覚めろ、と願ったところでどうにもならない曖昧な体は、わたしの意思を無視して胸の内をもやもやとさせていきました。黒く澱んだその感情を、あろうことか、いつだって優しく、時には厳しく接してくれた彼にぶつけようとしています。何がその時のわたしを苛々とさせていたのでしょう。積もり積もった何か、なのでしょうか。
わたしには彼の背中しか見えません。表情が見えないのをいいことに、好き勝手彼の思考を想像してしまいます。うるさいメス猫だ、などと煩わしく思っているため敢えて何も答えないのだろうとか、喋らせておけばそのうち黙るだろうとか、彼が思っているのではないかと勝手に想像して、勝手に苛々としてしまいます。
そんなこと、彼が思うはずがないのに。
遂に溜まったもやもやを、彼にぶつけるべく口を開いてしまうのでした。
『ねえ、――ちゃん変だよ? 世界を支配するとか、氷の覇王とか……小学生じゃないんだから、そろそろ現実見ようよ』
彼の動きがぴたりと止まります。わたしの口から出た惨く、酷い最低最悪な言の葉は、彼を傷つけたに違いありません。
とんでもない事を言ってしまったと気付いてわたしは血の気が引いて行くのを感じました。しかし言ってしまったことはもう、取り返しのつかない事実なのです。やり直しなど、利くわけがありません。
彼の全てを否定しました。彼の一番の理解者であったわたしが、一番傍にいてわかっていたつもりでいたわたしが、彼の言動全てを否定したのです。例えそれが一時の気の迷いであったとしても、許される事ではありません。
この先彼が何を言うかは鮮明に覚えています。そこまで見せるのでしょうか、この夢幻は。もうやめてと思うのに目が覚めないのです。残酷ではありますがわたしの放った言葉に対しての罰というのであれば納得がいきます。もう一度、その言葉を受け止める覚悟はできていました。
『菜々子』
彼はわたしに背を向けたまま、わたしの名を呼びます。その声に、その次に語られることは一体何なのだろうかと、わたしではないわたしの胸はどきどきと鼓動を早まらせていました。その時確かだったのは、良い事ではないだろうということだけでした。
『なに? ――ちゃん』
別に何も悪い事は言っていないという口ぶりでわたしは返事をします。自分が発した言葉の重みをまるでわかっていない、愚かな少女がそこに存在していました。
『俺様の真名をもう、口にするな』
拒絶に、拒絶で返されたと感じたわたしは言われた言葉の意味を理解する事ができません。彼に拒絶されたことがなく、本当にどうしたらよいのか、その真意を探る余裕もなくただ、どうして、どうしてわかってくれないのかと怒りの様な悲しみの様な、ぐちゃぐちゃの感情がわたしを襲います。しかしそんな独り善がりな心の内ですら言葉にすることができませんでした。
『……わかった。今度からは″田中くん″って呼ぶようにする、ね』
その日、わたしは彼を拒絶し、彼はわたしを拒絶したのです。喧嘩でもなんでもなく、それで終わりです。それが全てです。
最後まで彼は背を向けたままで、わたしの方を見ることはありませんでした。
ようやく、夢から戻って来られたと彼女は白い壁紙の天井を見つめながら安堵のため息を吐いた。まだ心臓の鼓動が少し速く、脊髄を伝って耳元にその音を響かせている。
しかしここまで耐えきったならば、もう心配はいらない。もう悪夢に魘されることはないと彼女はそう確信していた。何故ならそのあと、彼とは何もないからである。それでも何日かは共にいることを続けてはいたのだが、段々と気まずくなり彼女からは彼に近づかなくなった。彼女は楽しくもない安らぎもない、なんとなくで一緒にいる新しい友人を選んだのである。
しかし関わらないようになってしばらく経ったのち、彼の正当性や動物を愛する精神が周囲にも認められるようになったらしい。彼への奇異な視線や根も葉もない噂話はなくなり、自然と打ち溶けられるようになっていた。
何故、それを信じて待てなかったのだろうか。彼の信頼を裏切ってしまった彼女はひどく後悔せざるを得なかった。かといってあの日にはもう戻れないのである。崩壊してしまった彼との関係にいくら涙したところで、元通りになることなどないのだ。そんなことは彼女が一番よくわかっていた。
結果、彼女はどうすることもできないまま、彼の姿を見かける度に罪悪感で胸を締め付けられることとなったのである。別々の高校に進学してようやくそのことからも解放されたと油断していたのに、神様は彼女の過ちを許してはくれないらしい。だからあの日あの時あの場所で彼の姿を見せ、罪を忘れるなと魔法で導いたのだろう。
実際忘れることなどできていなかった。心のどこかに、記憶の引き出しにはいつだってその存在と思い出が残っており、机やクローゼットの整理をしたときに時折目につく昔懐かしい玩具の類が彼女の胸を苦しくさせていた。いつだってそれらを使う時は、彼が傍にいたのだから。
だるくてしょうがない体を無理矢理に起こしてベッドから起き上がる。充電器に挿したままの携帯を手にとって現在の時刻を確認すると、まだ学校に行く支度をするには早い時間だった。しかし頭は不思議と冷静で、ならば今日学校に行ってからやろうと思っていた課題を済ましてしまおうかと彼女はスクールバッグを漁った。目的の問題集を見つけるとそれを勉強机の上に広げ、机の引き出しから筆記用具を取り出そうとする。
乱雑にあれやこれやと詰め込まれたその中の一番下に、古ぼけたノートがある事に気付く。何だったかと気になって引っ張り出してみれば、それは『じゆうちょう』と書かれた所に二重線が引かれ『まほうの書』とタイトルが訂正されているノートであった。懐かしき彼との思い出の品である。中に何が書いてあるか彼女にはだいたい見当がついていた。どのみち大したことは書かれていないはずだと、なんとなくページを捲ってみる。そこには鉛筆とコンパスで丁寧に書かれた魔法陣もどきとその名前、効果が書かれていた。
(あ、懐かしい……)
ノートの内容は小学生の頃のものである。次のページを開くと汚い字と歪んだ円が現れた。最初のページに書かれていたものとはまるで雰囲気の違う、稚拙さを感じさせる文字が書かれているのである。自分の字だ、と彼女は自嘲するように小さく笑い声を零した。
先ほど見た丁寧な字はその頃から仲の良かった彼の字であり、次に見た稚拙なものは彼女の字。これはその2人によって書かれた手作りの魔法の書である。あの頃、嬉々として自作の魔法陣を作り上げてはよく海岸で遊んでいた。炎も氷も雷も出てくるはずはないのに不思議と夢中になっていた、そんな愉快な幼い頃の思い出の品であった。
(あくま召喚、天使召喚、頭がよくなるまほう……)
彼の書く魔法陣は不思議な能力や空想上の神秘的な生き物を呼び出すものが多かった。それに比べて自分の書いたものはいまいちぱっとしない、センスのない名前のものばかりであった。こういうところで彼はよほど頭が良かったのだろうと思い知らされる。
最後の方のページになると、少し趣向が変わったのだろうか、彼の描いた綺麗な魔法陣に付けられた名前は彼女の字で書かれるようになっていた。おそらく魔法陣を彼が考え、魔法の効果を自分が考えるという共同作業をしていたのだろう。相変わらず名前のセンスは無く『足が速くなるまほう』と書かれている。その次は『じゃんけんにかてるまほう』とどれも小学生らしい願望を詰め込んだものが続いていた。
いつもじゃんけんに勝てなくて、鬼ごっこでは鬼の役をやらされていたのだ。今となってはこんなおまじないが効果を発揮していたとは思えないが、あの頃の彼女はこれを描くことでいつか願いが叶うのではないかと純粋に信じていたのである。それにしても自分の願望ばかり詰め込まれているなと苦笑いしながら次のページを開いた。
(……なかなおりの、まほう?)
そこに書かれていたのは、ハートを模したような魔法陣だった。先ほどのものたちとは思考の違うそれに目を奪われ、下の方に書かれている魔法効果の説明をじっくりと読む。
『けんかしちゃった友だちと、なかなおりしたい時につかうまほうです。』
歪んだ幼い字で書かれた一つ一つの文字が彼女の脳裏に焼きついていく。こんな魔法陣を描いたところで仲直りなんてできるはずがない。しかし、彼はそう思わないのである。魔法も不思議な力もあると信じている彼にとって、ここに書いた魔法陣は本物なのだ。
例えば、今でももしこの自由帳の中身を、彼が覚えているとしたら。
一つ確かめなければいけないことができた。彼は言葉で表現する事を得意としていない。いつも砂浜に描いていると思われる、よくわからない式や魔法陣らしき紋様がもし、もしも、そういう意味を持つものなのだとしたら。
彼女は自身の中で自問自答する。もしもやり直せるならば、やり直したいか。彼という存在を取り戻したいか。確実ではない、どんな未来が待っていようとひとつの希望を信じて行動する覚悟はあるか。答えは決まっていた。
自由帳の最後のページまで軽く目を通した後、それをスクールバッグに詰め込み部屋にかけられた時計で時刻を確認する。まだ少し早いが普段の起床時間とほぼ同じくらいの時刻であった。
しかし普段と違うところがひとつあった。彼女の胸には大きな決意が宿っていたのである。
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@2013/10/25