新たなショーの催しについてドーラクとサカマタが話していると、ふとドーラクが話すのをやめた。
ドーラクがジッと見る先にいるのは館長以外で唯一の人間のナマエがいる。
ゆらゆらと長い足を揺らしドーラクがナマエへと狙いを定めるのにサカマタは不快そうにアイパッチを歪めた。
ドーラクはやたらとナマエにこだわる。あの冷淡で冷ややかな人間の何処が良いのだろう。
余計な手出しをしてこない面で特に嫌う理由はないが、かといって好感を抱けるかと言えばそんなことはない。
「なあ、ナマエ」
ドーラクにしては朗らかに声を掛ける。ナマエは前を遮るように伸ばされた頭部から生えた足に嫌そうな顔をした。
「何かな、カニ君」
「ちょっと付き合えよ」
「用事による」
事あるごとに絡まれるのでナマエはいつも迷惑そうにしている。
また始まったとサカマタは呆れた。
ドーラクはナマエによく絡むが、野心的に相手を蹴落としてやろうとかそんな悪意と呼ぶには生易しい対応なので正直言って何がしたいのか理解しがたい。
そもそも人間という種族である時点でナマエの地位は不動のものだ。ドーラクが何をしたところでも益も害もない。…やり過ぎれば害はあるかもしれないが。
嗜虐的な面があってもドーラクは基本的に無駄なことはしない。わざわざナマエに嫌がらせをする理由はない。だからサカマタには分からない。
「サカマタのことだ」
「シャチ君に何か問題でも?」
今度は関心が引けたらしい。話を聞いてやる気になったようだ。チラリとサカマタを横目で見て再びドーラクへと向き直った。
「集客案でシャチと触れ合おうって企画が通った」
「それは顧客受けが良さそうだね」
「で、だ。サカマタは人間に触れられるのは初めてだ。客の前にサカマタの練習台に付き合ってやれよ」
ナマエは瞑目して額を抑える。「しょうもないことを」とボソリと呟いて、どことなく呆れたような空気にドーラクは楽しげだ。
「そういうのは君らの内で解決して私を巻き込まないで欲しいんだけど」
「でもよ、ここにいる人間は館長を除けばアンタだけだろ。本番に近いことが出来るのはアンタだけだ」
「君の次から次へと回るお口の達者さは誰から学んだのかね」
ドーラクがギシギシと特徴的な笑い声をあげる。ナマエは口の回るドーラク相手ではラチがあかないと思ったようでそれ以上何か反論する様子はなかった。
ただ、館長そっくりな嘘くさい顔でニコリと笑う。何かしらの良からぬ企みが露骨なそれにギジリとドーラクの体が強張った。
「じゃあこれ館長に渡してね」
「ゲッ、嘘だろ。俺に館長への報告に行けってか」
ナマエにとって大した事なくてもここの生き物たちにとっては命懸けだったりする。機嫌を損ねる事が死に直結する館長とは出来るだけ関わりたくないのは水族館の生き物の共通認識だ。
手渡された書類の束に焦った声を出すドーラクをナマエは鼻で笑った。
「なんせ私は何処ぞのカニのせいで手が離せないもんね。何処ぞのカニはその代わりを果たしてくれるんだよね」
「…意趣返しにしては酷くね?」
「君が意地の悪い事をするからだ。心配しなくてもいい報告だよ。急がないと機嫌が悪くなると思うけど」
ナマエがしっしと追い払うような仕草をするとドーラクは渋々引き下がる。
からかい混じりの絡み方をする度に手酷い反撃を食らって、ドーラクはそれでも懲りない。
サカマタが下らないと冷めた目で見送っていると低い位置からため息が聞こえた。出所は言わずもがなだ。
「早めに済まそうか」
面倒そうなのを隠さない態度にサカマタは「そんなに俺が嫌なのか」と言いたいのをグッと堪える。
ナマエは魚たちの誰にでもそうだ。なので”俺が”の部分は間違いだ。特別な意味合いなどなくこの人間がこう言った性質を持っているだけに過ぎない。
サカマタはそう思う事にしている。
別に変身したままでいいよね、との一声で両者微妙な空気のまま話は進む。
サカマタもナマエも茶番だと思っていてもショーの為となると軽んじることは出来ない。
前者は命がかかっており、後者は仕事だからだ。
手が届かないことに気づき少し固まったナマエにサカマタが渋々中腰になって頭部に手が届くようにしてやるとゆっくりと手が触れた。
サカマタのもっとも身近な人間は地獄のような箱庭の絶対者だ。生き物を蔑み殴ったり罵ったりすることしかしない。だからサカマタは無意識に身構えた。
だが、ナマエの手はゴテゴテした鉄の輪が飾られた伊佐奈の手よりも細く華奢で、そして、サカマタを殴らない。傷つける意図がない。
ただ触れる温もりがあった。ヒトに触れられるとはこういうものなのかとサカマタにも奇妙な驚きがあった。
「イルカは触ったことあったけど、シャチに触ったのは初めてだ」
「そうか」
国内でもシャチを展示している水族館は数える程しかない。サカマタは中でも最も大きく強い個体である自負がある。通常は飼い慣らされるような事はありえない。それもこれも伊佐奈がーーと考えたところで無理やり思考を打ち切った。
考えてもどうにもならず、どうしようもなく虚しくなるだけだからだ。
「君はシャチの中でも大きくて強い雄だろうね」
「当然だ」
何やら思考を読まれたかのようでドキリとした。堂々とした肯定を心掛けたサカマタの試みは成功した。
言いながらナマエの手がサカマタの弱点を優しい手つきで撫でる。
部位が部位なだけにサカマタにとってそこに触られるのは好ましくない。仕方ないとはいえ、あまり長時間そのままでいる訳にはいかない。
それに嫌ではないと感じる自分が嫌だった。
「おい、そろそろーー」
「サカマタ君は良い子だね」
「そろそろ、いいだろう」むず痒い感触に我慢ならなくて、そう言おうと思っていた。
その時、ナマエがサカマタの名を呼んだのだ。本人に意図はなくショーのワンシーンを想定したつもりだろう。識別するだけの記号には何の意味もないはずだ。
しかし、それはあまりにも突然で、サカマタの普段はアイパッチの下に隠れたギョロリとした目が見開かれる。
驚愕と共に腹の下からせり上がってきたものが今にも飛び出しそうだと思った瞬間。
「きゅう」
「えっ、何??」
突然の異音にナマエは驚いた様子でサカマタはバッと口元を押さえた。
思わず漏れた声にサカマタ自身動揺を隠せず、ふらふらとしながら後ずさる。
「メロンは繊細な部位だもんね。撫で方が乱暴だった?もしかして痛みを感じたり?」
「そうじゃない」
「正直に言ってしまえば心地良かった」そんな事を言えるはずもなく何もないのだと主張するのが精一杯だ。
プライドもあるのでどうか突っ込んでくれるなとサカマタが願っているとナマエは早々に興味を失ったらしい。サカマタを伺う視線があっさりと離れ、それはそれで解せない。
「何もないならいいけど、ビックリしても観客に噛み付いたりしないでね。今のシャチ君に言って意味があるか分かんないけど」
資料に目を落としたままナマエがいつもように平坦な声色で告げる。サカマタに釘を刺しつつも一瞥すらくれずに、用は済んだとばかりに向けられる背中。本当にナマエは生き物たちに興味がない。
同族である伊佐奈だけがナマエの関心の対象だ。逆もまた然りだが。
そんな事を考えていると空気が冷えた気がしてサカマタは一度ブルリと身を震わせた。その中で唯一熱を感じる頭部に手を当てる。あの手は二度と触れることはないだろうと思うと一層空気が冷えるのを感じた気がした。
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