10000打企画夢 | ナノ

05

 授業が終わり放課後になるや否や飛び出すように校舎を出た彼女は、海岸沿いの道を駆けていた。呼吸が苦しくなるのも構わずに全速力でコンクリートを蹴る。髪の毛がぐしゃぐしゃになるのも構わない、スカートが翻ることも構わない。一心不乱に大きく腕を振って走る女子高校生の姿は、傍から見たら気が狂ったかのように見えるだろう。実際、すれ違う幾人かの他人が彼女に奇異の視線を向けていた。しかしそれを心に留めることなどなかった。こんな行動をしているのには理由が有りその信念に基づいてしていることなのだから、何も恥じる必要などなかったのである。
 今日の授業の内容など頭に入っていない。友人と話したくだらない会話の内容など微塵も覚えていない。一日中彼女の脳内を埋め尽くしていたのは全て彼と、あの魔法の書に描かれていた内容だけだ。朝から今に至るまでそのことしか考えていなかった彼女は落ち着きがなく周囲から訝しげな視線を送られていたのかもしれない。だがそんなことすらもう、彼女にとってはどうでもよかった。
 あの砂浜へ降りる階段がある場所に到着する。足を止めた途端に思い出したかのように息苦しさが込み上げ、むせる様に咳をしながら深く荒い呼吸を繰り返した。喉の奥が乾ききっていることに気付き唾を飲み込む。微かに血の様な味がする。苦しくもどこか清々しい顔をした彼女は呼吸を整えると冷静に、目の前に広がる淡い肌色の砂といつもと変わらず青く静かにそこにある海を見つめた。
 感情に振りまわされて走る事など、いつぶりだろうか。彼女は内から湧きあがる懐かしい感覚に胸を躍らせていた。
 本当はそこにずっと隠れていたのである。だがいつしか奥へ奥へとしまい込まれていった彼女の本心は、日の目を見ることなく暗闇の底で常に小さく燻ることしかできなくなっていた。他人の目に触れることが怖くて、奇異の視線が怖くて、周囲に溶け込めないことを恐れて次第にそれは存在を持つことすら忘れられようとしていた。けれども、それはやはり自分ではない。誰かに身を委ねて考えることを止めたただの道化に成り下がったところで、楽しいはずがないのだ。
 ではそんな大事なことを思い出させてくれたのは一体なんだったのだろうか。それはきっとあの日かけられた夕日の魔法である。
 そしてそれを使った者はおそらく彼なのだろう。この場所に呼び寄せられるかのようにあの日ここに導かれていなければ、自ら思考し行動する事をこの先永遠に諦めていたかもしれない。
 下校が遅くなったことも美しい夕日も影の存在も、全て偶然により仕組まれたことと考えられる。だが彼女には、やはり魔法染みた何かの力がそこに作用しているような気がしてならないのであった。
 敵わないなと彼女は自嘲を含んで嗤う。彼と離れて、彼と話をしなくなって、ここまで生きてきて尚、助けられたのである。
 青く深い海のように彼の心は神秘と混沌に満ちており、探ることは困難だ。けれどもそれに惹かれて一緒にいたこと、遊んだこと、何よりも彼の優しさに救われて安らぎを覚えていたこと。それは確かである。
 それをもし取り戻すことができるとしたら、もしやり直せるというのなら、今しかない。逃げ出す自分とさよならをした彼女はひたすら、さざ波が唄う砂浜を見下ろして、階段の一番上に座って彼が来るのを待つのであった。
 傍らに置いたスクールバッグの中には魔法の書が入っている。言葉が伝わらなくともどんなに不器用であっても、話ができない相手ではないのだ。お守りのように力強い存在のそれが有るというだけで、彼女はどことなく何かに支えられているような心地になっていた。それが彼女の芯を強固なものにさせていたのだろう。不安や恐れをどこかに払い落としてきたような表情をしていた。
 しばらく海を見つめていると、かつん、とまたあの時のように遠くでブーツの音が鳴った。耳に響くような細い音は徐々にここへ近づいてきている。
 状況は昨日と同じだ。違うのは彼女の心境である。期待も不安も希望も絶望も、身勝手な自己満足の未来想像は彼女の中から消えていた。あるのは彼女の強い覚悟だけだ。彼に、今の自分の思いを伝えたいという想い。それだけである。
 前回はとは違い、どこか落ち着いた面持ちでブーツの音が近くに来るのを待つ。今か今かと待ち望むそれが隣で音を終わらせた時、彼女はすぐさま立ち上がり彼の顔を見た。

「……った、田中くん、お久しぶり……ですね。この間は、その、何も話せなくてごめんなさい……」

 どんなに覚悟を決めてたとはいえ、やはり肝心な時に心臓は鼓動を速くしてしまうものなのである。話しかけられても全く動じない赤紫と灰色の瞳に、彼女も負けじと眼を合わせた。そんな2人の間に流れるのは沈黙のみであり、彼が口を開く様子は見て取れない。
 物言わぬ彼に続けて話をすべきかどうか、彼女は迷う。そのうちにまた彼はそれが当然の態度とでも言うかのように階段を降りていき、静かに砂浜へ足跡をつけていくのだった。




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@2013/10/30

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