夏休みの終わりに近づいた頃、クラスメイトの小泉から突然メールが届いた。暑く狭い部屋の中で、片付けても片付けても終わらない宿題と戦いながら唸っていた彼女にとって、開いたメールに書かれていた文面はこれ以上ない思考回復剤となった。
小さな画面に丁寧な文面で書かれている文字が示しているのは、明日みんなで海水浴にいかないかという内容であった。宿題という魔物に精神を削られていた彼女に参加しない理由などない。器用に高速で指を動かし参加するとの意を電波に乗せて送るのだった。
しかしひとつ問題がある。目の前に広がる宿題と言う名の大きな壁のことだ。これを片付けなくては海水浴を楽しむどころではない。いっそ怒られる事を覚悟で投げ出してしまえばそれで済むのかもしれないが、生憎と彼女はそんな事ができないほどに真面目な性格の持ち主であった。一つ溜息を吐いて、また小難しい数字と文字が並ぶ用紙に向き直った。
まだ何か伝える事があったらしい。彼女の携帯は再び主人を呼ぶ音楽を放った。なんだろうとそこに表示された文字を読んでみれば、なるほど、携帯を持たない誰かさんにも声をかけて欲しいとのことであった。
そのことは全然苦ではない。むしろ返って好都合であると、彼女はわからない箇所だらけのプリントの束を見て思った。そして突然それを近くに置いてあったバッグに放り込むと、すぐに立ちあがり出かける準備をするのだった。
お邪魔しますという声と共に勢いよく転がりこんだ部屋は、やはり彼女の部屋と同じく暑さに満ちていた。窓は開けているのだがそこから流れ込む風は生温かく、決して心地いいものではない。中央に置かれたテーブルの前へ座ると、傍らに抱えていたバッグからばさりと音を立てて紙の束を出した。その様子を見て、初めてここの部屋の主である田中が口を開いた。
「突然疾風の如く現れたかと思えば……一体それは、なんだ?」
「えっへへ、な・つ・や・す・み・の、宿題でーす!」
「そんなことは百も承知だ。問題は何故貴様がそれを持って、俺様の領域へと足を踏み入れたのかということにある」
「勉強教えてください!」
「断るッ!」
ならば何故彼女を家の中まで招き入れたのかと問われれば、玄関を開けた時に話があるから中に入れて欲しいと言われたからである。当然、田中は自室に誰かを入れるなどしたくはなかったのだが、それが幼少の頃より仲の良い七篠によるものであったためしつこく頼まれては仕方がない、と折れるより他になかった。
元より暇をしていた身である。話だけならば聞いてやらぬこともないと甘く見ていたのだが、全ては彼女の目論見によるものだったらしい。話どころか手間のかかりそうな、厄介なものが姿を現したのだった。
「ううーんと……どうしても?」
「くッ……! 俺様が貴様の勉学の面倒を見てやらねばならない義理など、存在しないッ!」
田中は一切教えてくれる気が無いようだ。もともと大した期待はしていなかったが、ここまであからさまに拒絶されてしまうと少し、悲しい。
「わかった。無理にとは言わないよ。でもこうでもしないと、明日一緒に海水浴行けないんだもん……」
「海水浴、だと……?」
本題はそれなのである。すっかり宿題が目的のように思われてしまっていたが、小泉から頼まれた伝言が一番大事な用事であった。彼は携帯電話を持っていない。故に彼女に彼への伝達が任されたのである。
そのついでの方が宿題の件であったのだが、そちらも承諾されないとなると辛いものがある。理由を説明してなんとか教えてもらえないものだろうかと、彼女は言葉巧みに彼を諭そうとするのだが、どうにも彼の気は変わってくれないらしい。次第にこんなことをしているよりも早く家へ帰って自分の力で終わらせた方がいいか、と諦めかけてつい投げやりな言葉が彼女の口から零れ落ちた。
「協力してくれたら何でもひとつ、お願い聞くから、どう?」
「ッ!? そうか……ククク……フッ、フハハハハハッ! 菜々子、貴様は今『何でも』と言ったなッ!?」
田中は彼女の放った言の葉に過剰反応を示した。言った本人もこれはまずいのではないか、と思ってしまうほどに、明らかに彼は何かを企んでいるような不敵な笑みを浮かべている。
「えっ!? いや、はい、言いました……けど」
「ふっ、よかろうッ! 望み通り、俺様が直々に勉学を貴様の小さき脳髄に刻みこんでくれるわッ!」
「ど、どういう心境の変化? 嬉しいことは嬉しいけれど」
「貴様が俺様の望みをひとつ、叶えるというのだろう?」
自分から言い出したことだ。今更無理などとは言えない。それにせっかく宿題を終わらせられそうな希望が見えたのに、これを逃してしまえば明日の海水浴は素直に喜べないものになってしまうだろう。小泉が計画してくれた楽しそうなイベントを心から笑えないだなんて、そんな思い出ができてしまうのは嫌だった。彼女は戸惑いながらも縦に首を振る。
「その言霊を放った時点で、貴様の運命は俺様に委ねられることになった」
「あの、あんまり実現不可能なことはやめてね! わたしには財力も不思議な力もないんだからっ」
「ククク……なに、身一つあれば事足りる」
ひどく機嫌の良い彼の笑みはどことなく彼女に不安を感じさせた。第一、ひとつ望みを叶えると言ったところで彼が意見を変えること自体、違和感があった。
普段ならば彼はそんな揺さぶりなど物ともせず、自らの意見を貫くはずなのである。よっぽど何か、恐ろしい計画を企てているのではないのかと想像すると、やはり放った言葉の重要さに後悔するのだった。
兎にも角にも、今更後悔したところで何が変わる訳でもない。勉強を教えてもらおうと乱雑に重ね合わされた用紙の束を手に取る。手始めに苦手分野からやろうかとその教科の用紙を探していると、音もなく田中が隣に座った。
え、と声をあげそうになるが小さく開かれた口から音は漏れることなく、心臓が一つ高鳴っただけに止まった。彼がこんな至近距離に居たことは、今まで共に過ごしてきた日々の中ではこれが初めてである。意図しない時や自然とそうならざるを得ない場合には、こんな状況もあったのかもしれない。だが、これは違う。そんな誰かの意思の関わらない偶発的事象ではない。そこには確かに彼の意思が存在しており、なにかの意図による行動であった。
隣に座る彼を気にしていない素振りをしながら、彼女は用紙をぺらぺらとめくり続ける。だがその瞳は最早用紙に何が書かれているかなどを捉えてはいなかった。そうしていなければ動揺を彼に悟られてしまうため、無意識に動かしてだけの無駄な行為に過ぎなかった。
彼女の頭の中は隣に座る彼への違和感と困惑で破裂しそうである。いつの間にこんなに身長が高くなったのだろう。小さい頃はまだ、隣を歩いたり一緒にお絵描きをしたり、遊ぶ機会も近くにいる機会も多かったが、いつからかその頻度は減少してしまった。趣味が違う事や彼の他人を拒絶する言動にいつからか距離を感じるようになったからかもしれない。
だが一番は、やはりこうして意識してしまうことを避けたかったからではないだろうか。彼は間違いなく異性であり、七篠菜々子という人間もまた純粋な女なのである。密かに抱いているものを悟られたり、認めたくないから避けていたのではないだろうか。彼女の体温は夏のせいだけではなく、内から熱を帯びていく。
「菜々子」
「ふっえ!? はっはははいいい!?」
勝手に余計なことを考えていたせいで、不意にかけられた声に対し異常に驚きテーブルの上に持っていた用紙をばら撒いてしまった。回収しなくてはという動きを遮る様に、大きな手のひらが彼女の小さな手を包み込む。そこでようやく彼女は田中の顔を見上げた。やけに真剣な目つきをしている彼から目が離せなくなり、最早その頭の中では彼に抗う事など考えられなかった。
「たなっ、たなか、く……ん」
「俺様の望みを叶える方が先だろう?」
田中は彼女の手を愛でるようにそっと優しく撫で、また大事なものを慈しむように柔らかに握った。
「貴様が欲しい。菜々子」
「ほっ……ほし……え、えええっ!?」
「身も心も俺様に捧げろ」
「なに、言ってる、のっ……!?」
彼女は大混乱である。今にも沸騰してしまうのではないかというほどに真っ赤になったその顔と、熱がこもり過ぎてまともに動かない思考回路を携えた脳内は、突然の告白に返す言葉を見つけられなかった。
「どうした? 何でもひとつ望みを叶えるという誓約を交わしたはずだが?」
「だ、だって、その、こんなの……」
「卑怯だとでも言うのか? フン、ならば特別に拒否権を与えてやろう。その上で返答しろ」
拒否か、受け入れるか、最終的な判断を一択に強制しないと彼は言う。そこまで言われなくとも彼女の答えは決まっていたが、まるでそれすらも見透かされているようで心底癪であった。彼の余裕に満ちた表情と態度はいつものことである。こんな時でもそれを貫いてしまうところが、どうしようもなく敵わないことを思い知らされ、彼女の心をぎゅうと締め付けるのだ。
普通にわかりましたと答えてしまっては負けたようで悔しい。なんとかして彼に仕返しをしようと、彼女は思い切った行動をするべく田中を挑戦的な目で睨みつけた。
それに対して田中は何も言う事は無い。だが一瞬、顔を真っ赤にした彼女の上目使いに動揺してしまい、その油断が彼女に付け入る隙を与えた。
「……わかってるくせにっ」
「ぐうッ!? きッ、貴様ァッ……なにをッ……!?」
突然七篠に抱きつかれた田中は、予想外の行動に対応する事ができずうろたえる。それどころか彼の顔は見る見るうちに紅潮していくのだった。必死に離れるよう彼女に言うが、その腕はしっかりと彼の体に回されており、言葉だけで引き剥がす事は困難であった。だからといって、力ずくで無理に彼女を退かせようとすれば傷をつけかねない。
最初は抵抗していた彼であったが、自らを落ち着かせるかのように一つ大きく溜息を吐くと、彼女の脇に腕を通し、今度は逆に田中が彼女を抱きしめるのだった。
「田中くん、顔、真っ赤ですよ」
七篠を両腕で抱き寄せているため、マフラーで顔を覆う事ができないのだ。そのため赤くなった顔は彼女に丸見えであった。
かわいらしい、と七篠は彼の耳元でくすくすと笑った。それに対して田中は苦々しそうに顔を歪める。
「だッ、黙れッ……! 戯言を紡ぐしか能のないその口を今すぐ塞いでやろうかッ!?」
「え? どうやっ……んっ!」
彼女の問いに対する答えは、乱暴に押しつけられた彼の唇で返ってきた。初めての彼の唇の感触にどうにかなってしまいそうで、彼の背中に回した彼女の両の手は彼の衣服を強く掴んだ。その行為が彼の衝動に火を点けたのだろう。
「……ふあぁっ!? たにゃかく、ん、んううっ……」
緩く小さく開けられた彼女の唇の間を練って強引に侵入してくるのは、彼の舌だった。最初の口付けだけで気が抜けてしまいそうになった彼女に、それの侵攻を防げるほどの力はなく、ただ吐息に交えて小さく声を漏らすことしかできない。離すまいと彼の手は彼女の後頭部に当てられている。故に後ろに逃れることも叶わないのだ。
「ふ、あ……めっ、だめ、らって……」
もうこれ以上は、と目じりに涙を溜め始めた彼女を見て、ようやく衝動を抑え込めるだけの余裕を取り戻した田中は彼女の唇を解放した。
七篠は火照り、ぐったりとした体を田中の胸に預けて、荒く呼吸する。彼はそんな状態の彼女の背に片手を添え、もう片方の手で優しく頭を撫でてやるのだった。
「田中くんの、ばか……」
「……すまない。少々感情を高ぶらせてしまったようだ」
「もうっ……約束、守ってくれるよね?」
「フン、俺様は誓約を破ることはない。……さて、そろそろ明日の″残暑における思い出作り″(ミッドサマー・ナイトメア)のために、貴様の脆弱な脳を調教してやるとしよう」
「ありがとうっ。……これからもよろしくね、田中くん」
「……よろしくお願いします」
彼女の微笑む顔にまた田中は赤面し、今度こそ、マフラーでその顔を隠した。
この様子では明日、海に行く前に感情に溺れ沈没してしまうのではないだろうかと、七篠は紅潮した顔のまま勉強を教えようとする彼を少し、心配した。しかしうろたえる彼を見るのも面白い。これからは彼のいろんな表情を、特別な位置から見ていくことができるのだ。
明日はどんな彼が見れるのだろうかと楽しみになる。そのためには、と目の前の壁を打ち砕くため気合いを入れ直し、シャープペンシルを握るのだった。
●End.
@2013/10/20