10000打企画夢 | ナノ

落下注意

 高校生活において何かしらの役割分担を与えられることは多々ある。一人で淡々と行う作業であれば七篠は何も困ることはなく、そつなく任された作業を終わらせることができたはずだった。しかし、人見知りで他人との意思疎通を図るのが苦手な彼女にとって、複数人との共同作業というものはどうしても気が進まないものであった。例えそれが2人だろうと、自分以外の誰かが共にいるということが彼女には耐えがたく頭を悩ませる事象だったのである。
 学級日誌、と黒いマジックで表紙に書かれている冊子を机の中から取り出して、本日記入するべき頁を見つけると机の上に開いて乗せた。自らのペンケースからシャープペンシルを取り出し、時間割を書いていく。書かれた時間割の隣にはまだ空いているスペースがあり、そこに授業でどんな事を教わったのか書かなければならない。
 七篠はそれに従って体育、家庭科と書かれた横の欄に上から順々に書き進めて行く。しかし、現代社会の欄に到達したシャープペンシルの芯の先は、今までの流れるような動きが嘘だったかのようにぴたりと止まっていた。
 何をやったのか、思い出せない。というよりもその時間は、ついつい眠りに落ちそうになってしまい必死に耐えていたために、何をやったのかまるで記憶にないのである。知るためにはノートを見なければいけなかった。意識が半分夢の中だったとはいえそこには授業内容の何かしらが書いてあるはずだ。少なくとも何も書かなかったという記憶は彼女の中に存在していない。
 だが、その動きをしていいのかどうか。疑問が一気に脳内を埋め尽くす。もちろんそんなことなど彼女の自由であったが、事が順調に行かなくなったために余計なものを気にして、考えなくてよい事を考えてしまい、結果、彼女は動けなくなってしまっていたのである。
 彼女と机を挟んで向かい合わせに座る田中は、鋭い眼差しで七篠の書き連ねた日誌に目を向けていた。怒っているわけでもなく、ただ目の前ですらすらと躊躇なく行われる作業を見ていただけなのだが、彼の存在は彼女を極度に緊張させていたのであった。
 七篠は彼が苦手だった。まだ彼女がこの希望ヶ峰学園に入学してから一週間程度しか経っていないが、話をした事がないことはない。だが挨拶程度であり、彼からどんな話を振られてもなんと言葉を返せばよいかわからずに、ただ苦笑いを返す程度だった。嫌いではないのだが、上手く会話を広げられずにいつも申し訳ない気持でいっぱいになってしまうのである。
 そんな彼と、たまたま日直当番が当たってしまった。基本的に日直は女子と男子の各一名ずつから選ばれる。担任教師が適当に当てた結果がこの現状だった。とんでもないことになってしまったと、その事が決まった瞬間に七篠は頭を真っ白にさせていた。
 そして現在も同様に、彼女の頭は何も考えられていなかった。

「どうした」

 すっかり固まってしまい動かなくなった七篠との沈黙に耐えられなくなったのか、遂に田中の方から声がかかる。

「あ……えっと……」

「記述が終わらんと魔界に帰れんではないか。今頃、魔獣どもが贄を欲して唸り声をあげているだろうに……さあ、さっさと記録術式を埋めろッ!」

「はっ、はひいいい!」

 脅えた様子で慌てて自分のノートを取り出す。現代社会、とプリントされたシールが貼られているそれを開く。

「あ、れ……」

 記憶違いも甚だしい。おそらく何かを書こうとしたらしい、ミミズが這ったような解読困難な字体がそこにはあった。むしろこれは字といっていいものだろうかと疑問に思ってしまうほどに、そこに書かれた字は意味を成していなかったのである。
 こうなるともう、彼に素直に理由を話して内容を教えてもらうより他にない。だが、どうしても田中の鋭い目つきが彼女を怯えさせてしまうのである。彼は早く帰りたくて苛々としているらしい、頻りに時計を見ている。七篠とて早く帰りたい気持ちは一緒であったが、日直の仕事を終えるまではどちらも帰ることを許されてはいないのだ。与えられた分担を全うしないまま平気な顔をしていられるほど、2人の責任感は薄くはなかった。
 彼に話しかけることは彼女にとってひどくハードルの高い課題ではあったが、しかしそうしないことには作業が進むことはない。やるしかないと決めた彼女は思い切って田中の赤い眼と自らの眼を合わせた。

「わたしっ、この時間寝ちゃっててさ……。たっ、田中くんは授業の内容覚えてる……ます、か?」

 ここまで言うのが彼女の精一杯であり、その顔は緊張で真っ赤に染まっていた。なぜそんな顔をして自分に話しかけるのか。田中は意味がわからず目を丸くして彼女を見た。そして熟考するかのように目を閉じると、怪しげな笑みを浮かべたのである。

「……フッ、いいだろう。全知と謳われし俺様が偽りだと知りながらも綴ったその全てを、貴様のふたつの黒曜石が目にすることを許可してやる。フッ……フハハハハハッ! メス猫よ、俺様からの褒美だ。喜ぶがいいッ!」

「わっ!?」

 彼が格好つけて彼女に差し出したのは今日習った現代社会の板書を写したものだった。突然どこからともなく現れたそれに一瞬驚きはしたが、ただのノートだとわかり七篠は恐る恐る顔を近づける。田中がそれを差し出したという事はこれを書いたのも田中本人であるのだが、そのふざけた格好や発言からは信じがたいほどに丁寧に、そして綺麗にノートが取られていた。

「きれい……」

「ふ、ふん、世辞など不要だ。早く″箱庭の観測録″(グリモワール)を記述しろ」

 褒められて嬉しかったらしい。彼の頬が紅潮する。だが田中は彼女からその表情が見えないようそっとマフラーを上に引き、横を向いてしまった。

「うん……ありがとう!」

 田中の中の優しさを見た彼女は少し気を許したのか、口元に緩やかに弧を描いた。渡されたノートに目を写して、その内容を把握する。こんなに字が綺麗で文章をまとめる能力があるのならば日誌も彼に任せればよかったと、読みやすい字で書かれたノートを見ながら彼女は感心した。
 彼の協力のお陰で、更にその下の本日の総まとめの様なものを残すだけとなった。そこにはその日あった何か、面白かったことなどなんでも良いので書け、と教師から言われている。なんでもいいから何か、と言われるのが彼女にとっては一番困る要求である。何かと言われても、些細な事を記入しようとすると終里が早弁をして怒られていたことから、罪木が罰ゲームであんなことやこんなことをさせられていたことまで、このクラスでは様々な事が有り過ぎて選べないのである。たった一行しか書き込むスペースがないというのに、この中から何を特筆すればいいのかわからなかった。
 どうしようかと七篠は思案しながら、借りていたノートを田中に返そうと両手で持ち、彼の目の前に差し出した。ところが彼はそれを受け取る仕草を見せないのである。

「いいのか?」

「いいも何も、これは田中くんのノートでしょ? 終わったから返すね。助かりました、ありがとうっ」

「クッ……! ど、どういたしまして……。だが、貴様にはまだそれが必要なのではないか?」

「必要……? あ、そうか、わたしノート取れてなかったや……あはは。もしかして、借りていいってことかな?」

 自らの失態を思い出し、恥ずかしげに笑う。さきほどまではそんな余裕もなかったであろうに、彼女はいつの間にやら彼と自然に話せるまでになっていた。
 彼は少し目つきが鋭く感情を表に出すのが下手なだけで、その実、中身は思いやりのある優しい人間だったのである。そのことを身に沁みて実感した彼女の心はもう、警戒する必要を感じていなかったのだ。

「クククッ、借りを作らせようと俺様が仕組んだ罠だとも気付かずに……。七篠、哀れな操り人形よ……」

「田中くんって、優しいんだね」

「なッ!? 覇王にそのようなおぞましき言霊を浴びせるというのかッ! おのれッ、ここで封印を解いてやってもいいのだぞ……ッ!?」

「わ、ちょ、待って! 日誌の完成だけはさせて!」

 何かを思いついたらしい彼女は手早く空白の記入欄に何かを書き加えて、すぐさまその冊子を閉じてしまった。よって、田中が今そこに書かれた内容を見ることは叶わなかったのである。
 だが再び日直の番が回ってきた時に、彼はそこに書かれた一言に心を揺らがせる事になる。『田中くんが優しかったです』と綴る彼女に、覇王の凍てついた心が堕ちることになるのは、そう遠くない未来の話なのだった。



●End.

@2013/10/11

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