることさえ許されないような、潔癖な誠実さを持った、神々しいまでの輝きがあるような。
「来たっ」
彼女が嬉しそうに声を上げて、窓の外に身を乗り出すように背伸びをした。
それを支えるふりをしてさりげなく近づき、航汰もついと視線を上げる。
コオオオ、と音をたてて、いつものように飛行機は飛んでいた。
白い体に一筋の赤いラインを目立たせて、二人の視界から消えていく。
二人はただ静かに、それを見守っていた。呼吸すら詰めて、じっと。
それは日課のようでもあるし、二人を繋いでいる唯一の行為だった。
午後6時に病院の上を通る飛行機を見る、という習慣は、赤の他人である二人がリンクしていられる理由だった。
「行っちゃった」
やがて、彼女がぽつりと呟く。それも、いつもと変わらない響きだった。
少しだけ寂しいような、けれど清々しいような、なんともいえない感覚を持て余しているみたいだ。
窓辺を離れようとしない彼女に微笑して、航汰はベッドに浅く腰をかけた。
「何かいいことでもあった?」
そう尋ねると、彼女は不思議そうにこちらを振り向く。
こんなやりとりですら楽しいと思うのは、なぜだろうか。
「なんで?」
「ここに入ってきたとき、嬉しそうな顔してたから」
航汰が悪戯っぽく笑うと、彼女はきょとんとしてから頷いた。
よくわかったね、とでも言うみたいに楽しそうに目を細めて、「和磨が」と切り出す。
「そろそろ退院できるかもしれないって」
そう聞いた途端、航汰は聞かなきゃよかったと思った。
和磨というのは2階に入院しているらしい、彼女の幼馴染みの名前だ。
病気か怪我かは知らないが重症らしく、彼女は毎日学校が終わるとその見舞いに訪れるのだ。
あくまでも、その幼馴染みのために来ている。航汰との時間は、そのついで。
「……そうなんだ。よかったじゃん」
辛そうな顔はしていないはずだった。いつもみたいに笑ってそう言うと、彼女は残酷にも嬉しそうに頷く。
和磨という青年に会ったことはない。けれど、彼女はその青年を大切にしていた。
直接そう聞いたことはないが、学校帰りに欠かさず寄るくらいだから、きっとそうなのだろう。
土日は彼の両親や友人が訪れるらしく、彼女も彼女で日常があるのだろう、病院に姿を見せたことはなかった。
今日は金曜日。明日は、彼女は来ない。心臓がぎゅっと締めつけられる。きっと病気のせいではない。
その幼馴染みが退院したら、彼女も必然的に来なくなるのだろう。
「航汰?」
苦しそうな顔をしていたのか、彼女が心配そうな様子で航汰を覗き込んだ。
具合が悪いの? と不安そうな表情で聞いてくる。大丈夫、と航汰は首を振る。
「疲れただけ。少し寝るから、1時間たったら起こして」
「1時間って、わたしそろそろ帰……」
彼女の言葉を聞かないふりで、航汰はさっさと布団にもぐってしまう。
わざと彼女のほうに向けた背に、「もう……」と呆れたような溜め息が聞こえた。
帰るよ、と続くはずだったのか、それとも帰らなきゃ、だったのか。
どちらにせよ、航汰にそれを受け入れる意思がない限り、彼女は結局待っていてくれるだろう。
1時間待って、時間になったら、航汰、と柔らかなその声で呼びかけてくれるだろう。
そんな少女なのだ。航汰が子供っぽい態度をとってまで留めておきたい少女は、とても優しい。
たまにふと、航汰自身ですら気づかないような何かまで見透かされているような気になる。
不思議で、心地よくて、だけどうまく手に入らない、なかなか難しい対象なのだ。
彼女はそばの椅子に腰かけて、読書を始めたみたいだった。ページを捲る音がする。
読書家の彼女は、単純なラブストーリーから歴史やミステリー、古典文学に至るまで、様々なジャンルの本を持っていた。
文章を目で追って理解するという作業が好きなのだと言う。なんとなく彼女らしい。
航汰は窓から入ってくる風が心地よいのか、彼女がそばにいると安心するのか、うとうとと眠くなってきてしまう。
今日起きたのも昼だし、ほんとうは疲れてなんかいないし、眠たくなるはずがないのに……。
眠ってこの心地よさを忘れてしまうのは、なんだかもったいない気がした。せっかく彼女がそこにいるのに。
それでも睡魔には敵わず、航汰はやがて眠りに落ちる。カサリ、とページを繰る音が聞こえた気がした。
空を見るのが好きだった。ただぼんやりと空を眺めて、雲が過ぎていくのが好きだった。
病室から見える空は眩しくて、遠くて、午後6時になるとちょうど飛行機が通過する。
毎日その飛行機を見送るのが、航汰の病室での日課になっていた。ただなんとなく、見送るだけ。
特に飛行機が好きというわけでもないけれど、なぜだか見ないと気がすまなかった。
だからその日も、ほんとうに癖のように、窓枠に頬杖をついて飛行機を待っていた。
ぼんやりと空を眺めて、また一日が終わるんだなあと、妙にしみじみと実感していた。
「こんにちは」
控えめに、だけどはっきりと聞こえた声が、自分に向けられているのだと一瞬気がつかなかった。
ふと視線を落としてみると、2階のベランダからこちらを見上げている少女がいる。
「こんにちは」
淡々と、決まりきった答えのようにそう返した。そのときは、なんの興味も持てなかったから。
ただ飛行機の音が聞こえてきても彼女から目が離せなくて、不意に彼女がにこりと笑ったとき、身体の奥で何かが騒いでいる気がした。
一瞬にして全ての色を塗り替えられたみたいな、真新しい、期待のような感情。
「飛行機を待ってるの?」
そう言って首を傾げた彼女は、空の一角を指で示した。
広場を挟んで向かいの病棟の向こう側から、飛行機が姿を見せる。
航汰はそちらへついと視線を向けてから、また彼女に向き直った。
「きみも?」
頬杖をついたまま尋ねると、彼女は「うん」と頷く。
明るい、嘘のない笑顔だと思った。外の世界で不自由なく生きている、無邪気な姿だ。
「こっち、来れば? そこよりよく見えると思うけど」
思わずそう誘ってしまったのは、いまでもなぜだかよくわからない。
ただの思いつきというのもあるし、単に暇だったからかもしれない。
とにかく航汰は彼女にそう言って、彼女はそれに頷いた。
ぱっと部屋に引っ込んだかと思うと、飛行機が少し近づく間に、走って航汰の病室までやってきたのだ。
そのときもやっぱり、コンコン、と控えめなノックの音で。
「幼馴染みが入院してて、毎日お見舞いに来てるんだけど……この飛行機を見るのが日課なの」
彼女は航汰の隣に立って、飛行機を見ながらそう話した。
その日に見た飛行機の赤いラインが、いやに鮮やかに目に焼きついた。
名前を教えてほしい、という彼女に、航汰は自分の名前を名乗って。
「わたしは紫。また来てもいい?」
「……たまになら」
楽しそうに笑った彼女に、航汰は微苦笑のようなものを浮かべて答えた。
それ以来、紫は航汰の気などお構いなしにやってくる。
平日の午後6時近くになると、航汰、と呼んで扉を叩く。
航汰はそれを自然に受け入れて、心地よいとさえ思った。
彼女といる時間は好きだ。いつも過ぎてほしくないと思うし、明日が待ち遠しいと感じる。
休日なんてなければいいのに、とさえ考える。
航汰、と、あの柔らかな声が呼んだ気がした。
何度も繰り返し呼びかけている。航汰は瞼をおろしたまま、しばらくその声を聞いていた。
もっと呼んでほしい。次第に困ったような色を帯びる声が楽しい。
思わずにやけてしまいそうな口元を、寝たふりでどうにか堪える。
「航汰、もう7時だよ。帰っちゃうよ?」
そう言いながら、彼女は航汰が目を覚ますまで病室を出たりはしないだろう。
そうわかっているから、もうしばらく寝たふりを続けることにする。
それにしても、うとうとしているうちに眠ってしまったのだろうか。
紫と初めて会ったときのことを思い出したのは、夢?
いい夢だった、と思う。毎日、眠るときは彼女の夢を見られたらいいのに。
「航汰ってば」
いよいよ声が泣きそうになってきたので、航汰は仕方なく目を開けた。
やっと起きた、と紫は安堵したように顔を綻ばせる。
そんな様子さえ、無条件に可愛いと思えてしまうのはどうしてだろう。
「紫」
航汰を揺すっていた紫の手を掴むと、彼女はきょとんとした目でこちらを見た。
幼馴染みのところでも、こんなふうに無防備な姿を見せているのだろうか。
一瞬そう考えて、航汰の胸に黒い塊のようなものが生まれる。どろどろしていて、嫌な感覚だ。
「明日も、来てくれるよね?」
ずるい聞き方だと思った。
紫はしばらく航汰を見つめて、掴まれた手の指を、一瞬ぴくりと震わす。
「来てほしいの?」
それも、ずるい聞き方だ。
けれど自覚していないのだろう。彼女はやっぱりきょとんとしている。
純粋な興味を持っているみたいに、航汰にそんなことを聞く。
「来てくれるよねって、俺が聞いてるんだよ」
欲しいのは質問じゃなくて、答えだ。
航汰の意図を察したのか、紫は少し後ずさるみたいに身を引いて、それから視線をさまよわせる。
「えーと……」と困ったみたいに口先で呟いて、遠慮がちに、上目遣いに航汰を見る。
そんな視線はずるい。許してあげたくなるじゃないか。
「来ても、いいのかなあ」
心底困っているような声だった。それは答えじゃなくて、疑問だ。
苛立ちに眉をひそめる航汰の気配に、紫は慌てて続ける。
「来たい。来ていいなら、来たい」
その言葉が、航汰の苛立ちをすっと溶かした。
来るじゃなくて、来たい。その言い方が、嬉しい。
紫は窺うように航汰を見ながら、また掴まれた手の指をぴくりと動かした。
触れられていることが、落ち着かないのだろうか。
離してもらいたがっていることには気づかないふりをして、航汰は微笑する。
「幼馴染みのところには、行かないで」
手首を離して指を絡める。
紫は繋がれた手と航汰の顔を見比べて、戸惑ったみたいに瞳を揺らす。
目元が赤く見えるのはきっと、気のせいではない。
「俺に会いに来て」
幼馴染みでも飛行機でもなく、自分のために来てほしい。
紫は一瞬言葉を詰まらせて、それから恥ずかしそうに目を伏せる。
「……なんか、告白みたいだよ」
それは、航汰自身も思ったことだった。けれど、まあいいかと思う。
たとえば誰かを愛せと言われたら、きっと自分は彼女を選ぶと思うから。
これが愛なのだと言われたら、なんだか頷けるような気がするから。
「そのつもりだけど……もしかして、伝わってない?」
わざとっぽく落胆してみせると、紫が慌てたように顔を上げた。
その瞬間を逃さずに、顔を近づけてその唇を奪う。一瞬の、沈黙。
「……紫が好きだ」
わずかに唇を離して、囁くように告げた。
言葉にすると、ほんとうに好きだという実感が湧いてくる。
きっと、これが恋というものなんだろう。
「また明日」
ふっと微笑んで手を離すと、紫は目元を真っ赤にして何度もコクコクと頷いていた。
航汰は抱き締めてしまいたい衝動に駆られながら、病室を去っていく彼女の姿を見送る。
明日、彼女は来るだろうか。きっと来てくれる。優しくて、嘘のつけない少女だから。
生まれたときに、小学校まで生きられないと言われた。けれど小学校に上がって、中学まで生きられないと言われた。
そのあとも15歳まで、17歳までと言われたが、18歳になったいまも、まだわりと元気に生きている。
ふと、それはきっと彼女に会うためだったのではないかと考える。
馬鹿みたいだとは思うけれど、いまの航汰は、そんなことさえ本気で信じられるほど彼女を愛しく感じていた。
携帯のフリップを開く。午後、5時55分。
そろそろかな、とベッドを降りて窓を開けると、コンコン、と控えめなノックの音が響く。
「どうぞ」
いつもと変わらないふりで、航汰は答えた。
遠慮がちにドアを開けて顔を覗かせた彼女は、いつものように「航汰」と呼ばない。
緊張しているみたいで、航汰と目が合うとぱっと視線をそらした。
「そうゆうの、傷つくんだけど」
わざと白けて言ってみせると、紫は気まずそうに「ごめん」と呟く。
どうすればいいかわからないみたいに、ただそこに立ちすくんでいた。
戸惑いながらもちゃんと来てくれたことが嬉しくて、航汰は薄い微笑を浮かべる。
「入らないの? もうすぐ来るよ」
紫は少し迷うような素振りをしたあと無言で航汰の隣までやってきた。
今日も暑いからか、半袖を着ている。相変わらず白い、細い腕だ。
自分と目を合わせないようにしている紫を、航汰は楽しげな顔で抱き寄せた。
「きゃ」と小さな悲鳴を上げて、紫が肩を強張らせる。
「何? その反応」
「だって……」
口ごもりながら、やっぱり彼女は目を逸らす。
航汰は紫の頭に顎を乗せて、聞こえてきた飛行機の音に耳を澄ます。
「俺は紫が好きだって、言ったろ」
紫が、こくん、と小さく頷く。
「紫は? 俺のことが好き? それとも、好きなのは他の誰か?」
たとえば、幼馴染みとか。
向かいの病棟の上から、いつもの飛行機が姿を見せる。
コオオオ、と大気を巻き込むような音で鼓膜を揺らして。
腕に閉じ込めた彼女が、こちらを見上げた気配がした。
「……航汰が、好きです」
飛行機の音に掻き消されてしまいそうな、小さな声だった。
けれど紫ははっきりとそう言った。航汰は目を見張って、思わず飛行機から視線を剥がす。
紫は航汰の腕の中で、わずかに恥じらって、だけど穏やかな表情でこちらを見つめていた。
飛行機の音が加速する。全てのものに色が溢れるような感覚。
「わたしも航汰が好きだよ。……ずっと」
紫はもう一度そう言って、照れたように笑った。
ずっとというのがずっと好きだったなのかずっと好きでいるなのか、それともそのどちらもなのか、何にせよ愛を誓う言葉なのに変わりはなかった。
「俺は紫より早く死ぬかもしれないけど、それでもそばにいてくれる?」
もしかしたら、明日明後日のうちに死んでしまうかもしれないけれど。
それでも紫は、「当然でしょ」と頷いてくれた。屈託のない笑顔で。
航汰は安堵したように彼女を抱き締めて、「よかった」と呟く。
「紫は一度俺を好きだって言った。俺はもうその言葉しか信じない」
たとえ彼女が離れたいと言ったとしても、離してなんかあげない。
一生この腕に閉じ込めて、独占して、この狭い病室の中で生きていく。
こうやって、二人で飛行機を眺めながら。
好きだ、と囁けば、同じ言葉が返ってくる。
強く抱き締めれば、腕を回して応えてくれる。
幸せだと思う。生きている感じがする。まだ、生きていたい気もする。
飛行機がぐんぐんと近づいてきて、やがて頭上を通過し見えなくなった。
いつもどおりの白い体に、赤い色のライン。一筋の赤が、今日はやけに映えた。
航汰は紫のこめかみに唇を押しあてて、軽く目を瞑る。
「明日も、来てくれるよね?」
相変わらず、ずるい聞き方だ。
彼女は少しだけきょとんとして、それから静かに頷いた。
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