旅館に着くと、待っていましたとばかりに主人が出迎えてくれた。

「山本様、お待ちしておりました。どうぞこちらへ」

館主は深々と頭を下げると、自分の傍らに立つ桃色の着物を纏った中年ぐらいの女性に後を任せた。

「ヒバリ、その荷物俺が持つよ」

「…何で?」

「ほら、リング争奪戦のとき、お前俺を助けてくれただろ?ヒバリは俺の命の恩人で、恩返しには到底ならないだろうけど…今日は何でもお前に尽くそうって考えてんだ」

そう。少しでも癒してやりたい。

俺は雲雀の恋人だ。少なくとも、自分ではそう思っている。確かに俺から告白して何も言われなかったけども。それでも、その後に手を繋いで家まで送ってもらったし。あ、あれはOKのはずだ……多分


だから、彼の唯一の癒しの場でありたいと思う。
まあ、彼のような人物が、俺を必要とするなんて夢のような話だが。

そんなことをぼんやり考えていると、雲雀が荷物の入ったボストンバックを渡してきた。

「本は歩きながら読むし、貴重品は持ち歩く。…信用できないからね。君は中の下着と服を持てばいい」

「え、歩きながら本読むのか?」

そう聞き返せば、ばつの悪そうな顔で暫く黙った後に

「煩い」

とだけ返ってきた。


「今日は全部俺の奢りだから、好きなだけ楽しんでいいからな!」

俺が笑顔でそう言うと、雲雀は横目で此方を見つめた。そして視線だけをこちらに向けたまま、少しだけ微笑んだ。


「お荷物お持ちしますよ」

着物を来た女はそれなりに体格が良く、精悍な顔つきをした壮年の女性であった。

声には強い意志が宿り、仕事に相当な自信があるようだった。

「いや、大丈夫ッス!」

それでも、女に荷物を持たせて自分は手ぶらで歩くなんて鬼畜過ぎる。俺は笑顔で断り、二人分の荷物を持ち直した。

「ほら、ちゃんと荷物用カートがあんのよ。別の女中がエレベーターで運んでってくれるから、気ぃ使わなくて良いの」

腰に手を当てアハハハ、と野太い声帯をガラガラ鳴らす。さつま芋の皮みたいな唇が、笑う度に皺を作った。

「んじゃ、お言葉に甘えて」

俺は荷物をカートに置き、雲雀に向き直った。何故だか少し不満げだった気もするが、特に気に止めずまた歩き始めた。
*****


「ヒバリ?」

「…!」

気づけば、山本を見つめていた。廊下を歩いているときも、階段を上がっているときも。興味もない恋愛小説を手に持ちながら。

見つめていたと言うのは否だ。気がつけば首が勝手に右に傾くのだから。

何故だか、身体全体が妙にだるい。

それもこれも、こいつが旅館に誘ってなんか来るからだ。

どちらにせよ首は僕の敵に回ってしまっているのだが。

「どうかしたか?」

「…別に」

そう言いながら僕は、安堵とも不安ともつかぬ溜め息をついた。

僕の身体の一部は、僕の意思通りに動かないことが希にある。

そのパーツは支配されていなかったのだ。「はい、こちらです」

館員が到着を告げた。

一階の玄関から奥の廊下を三階ふと山本が部屋を飛び出し、彼女を呼び止める。

女はゆるゆると首を動かし、怪訝な顔をした。


自分で呼び止めた癖に、山本はなんだかもじもじしている。あーとかうーとか唸るだけで、中々言葉に出そうとしない。

「どうしたの」

僕が玄関から出ようと足を踏み出すと、彼は慌てて何かを話そうとする。顔を真っ赤にして、痒そうにカリカリと首の後ろを掻きながら。

「んと、何で…一番奥なんすか?」

「え?ああ…」

女官は少し拍子抜けした顔をしたあと、苦笑いをしながら言う。


「一番奥の部屋が最上級の部屋で、それを当てたのは、山本さん、貴方じゃ」

「わー!わー!」

質問の答えを返してくれているというのに、話を遮る山本。真理が読み取れず、館員は首を傾げた。

「あ、あざっす!」

花咲くほどの笑みを浮かべられ、館員の女は頬を赤らめる。僕は良い年して中2に惚れるなよと頭の中だけで思い、この中年、と誰にも聞かれないように毒づいた。

一方、山本はそそくさと部屋に入っていってしまった。

僕は彼女を一瞥し、部屋へと踵を返した。


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