そっと優しく扉を開けて室内に入ってきたのは、俺様と同族のものである養護教諭だった。この空間は奴の結界にて守られており、俺様の身に眠りし狂気も何故かここに居る時だけは、その高ぶりを見せることはなかった。結界が俗世の瘴気を遮断してくれているためだろう。
そんな結界で守られた安らぎの間で飼い慣らされている、小さき魔獣の様子を見る。フッ、本日も機嫌が良いようだ。来るべき時に備えて、その身に魔力の源である伝説の秘宝を蓄えている。その秘宝は燃え盛るような灼熱の大地にて、太陽光の魔力を燦々と浴びながら育った鮮やかな金色の花から得られたものだ。
「よーしよしよし……。たくさん食べろ。そして鍛え、心身ともに最強の魔獣を目指すがいい」
俺様の声を聞いて、魔獣は更に勢いよく糧をその身に蓄えていく。自由のない狭き檻にて俊敏に動きまわる彼らのマスターは、先ほど入室してきた養護教諭だ。奴は笑みを浮かべながら俺様の様子を窺っている。
せっかくの昼休みなのに、外に出たり教室に戻ったりはしないのかと俺様に問いかけてきた。フン、俺様の身に眠る呪われし強大な力に怯えているのだろう。体よく結界の外へと追いやろうという魂胆が見え見えだ。
「生憎と外界には下等な人間共しか居ないのでな。奴らと空間を共有するつもりなど、更々ない」
困ったように奴はそう、とだけ呟いた。どうやら俺様には敵わぬと悟ったらしい。ククク……賢明な判断だ。
しかし俺様との戯れをまだ続けたいらしく奴はまた口を開くのだった。″あの子″はどうしたのか――と。それを聞いた途端に俺様は息を呑んでしまうのだった。
「……あの子、だと? それは、誰のことを言っている」
――いつも一緒に居た子、七篠……菜々子ちゃんだっけ? 最近一緒にいるところを見ないけれど。ここにもあんまり顔を見せなくなったね。
奴の悪気のない言霊が俺様の胸に打ちこまれる。フッ、どうやら貴様の能力を過小評価していたようだな。この最凶と謳われた田中眼蛇夢に攻撃を浴びせるとは……。
「奴なら、俗世の放つ″侵食する幻惑″(サイコ・コントロール)に屈した」
養護教諭は小首を傾げる。こやつは同族の者でありながらも、俺様の言語についてこれん低級魔族だったな。言語レベルを落としてやらねば理解できんか。
「フッ、奴は人一倍オーラを読み取ることに長けているからな。俗世の瘴気を感知し過ぎて己を保てなくなったのだろう」
ここまで言葉をわかりやすくしてやると、養護教諭はああ、と合点がいったような顔つきで声を漏らした。
――なら、あの子はもう……。
「奴は必ず戻ってくる」
俺様の放った言霊が意外だったのか養護教諭は目を丸くしている。『もう』の先に何を言いたいのか、俺様には手に取る様にわかっていた。奴のような下位の悪魔が持つ単純な脳内構造など、俗世の人間共のものと対して変わらん。
「菜々子は優秀だ。誰よりも俺様に忠実で従順で、それでいてひどく、脆い。故に一度離れさせたまで。いかに俺様という存在が自らに必要であったか……奴が術に打ち勝てた時、そのことの重要さに気付くだろう。これは、奴に対する試練に他ならない」
と同時に、自らに課した物でもあった。下僕の離れた今、俺様もまたその重要性を認識している。呼ばずともいつも隣に付き添われていたからな。当たり前のようにいた存在がいない、となれば違和感を感じざるを得ん。
フッ……奴がそのことに気づくにはさて、何年かかるだろうか。この学術を習得せし箱庭から出る時になろうとも尚、気づかんとなれば……。仕方あるまい、俺様が奴に術を施し覚醒に至る手助けをしてやるとしよう。
――田中君は優しいね。七篠さんを守ろうとしたわけだ。
「ッ!? そのような呪わしき言霊を俺様に浴びせるなッ! 第一、奴を守ろうとした、だと……? ハッ! 見当違いも甚だしいわッ!」
確かに守ってやらねば壊れてしまいそうな程、奴の精神は脆弱であった。俗世の低級な術に惑わされ日に日に衰弱していく奴の顔など見るに堪えんものであった。俺様が話しかけても虚空を見つめ、″精神浮遊″(ミザリィ・フィールド)を展開していることも多くあったな。本当に、ああ……見るに堪えんものだった。
――いつか、戻ってくるといいね。
「……戻ってくるとも。奴ならば、必ず、な」
養護教諭は俺様に向かって意味深に微笑んだ。奴もこのような穏やかな笑みを浮かべていたな……。だが近いうちにまた、それを目にする日がやってくるのだろう。
せいぜい、世界の終焉までには気づいて欲しいところだ。
@2013/11/13