ナマエは尾張貫流槍術を教える道場の門下生である。開祖やら何やらを語り出すと長いので江戸時代から続いている管を使用する槍術と覚えて貰えるとありがたい。
最近入門した弟弟子ーー氷月が何やら煮詰まっているようでナマエは鍛錬に付き合って欲しいと乞われたので現在一緒に道場にいた。
氷月の動きが覚束ないのは始めたばかりなので当然だった。その分、門下生の誰より鍛錬に時間を費やしていることもナマエは知っている。
ナマエには氷月が必ず尾張貫流槍術をモノにするだろうと確信はあったが技術は一朝一夕で身につくものではないのだ。とても長い時間がかかる。

「ナマエさん、僕はちゃんと出来ていますか?」

手を止めた氷月が俯いてボソリと呟いた。氷月の酷く弱々しい声音に煮詰まっているのは精神の方だとナマエは思い至った。
少年の心は純粋でとても繊細なのだ。
技術習得のために丁寧にコツコツと努力を続ける氷月をナマエは好きだ。
氷月が自信喪失する必要は何処にもない。
だが頑張っているのに成果が出ないというのはどんどん自信を奪っていくものである。
一生懸命頑張って積み上げて、それなのに何も為せないと感じるのはとても辛い。
その中でも努力を続けることは並大抵な精神力ではない。
尾張貫流槍術は習得までにそれはそれは長い時間がかかる。何年も何年も血の滲むような努力の末ようやく習得が可能なのだ。
ナマエは上手くいかない悔しさを糧に半ば意地になって続けていたがこうして健全に思い悩む氷月は可愛いものだ。実に″ちゃんとしている″弟弟子である。

「氷月はちゃんとしてるよ」

「ほんとうですか?」

「結果出ないと焦るとは思うけどさ、ちょっとずつ積み重ねて研鑽していくしかないわけよ。特に私たちの流派って独特だからね」

氷月を慰めるように言葉を重ねるナマエだったが反応は芳しくない。
細い目の中で迷うように彷徨う視線が恐る恐ると言った具合にナマエへと向けられる。
氷月の縋るような視線におやとナマエは首を傾げた。はて、この子はこんなに気弱な子だったろうか。

「ナマエさんは僕がちゃんとしてるか見ていてくれますか?」

ナマエにとって同門である氷月の面倒を見るのは当然のことだ。ちゃんとしてるのならなおのこときっちり見届けさせてもらう。だから氷月はそんなこと心配しなくても良いのだ。
もっとも、氷月はそれほど手がかからない上にしっかりしているからナマエにできることはあまりない。それにこの調子で行けば一人立ちも早そうである。


「それはもちろん」

「僕が一人前になってもずっと?」

「うん、ずっと。氷月が望むならだけど」

安心したように頷いた氷月からようやく緊張が抜けていく。
その内、氷月にもナマエの存在を鬱陶しいと思う時期がくるのだろう。そのまえに可愛い弟弟子を堪能しておこう。ちょっぴりの下心をもってふっくらした頬に手を当てた。不思議そうな氷月の頭を残りの手で挟むように撫でる。くすぐったそうにしながらも振り払われないことがナマエにとってとても嬉しいことだった。








あれから幾ばくかの歳月が過ぎた。いかなる心境の変化か、免許皆伝レベルまで達した氷月はすっかり道場に寄り付かなくなった。
ナマエは変わらず道場に通っているが氷月はここ数年めっきり姿を見せていない。
妙に純粋なところがあった氷月は成長と共に世の中を理解していき変な方向に捻くれていっていた。ナマエだって思うところがないわけではないがそれなりに折り合いをつけており、そこまで極端にはならない。
ナマエは氷月がいつか取り返しのつかないことをしてしまうのではないかと懸念していた。
氷月がもはや道場で師範代を打ち倒すほどに強かろうと大事な弟弟子だ。ナマエの心配はつきなかった。









門下生との口論中にナマエは妙な気配を感じた。ヒヤリと肌を刺す感覚はいわゆる殺気と呼ばれる類のものではなかろうか。
構える間もなく目の前にいる門下生の胸からキラリと煌く刃が生えていた。日常から大きくかけ離れた光景にナマエは一瞬頭が真っ白になる。急所を指し貫かれて門下生は即死だった。見開いたままの目の瞳孔が開いているのが生々しい。
ナマエは不真面目な態度の門下生に憤りを感じていたが死んで欲しいとまで思ってはいなかった。少し強めに注意したらヒートアップしただけの単なる口論で暴力などない至って平和なものだった。
身を守るか逃げるか、二者択一の選択を迫られたナマエの思考は次いで聞こえる声に再び停止した。

「初めてでしたが・・・うまくいきましたね」

ナマエはこの状況に不似合いなのんびりとした口調の声に聞き覚えがあった。
はじめてじゃないとおかしい。だって、生身の人間に槍の穂先を突き立てる事など日常ではあり得ない上で、永遠に未経験で良いことだった。
あまつさえ命すら奪ってしまうなんて信じられない。
目の前で行われた殺人――何かしらの凶器を使えば誰であろうと他者の命を奪うことは容易い。
故にこれは可能不可能の話ではなく、実行するか否かの次元の話である。
綺麗な傷口から突発的なモノではなく、確固たる殺意を持って実行された一撃だと分かる。脅す程度なら鞘に納めたままの穂先を使うか、柄で小突いたって十分な威力はあるのだ。
不快そうに鼻を鳴らした殺人犯が乱暴に足で″死体″を横にずらす。傾き力なく倒れたそれからじわりと滲み出た赤からナマエは目を離せなかったし離したくなかった。

「ねえ、ナマエさん」

声を掛けられてナマエは肩を震わせ恐る恐る顔を上げた。いっそ目前の殺人犯が目撃者抹殺のために自分にも襲いかかってくれれば少しくらい現実を否定できるのに外套を羽織り口元を隠した殺人犯は穏やかな口調でナマエを呼ぶ。
初めて人を殺めたのに、殺人犯――氷月と思われる男は、的確に人を殺した上に、冷静で、平然としている。
ナマエは他人の空似であって欲しいと心から願った。数年会ってないから目元しか見えないよく似た男を氷月と見間違えているのだと思いこみたかった。
殺人犯が隠していた口元を顕にするとナマエは息を飲んで目を見開いた。氷月と唇だけが動くが声帯は全く振るわず音にならなかった。それでも氷月には十分らしかった。氷月は満足そうに頷いて続ける。

「僕ね」

すっかり精悍になった顔立ちにも幼少期の面影はあった。たまに出していた甘えるような声は、声変わりを経て低くなっていても氷月でしかない。
殺人犯=氷月を否定する材料を全て失い混乱の渦中のナマエは、はくはくと無意味に口を開いたり閉じたりしていた。
殺される恐怖の方がまだ優しい。こんな酷い、惨いことがあるだろうか。
呼吸もままならず酸欠で頭がクラクラしてくる。ナマエがへたり込んだ際に服に大きく広がった被害者の血がついたことすら気にしてはいられなかった。
呆けたナマエに細い目をなおのこと細めて氷月は笑った。嘲笑なのか、微笑みなのか今のナマエには判断はつかない。
氷月はすっかり冷たくなったナマエの手をとり自身の頬へと導いた。

「ちゃんとしましたよ」

昔こうして氷月を撫でていたことをふとナマエは思い出す。こぼれ落ちたナマエの涙を氷月が不思議そうな顔をしながら親指で拭った。


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