ボンヤリとした意識の中で低い声が耳朶を打つ。題名は分からないが聞き覚えのある曲のような気がする。
耳障りのいいテノールがやけに近い位置でふと疑問を覚えた。
半端に横になっていてなんだか体勢も寝づらい気がする。
身じろぎながらううんと唸り、なんとなく手をついた場所ががぐにゅりと嫌な感触に歪んで一気に目が覚めた。
「あ、起きました?」
「ぎゃっ」
憎たらしい仮面のドアップに驚いて足をばたつかせるが全く揺らぎもしない。
何故に膝抱きにされているのだろうか。床に転がされてる方がマシだった。
…まだこの世界に私がいるということはリッパーは私を殺さなかったということだ。
帰れなくて残念だったような殺されてなくてホッとしたような微妙な気分でいるとぐりぐりと眉間のあたりを擦られる。
シワになりますよなんて失礼な男だ。
「なんで私に殺されなかった疑問を感じてるみたいですね」
「そりゃそうだね。殺す気が無くなったわけじゃないでしょ」
「それはもちろんです」
殺意をにこやかに肯定されるのは恐怖でしかない。やっぱりコイツは殺人鬼だ。
気紛れで人の生殺与奪を握ってくるなんてとんでもない。
人が呼吸をするように当然のこととしてこの男は人を殺す。それがこの男の業なのだとかの邪神は語った。
ナマエを殺すのはリッパーの役割なのだそうだ。有り難く、そして迷惑なことだ。
「いえね、さっくり終わらせようと思ったんですがやっぱり反応がないとつまらないと思い直しましてね」
「そういうことだと思った!」
手を仮面の口元に当たる部分に添えて上品にクスクスと笑いながらロクでもないことを言ってくる。まさに人でなし。ある意味期待通りだ。
会話をしながら膝から脱出しようと試みているのだが異形の左手がガッチリと腰と腹と背に這っていて動けない。
え、ホントにもがけば解けるの?サバイバーさんたちって何者??
「無駄ですよ。貴女のひ弱な力ではとてもとても」
「そうは!言っても!大人しく抱かれてたまるかってーー」
「そんなに抵抗されるとつい力が入りすぎてしまいそうになってしまう」
「どうぞどうぞ。好きなだけ抱いててください」
ギチリとリッパーの腕?の力が篭ったので速やかに抵抗を辞めた。そういえばリッパーは逃げ惑う獲物や抵抗する獲物が好きだった。
つまらなさそうに力を緩めたリッパーに私はようやく自由を手に入れ床を踏みしめる。
慌てず騒がずなるべくリッパーを刺激しないように、気紛れが起こらないように、ゆっくりと出口に歩く。
ようやくたどり着いたドアノブに手を掛けた瞬間、ソファで長い足を組んでいたリッパーが立ち上がった。
「夜も遅いですから送りましょう」
「え、背中からザックリいかれそう」
「活きのいい状態でないと狙いがいがありません。今日はゆっくり休んでくださいね」
お前が部屋に返してくれていれば何の問題もなかったんだよ。
リッパーは、よく分からん理念を振り翳し、胸に手を置き、所作だけならば紳士的に、手を差し出してきた。その手を取ろうかどうか悩ましい。
リッパーの殺人衝動は対人関係において致命的で、何においても補えない欠点だが、一方で確かに紳士的な部分もあった。
ただの気狂いなら恐れるだけで済んだのに、嫌いではない面があるのが憎らしい。
「殺す予定のくせに過保護だ」
「万が一と言うこともあります。獲物を横取りされるのは我慢なりませんので」
「私にとって一番危ないのは貴方しかいないと思うけどね」
「ナマエ」
「なに」
不意に立ち止まったリッパーが囁くような声、後に言うことはいつも同じだった。それでも一応、何だと聞いてやる。
本当はなにも言わないで欲しかったりする。
「ナマエ、どうかお願いだ」
誰にもいえない秘密だが、時々、ほんのちょっぴりだけ、この男を可哀想だと思うことがあった。
例えばこの瞬間だ。
殺したい相手に、こんなに切ない声を出せるくらいに焦がれる癖に、それはこの男の唯一ではないのだ。
相手を殺すたびにリセットされて、いつまでも獲物を求め続けるしかない憐れな男が救われて欲しいとは思わないがなんだかとても哀しいと感じる事がある。
「私以外に殺されないでくださいね」
そりゃそうだろう。貴方以外の誰が私を殺してくれるって言うんだ。
どう足掻いたって救いようのない殺人鬼がロクでもなくていいのでいつか終わりを迎えられますように。
そのくらいは願ってもいいだろうか。