呼吸をしている。体は生きている。だが、半透明の青緑色のガラスケース越しに映る彼は話す事も動く事もしない。オブジェのように在り続けるだけの意思なき肢体だった。
真っ赤に目を腫らした少女は虚ろな瞳で彼を見る。冷たく無機質な床に座り込み、そっとガラスケースの表面に手を乗せた。中は人の体温と同様の温度が保たれているらしい。硬い手触りと36度の温もりが、彼女の手のひらに伝わる全てだった。
絶望の残党と呼ばれる彼らが未来機関によりこのような状態になってから一カ月以上は経っていた。その間、日向創含む幾人かが目を覚ましたり、その彼らがまだ目を覚まさない仲間に呼び掛けをして、意識の帰還に尽力したりといろいろな事があった……と、彼女は未来機関の苗木という男から話を聞いていた。
人類史上最大最悪の事件により、彼女の日常もまた最悪な形で破壊されてしまっていたが、命だけは幸いにも奪われずに済んでいたのである。生き残った人類のために未来機関が作りあげた人工シェルターの中にて暮らしていた彼女だが、突然、その未来機関から呼び出された。ほんの少し前、一昨日の夜の事であった。
苗木と名乗る、機関に所属しているらしい彼は彼女に呼び出して申し訳ないと謝罪したのち、知りたくないが知らなければいけない事実を語ったのであった。
『キミが七篠菜々子さん……なんだね。田中眼蛇夢、という人を知っているかな?』
その一言は彼女の瞳に涙を溢れさせた。彼の口にした人物の名は、彼女にとって忘れられない、想い慕う人の名前だったからである。どうしてその名前をと問い詰める七篠に対して苗木が語る事実は、彼女には到底受け入れがたいものだった。
絶望の残党としてプログラムにかけられ、そして計画が失敗し、南国の島で意識を取り戻さずに眠った状態で安置されている。彼女の想像出来得る常識と現実とはかけ離れた夢物語の様な内容であったが、苗木が嘘を吐いているとは思えずすぐに信じたのだった。
『彼に会いたい?』
『もちろんです。……けれど、眠ったままなんですよね?』
『うん。お話するためには目を覚ましてもらわなきゃいけない』
『どうすれば……!? どうやったら眼蛇夢くんは目覚めるんですか!?』
『それは……ゴメン。ボクにもわからないんだ。けれど』
キミならできるはずだ、と彼は言った。だから彼女はその言葉に導かれるように彼について行き、そして、次の日には田中眼蛇夢が眠る島へと降り立ったのである。
そこで彼女を待っていたのは見るのも辛い、彼のなれの果ての姿であった。呼びかけてやれと、そこに長らくいるらしい日向創という男に言われるがまま、無我夢中で泣きながら田中の名を呼び続けた。最後には泣き疲れてガラスケースに凭れかかったまま眠ってしまったが、結局彼は目を覚ます事は無かったのである。
やっと会えたのに、と彼女は悲痛な面持ちで彼の顔を見つめる。閉じられた瞼は微動だにしないが、微かに上下の動きを繰り返す胸は確かに彼が生きていることを示しているのだ。諦めるわけにはいかない。だがやはり、ぽつりと彼の名を呟く彼女のか細い声に彼が答えることはないのである。
また泣きそうになり鼻頭を熱くさせる彼女の耳に、足音が響いた。それは徐々に彼女の元へ近づき、背後まで辿り着いたところで歩みを止めた。
「オイ……、テメェが苗木が連れて来たっていう田中の恋人か?」
「……あ、はい……そうです」
背後からかかった声に振り向く気力もなく、鼻声のくぐもった声で答える。恋人、という単語に懐かしさを覚えながら、彼と過ごした日々を脳裏に過ぎらせた。彼と過ごした日々は決して、通常の恋人同士がすることに溢れていたものではなかった。けれどもお互いにお互いを想い合っていたことは確かで、2人の間にはかけがえのない信頼関係が築けていた……と、少なくとも七篠はそう、思っている。
だがその信頼は彼が絶望に魅入られたことにより粉々に砕け散ってしまった。何も言わずに彼は行方を眩ませたのである。裏切りにも等しいその行為は容易に許されることではない。
九頭龍、と名乗るスーツを着込んだ彼は彼女の隣に座った。そして横目で彼女の様子をそっと窺う。
「チッ、一晩中ここで泣いてやがったのかよ。飯も食ってねェみてえだし……。ったく、ほらよ」
「わっ、あ、ありがとうござい、ます……」
彼にぶっきらぼうに手渡されたのはパンとお茶のペットボトルだった。言われてみれば確かに夜通しここに居座っていたのだから、何も口にしていない。初めて気がついたかのようにそれを見た彼女のお腹が鳴った。
「テメェが倒れたらコイツが心配すんだろ。食えや」
「……はいっ!」
泣きながら食べるパンの味はよくわからなかったが、そんな彼女の隣で九頭龍はここにいる仲間、希望ヶ峰学園でクラスメイトであった彼らになにがあったのか、詳しい事をぽつりぽつりと話してくれたのだった。
彼もまた、恋人の目覚めを待っているのだという。彼に教えてもらったその人のガラスケースの前へ行くと、そこには端麗な顔立ちをした女性が田中と同じく死んだように眠っていた。
綺麗な方ですね、と七篠は言う。だろう、と彼は辛そうに答えた。どんなに綺麗な姿かたちを携えようとも、話す事は叶わない。そんな未だ目覚めぬ仲間たちがここには何人も眠っている。
彼は七篠よりも彼らと過ごしていた時間が長い分、おそらくその悲しみを彼女の何倍も持っているだろう。だがそんな胸中を露わにすることなく振舞い、更には七篠に気を遣う余裕まで持ち合わせている。なんて強いのだろう、と彼女は感心するのだった。
「触ってみるか?」
「そんなこと、できるんですか!?」
短時間ならば構わない、と彼は中央の制御装置の元へ行くと端末を操作し始めた。ものの何分もしないうちに、ピッという電子音が七篠の耳に届いた。九頭龍は田中のガラスケースの前に移動し彼女を呼ぶと、青緑に淡く光る蓋に手をかけて開けたのである。
「眼蛇夢くん……!」
そこに現れたのは曇った硝子越しに見るものではない、彼女が知っている、彼のありのままの姿だった。少し大人びた顔立ちと痩せた体にまたじわりと目頭を熱くさせる。触れていいという九頭龍の言葉に促されるように、彼の頬に触れた。想像していたものよりずっと温かく、彼が人である事を、生きているという事を教えてくれる温度が手のひらから彼女の体へと伝う。
「生きてるんですね。やっぱり、ここにちゃんと、眼蛇夢くんはいるんですね……」
「ああ。ソイツは確かに、生きてるぜ。ペコも、な」
蓋を閉めなければならない時間になればアラームが鳴るため、その時間に蓋を閉め直せばあとは好きにしていい、と彼はここから去って行った。せっかく触れ合っての再開を果たす事ができたのだ。気を遣ってくれたのだろう。彼の厚意に感謝して、彼女は田中の右手を自らの両手で包み込むように優しく握った。
「眼蛇夢くん、聞こえる? 菜々子だよ。あなたがいつも魔術師の素質がないと罵倒してた、メス猫ですよー……」
返事は無い。だが彼女は語りかけ続ける。いろいろな事を、彼がいない間どれ程心配したことか、どれ程寂しかったか、シェルターの中での生活の事やその間大変だった事、そしてここに自分がどんな想いで来たのかという事を、返事のない彼に只管話して聞かせるのだった。
どんなに彼女が熱弁しようとも彼が彼女に返すのはか細い呼吸音と体温だけである。合わせた手のひらは握り返してくれる事はない。映画のように、ドラマのように、現実にはそう簡単に、奇跡が現れたりしないのだ。いつから流していたのかわからない涙でぐしゃぐしゃになった顔は、嗚咽が混じろうとも彼に話す事を止めなかった。
やがて九頭龍の言っていたアラームが鳴った。蓋を閉めなければならない時間である。彼の頭上に取りつけられたデジタルの画面に03:00という表示が出た。おそらく3分以内に蓋を閉めろ、という事なのだろう。下ひと桁めが電子音と共に数字を刻み始めた。
「……もう、時間なんだね」
彼女は自分の身の丈よりも大きな蓋を引き摺るように手前へ寄せる。途中でその行為をやめてしまいたいくらいに、彼の手のひらの温もりが名残惜しかったが、そんなことをすれば彼を永遠に眠らせてしまう事に繋がりかねない。一時の感情に突き動かされては何もかもを失ってしまうやもしれないのだ。
最後に少しだけと、僅かに隙間を開けてそこからもう一度彼の手を握った。
「さすが、氷の覇王。あなたがいないだけでわたし、凍えるくらい寂しいよ。だから……早くこの術を解きに戻ってきてよね」
それだけ言い残して蓋を閉める。また彼はガラスケースに密閉された空間で、目覚めの時を待ち続けるのである。眉根一つ動かさない、指先すら反応してくれないその肢体にはどこにも希望は存在していない。だがそれでも彼女はまたね、と安らかに息をする彼がいる晶壁の向こう側へ声をかけて、その場を去るのだった。
●End.
@2013/10/13