全てあの日見た夕焼けが悪い。そんな風に何かのせいにしなくてはこの悪夢を乗り切る事ができないように思えた。
彼女は起きぬけに涙を流したかと思うと、すぐさまベッドから抜け出てクローゼットのドアを開けた。銀色のポールにかけられている幾つかの洋服をかきわけ、奥の方へと手を進めていく。ぴたり、と止めた手が触れているのは去年まで足繁く通っていた中学校の制服であった。どうせもう、着ないだろうとクリーニングに出すことすら忘れられたそれは、しわだらけになっている。
この制服を着るためにした努力を思い出す。小学生ながらも塾に通い、休みの日は母や彼と図書館へ行き勉強のためになる本を借りてきたりした。3時のおやつも友達と遊ぶことも忘れて、ひたすら勉学に励んだのである。そしてその結果、見事受験に合格してみせたのだ。だから今ここに、その中学校の制服がある。
何のためにそこまで、と聞かれたならば答えは単純だ。仲の良い友達と一緒のところに行きたかった、離れ離れになるのが嫌だったのだ。あの頃は携帯を持っておらず、連絡手段が家の電話のみという状況であった。そのためお互い別々の学校へ行ってしまえばもう永久に会えないのではないか、ととてつもない不安に駈られていたのである。
今となっては浅はかな進路選択である。結果、中学では勉強に追われて、いつもテストの解答用紙を睨み付けていた覚えしかない。
それでも劣悪で絶望的な彼女の頭脳は、隣で支えてくれる存在によって救われていたのだ。
しかしそんな大事な存在を、それを手放したのは、他の誰でもない。彼女自身であった。
ここ2日連続して彼女が見た夢は、自身の過去であった。真実であり記録であり、決して揺らぐことのない、変えられない事実である。その時感じたことは鮮明に覚えており、今でも、あの小さな手のひらが自分の手を引いてくれるような錯覚に陥る事がある。
だがそんな錯覚すら忘れかけていたというのに、忘れることを許してくれたと思っていたのに、そんな油断を突いて悪夢は彼女を襲った。全てはあの日、夕焼けに導かれて海岸沿いなどを歩いたからだ。そこから見えた黒い影の正体を知ってしまった、あの瞬間からだった。
ならば終わらせてくれるのもまた、あの絵画に溶けるように佇んでいた黒い影なのではないのだろうか。その影に許してもらう事ができたならば、この悪夢の魔法は解けるのではないのだろうか。
だがやはり、確証がない。そもそもその人が自分のことをそれほどまでに気にかけていたのかすら疑問だ。話しかけたところであの時のことを覚えている保証などどこにもない。
それなのに何故だろうか。彼女は海岸の見える歩道に立っており、その人が現れるのを只管待っていた。
昨日と同じ時間に校舎を出てきた。ならばここで少し待っていれば、待ち人は現れるはずである。期待と不安を胸に抱いて彼女は階段の一番上の段に座る。本日も晴天で、波の音は穏やかに彼女の耳に届く。
思えば彼はここに来るのが好きだった。気の流れがどうとか魔法陣の生成に好都合だなどとよくわからない理由でここの場所を好んでいた、と彼女は記憶している。とにかく2人でここによく来たものだった。
それが、いつしか足が遠のいてしまった。それでも彼は一人で黙々とここに通い詰めて、魔法陣や不思議な紋様を描き続けていたのだろうか。その後しばらくしてこの道を通らないようにしていたため、彼がその間どうしていたかは彼女にはわからない。
(ずっと、ここに通ってたのかな……)
いつだって彼は一人を好んで、傍に寄ろうとする者を遠ざけてきた。一番親しかったはずの彼女ですらその仕打ちを受けて傷ついた事がある。その時の彼の言葉にひどく悲しい思いをしたが、それを責めることも拒絶する事もできずに彼女はただ、受け入れたのだった。
(あの時、何か言えていれば違っていたんだろうか)
目を閉じれば今でもあの時の光景と声が蘇ってきそうである。それはとても、恐ろしい。
ゆらゆらと揺れる水面に焦点を合わせ物思いに耽っていると、背後から足音が聞こえてきた。ブーツの踵がコンクリートとぶつかり合う軽い音がする。それが徐々に大きいものになるにつれて、呼吸が無意識的に苦しくなった。この喉の閉塞感は何の感情によるものなのだろう、彼女にはわからない。バッグの持ち手を握る指に力が籠る。
かつん、と彼女の横でブーツの音が鳴った。その先に進もうとする音は鳴らない。再びさざ波の涼しげな音だけが、静寂の中に木霊していた。
隣に、いる。あの黒い影の正体であり彼女に悪夢の魔法をかけた張本人がそこにいて、そして彼女の横に辿り着くと歩みを止めたのだ。だがその方向をすぐに見ることは彼女にはできなかった。風に吹かれてはためく紫色のマフラーが視界の端をちらつく。
今その人がどんな表情をしているのか、どんな気持ちでいるのか、全く予想ができない。少しは自分の事を覚えていてくれているのだろうか、もしかしたら意外とあっさり、昔の様に会話ができるかもしれない。久しぶりの再会に笑顔を見せてくれるかもしれない。けれどもその逆も容易に想像できた。憎しみの宿る瞳で睨みつけられ、怒鳴り散らされるのではないだろうか。顔を見るなり殴られるのではないだろうか。
期待と不安、希望と絶望が彼女の胸を苦しくさせていた。半ばやけくその様に勇気を振り絞り、勢いよく立ち上がって振り向いた。
「……あ」
そこに存在する人物と目を合わせただけであらゆる感情が彼女の内側を駆け巡った。微かに声を漏らす唇はそれ以上の音声を紡ぐことができない。感情の波に全ての思考が呑まれていくのをただ、口を開けて目を見開いて、されるがままに身を委ねることしかできなかったのである。
彼の左右違う瞳の魔力に魅入られたかのように、彼女は体を動かす事もままならないようだった。だがそんな彼女を気にした様子もなく、一言も言葉を発することなく、視線を彼女から外し海の方へ向けるとごく自然的に歩きだすのだった。
その背を追うこともできず、ただ遠のいて小さくなっていく姿を視界で捉え続けることしかできない。地につけている足が全く動こうとせず、まるで自分のものではないかのように感じられた。
浅はかだったと思い知らされる。何の考えもなしに期待だの不安だのを想像しては、結局はどちらも自らの望む結果であったのだ。昔の様に戻れても、拒絶されても、彼女にとっては好都合だったのである。そうすることで過去の曖昧な罪悪感から解放されることができるのだから。
だがそれを見抜いていたかのように、彼は何も言わなければ何もしなかった。許す事も無ければ責めることも無かった。彼の心の内を知る事は叶わなかったのである。それは即ち、拷問以外の何物でもなかった。
彼が彼女に唯一くれたのは、赤の他人を見るかのような冷たい視線ひとつだけだった。
耳障りな声がします。わたしが彼と仲良くする事を嘲るような、ひそひそと囁く声です。普段はそんな事を口にしないあの子も、誰にだって優しいあの子も、どうしてかわたしが彼の名を口にすると皆複雑な、困った顔をするのです。
確かに彼は人と少し違うのかもしれない。変わった格好や発言をしては先生によく注意されています。個性的なその存在は、空気を読まなくては生きていけないと悟った周囲にとってひどく、浮いていたのでしょう。
しかし格好などを注意する先生には正論で言い返すのです。ええ、彼は間違ってなどいません。間違ったことを言ったことなど、ありません。いつだって自分の信じる正義を貫き、間違ったことに正しさの刃を突き立てられる勇気を持っているのです。少し人に対して言葉が不器用なだけで、動物に対してはとても優しいいい子なのです。そして、わたしの大事な、お友達でした。
わたしは彼を尊敬しています。彼の事を慕っているのです。なのに、自分らしさを捨てて周囲に溶け込もうと頑張り、憔悴してゆき愚かにも陰で泣きじゃくる、馬鹿なわたしは、彼の真っ直ぐさに次第についていけなくなるようになりました。
周囲が、こわいのです。空気を読めない愚かな自分がその目に晒されていることが、こわいのです。彼と仲良くすると何故だか奇異の目がで見られました。どうしてあんな子と一緒にいるの、だなんてひどい言葉を吐く薄っぺらい友人もいました。決まって腐れ縁だからなどと誤魔化すわたしは、彼の目にどう映っていたのでしょうか。それすらも気になり、わたしは自分が自分でわからなくなっていました。
それでも、なぜでしょう。彼と2人きりでいるときだけはひどく安心するのです。
時折ごめんねと小さく呟くわたしに、彼は何か答えることはありません。それは悪いと思って言っているのではなく、謝罪を口にすることによってわたしの気持ちが救われた気になる、と。そんな私利私欲に塗れて放たれた言葉なのだという事を、彼は見透かしていたのかもしれません。
彼は、頭もよく器量も良く身体能力も高く、なんでも一人でそつなくこなせました。その能力に何度も助けられた覚えがあります。とても頼りになる存在でした。
ただ、中二病だけはどうしても治りませんでした。それはもう幼い頃からだったのですが、中学生になっても世界を支配するなどと言ってきかないのです。小学校のときは一年生の時から知っているクラスメイトと一緒に6年間を過ごしていたため、彼のそんな発言は日常茶飯事だったのかもしれません。しかし、中学は違います。全ての人が初めて会う初めての人種を簡単に受け入れられはしないのです。そのことを痛感しながらもわたしは、彼といることを諦めきれませんでした。
だから、思い切って彼に提案しようと決めたのです。
『――ちゃん、なんでだろうね。なんかね、わたしこの歳になってもさ、こういうことしてるの、なんだか……変、かなって思うようになっちゃってさ』
わたしの目の前では彼が黙々と砂浜に紋様を描いています。いつもの光景でした。わたしがそれと同じことをしていたのは、もうずっと前の話になります。夢の中のわたしはただ、彼の真剣な魔術の演習を見ているだけです。分厚い本を片手にひたすら手に持った木の棒を動かす彼は、吐き出された言葉に対して何か考えてくれているのでしょうか。
彼が聞いている聞いていないに関わらず、わたしの口は次の言葉を繰り出そうとします。嫌でした。例え夢だとわかっていても、この先に起こる、人生最大最悪のわたしの愚行がもう一度再生されるだなんて、とても耐えられる事ではありません。
それでもこれは夢で、過去で、魔法で、罪に抗うことを許してはくれないのでした。
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@2013/10/22