さて、タイミングはいつが良いだろうか。考えごとをしながら歩いていると曲がり角で何かにぶつかってナマエはよろめいた。重心を失った身体はフラついて、後ろに傾きつつわたわたと無様につかまる場所を探して手が彷徨う。
空中でそんなことをしても無意味だったが、その手は大きな手にぎゅっと握られた。
僅かに仰け反ったナマエの視界の透明だった場所に長身の仮面をつけた人物が現れる。
そういえばリッパーは霧の刃の他にも厄介な能力を持っていたなとナマエは思い出した。
リッパーがゲームを行わないナマエに使ったことはなかったが。
「透明になるとかズルくない?」
「こうでもしないと貴女、私と会ってくれないでしょう」
ナマエがしっかり立っていることを確認して、リッパーは一歩下がった。
出会い頭にザックリ殺られることも想定していたがそうはならなかった。
リッパーは、あと一歩踏み出せばナマエに手が届くといった距離で優雅に一礼してみせる。
警戒させぬようにとの配慮なのかも知れないがそんな距離、ナマエからしたらあってないようなものだった。
「お久しぶりです」
「そうだね」
「これほどまでに会えなかったのは偶然で片付けるにはあまりにも不自然だ。それは貴女が他人の手を借りてまで私から逃げ回っていたからだと思うのですが」
「そうなるね」
リッパーの推理は当たっているのでナマエは素直に肯定した。
助手をするからと頼み込んでルキノの研究所に篭ってみたり、范無咎に責任を取れと脅しをかけたり、ハスターの所に特に理由はないが押しかけたり、広い館なので隠れる場所には困らなかった。
ある意味ゲーム中よりも探すのは困難だったろう。ナマエは暗号機を回す義務などない。それにカラスもつかない。
ナマエだっていつまでも現実逃避してはいられないことは分かっているが時間が必要だった。ほんの少しでも長く。
感情の整理には時間がかかるのだ。
「理由を聞いても?」
リッパーは理由を知りたがったっていた。どうせ自分のせいだとか思ってないだろう。
リッパーが左手を振りかぶることなく大人しいので、ナマエは余裕をもって考えることが出来た。思えばリッパーと対面したときはいつも緊迫していた。
それはそうだろう。狙われた獲物が狩人の前で安らげることなどない。対話なんてあってないようなものだった。
あったとしても薄っぺらい応酬くらいだ。
リッパーは静かに首を傾けてナマエの発言を待っている。狩るのではなく、会話をしたいらしい。
なんだかいつもと違うからナマエは少しだけ大胆になってみようなんて思う。
言いたいことを言ってやるのだ。相手に響くかはともかくとして。
ナマエは大きく息を吸い一歩踏み出すとビシッと力強くリッパーへと挑むように人差し指を向けた。
「いい?アンタに殺されたことは絶対に忘れない。許さない。その上で、私が言うことはただ一つ」
勿体ぶった前置きをしたってどうせそんなにごちゃごちゃと言いたいことはなかった。
恨みつらみはあれどリッパーに放り投げたナマエの言葉は厳しさの割にドロドロとした感情は乗らなかった。
これからナマエはリッパーと向き合おうとしていた。しかし、誰がどう考えたって関わり合いにならないのが正解だと分かる。ナマエにだって分かっている。
リッパーの異常性はナマエの手には余るものだ。制御も抑制もできはしない。振り回されて、無残にまた散らされるのがオチだ。
だが少しでも関わりを持ってしまった以上、無関心でいることは難しい。これほど鮮烈な存在を忘れられることはないだろう。
それが憎しみからであればまだマシだったろうに、そうじゃないからナマエは困っている。
どうにもこの縁は神懸かりな力で後押しされているらしく、簡単には切れぬようになっているらしいので、矮小な人間なりにあがいてみようと思う。
「時間がかかったけど、私は貴方とそれなりに付き合っていく覚悟をしてきた」
リッパーと対峙することを決めた時点でそうでなくてはやっていけない。
ナマエは馬鹿だ馬鹿だと自分を罵倒しながら、そんな覚悟を表明する自分にどうしようもないものだと呆れるしかない。
ナマエは痛いのも苦しいのも怖いのも嫌いだ。大嫌いだ。
なのにどうして危険人物でしかない男に絆されたんだろう。狂気の沙汰だ。
それは多分、リッパーがナマエに対して真剣だったからだ。狂って歪んで独り善がりでナマエには到底理解できないものであってもそれだけは分かるから、どうにも粗雑に扱えない。
この憐れな殺人鬼の真摯さにナマエは弱かった。本当にどうしようもない。
「ええ、それを聞けて安心しました。次に会えたらどうしようかとずっと考えていましたよ。いざそうなってみると、どうしていいか分からなくなりますね」
リッパーは静かに口を開く。一字一句を噛みしめるように丁寧に。
途方に暮れたような声だった。
「ナマエ」
リッパーの持ち上げた右手がナマエの顔にかざされる。ナマエが見守る前で、リッパーの手は触れることなく動きを止めた。
所在なさげに握ったり閉じたりと忙しない様子で触れたいのか触れたくないのかナマエには分からない。
「今はただ貴女に触れたい。…触れても構いませんか?」
躊躇いがちに承諾を取ろうとしているリッパーがなんだか面白い。ナマエの都合など気にせずに好き勝手やるのがリッパーなのに今更だ。
そんな意味で待っていたのだがいつまでたってもリッパーが動く様子はないので仕方なく許可を与えた。
これから伸ばされる手が首を締めるなり何処かを刺すなり抱きしめるなり、或いは、そのどれとも違う選択肢をとってもナマエは受け入れてやろうと覚悟を決めていた。
諦めではなく、抵抗でもなく、ただ受け入れる。それだけの事だ。何処までも己の為であっただろうが、手を汚してナマエが帰るために手助けになったリッパーへのほんの少しだけの後ろめたさがそうさせたのかもしれない。
ゆっくりとかかる影にナマエは穏やかな気持ちでそっと目を閉じた。