● 07
霧切との一件があってからというもの、頭にインプットされてしまった言葉がななしのを悩ませていた。田中が自分に惚れている、だなんて想像したこともなかったのだ。
百歩譲って、出会って最初の頃にはそんなこともあるのかもと甘い夢を見ていたのかもしれない。けれどそれは彼に『下僕』扱いされるようになってから捨てた可能性だった。その位置から動かない関係でもいいと、進展やら何やら全部放り投げても彼といる時間は充実していたのに今更想われていただのと気付かされても、彼女の脳内の半分以上を占める感情は。
「困る……困るよぉぉぉ……」
クッションを抱え込みながら狭いベットの上で転がる。髪の毛やら着ている服やらが無茶苦茶になるのもお構いなしに、一人悶々とした気持ちを抱え込んで荒れていた。
あれよあれよと言わない間にも時は流れてしまって、明日が田中と一緒の高校に通う最後の日である。霧切と会った日から既に4日が経っており、その間彼女は田中とまともに会話をしていなかった。してはいるのだが、どうにもいつものように受け答えができず、ひたすら田中と目を合わせないようにして、ぎこちなく話題を振ることしかできない。彼の顔を見るたびに霧切の言葉がよみがえり、赤面してしまうのだ。
田中も田中で、何かを焦っているのか普段よりも積極的に話しかけてくる。あまりに饒舌に動く彼の口から放たれる言葉は、ただでさえ理解し難いものであるのに、続けざまに浴びせられては今のななしのが理解できるわけがない。曖昧に答える彼女との会話は全くかみ合わなくなってしまっていた。
そんな状態がもう4日も続いてしまえば、明日をどう接すればいいのか益々わからなくなってくる。別れを惜しんで泣くべきだろうか、田中はなにも言わないのだろうか、自分は一体何をどうしたいのだろうか。一層のこと、何もなく穏やかに終わってしまうのもいいのかもしれない。
考えても考えてもどうすることもできず、そのうち自分の情けなさに泣き、眠りについてしまうのだった。
いざ当日となってみれば、いつもより割と少ない口数と、ちぐはぐな会話と行動とで過ごした学校が終わり、結局何事もないまま田中と一緒に帰路についてしまうことになった。ぎくしゃくとした2人の視線は絡み合う事はなく、少し前までのあの和やかな雰囲気はまるでなかった。
それでも歩みを止めることができない。もうすぐななしのの家の前に着いてしまうのに、何か言わなければ今日でこの2人の時間も終わってしまうのに、彼女の頭の中には何一つ彼にかけるべき単語が浮かんでこない。
「……ななこ」
「なっ、なんでしょうか!?」
急に話しかけられたせいで裏声のような奇妙な高い声が出る。この頃は田中が話しかける度にこの調子であった。恥ずかしくてななしのは頬を赤くさせるのだが、彼は別段気にした風もなく話を続ける。
「最近の貴様は呪術にでもかかったかの様に支離滅裂な奇行を繰り返していたが、何かあったのか」
心配してくれているようだが言えるわけもない。『わたしに惚れてるの?』なんて直接的に聞いて田中が正直に答えるとも思えず、話が拗れることは明白だった。
「何もないよ。田中くんこそ変だよ? 明日から希望ヶ峰学園に通うのに浮かれてるとか?」
「フン、俺様は至って平静だ。一体どんな猛者共が待ち受けているのか……。この身に宿りし魔力は体内で打ち震えているがな」
「そうだよね、楽しみだよね。あんなすごいところに入学するんだもん」
所詮、凡人と超高校級の彼とは住む世界が違うのだ。そのことも彼女の行動を縛る鎖の一つであることに違いなかった。
霧切がああ言ったとはいえ、それはあくまでななしのの話を聞いた上での推測に過ぎない。実際に彼との対話をしているななしの自身は、明確に惚れられているという意思を感じられないのである。そのために期待や不安やその他諸々の感情が入り乱れるのだ。しかし何よりも彼女を悩ませているのは、彼女自身にあることに気づけていない。それさえ分かればどう行動すべきかも自ずと見えてくるのに、どうしてもそれを無意識に避けてしまうのだ。
会話を続けているうちにななしのの家の前に着いてしまった。明日から2人で歩くことはない。希望ヶ峰学園はファザール商業高校と逆の方向に位置するのだから。
「あのね、田中くん」
「なんだ」
「えっと……明日から別々の登校になっちゃうね」
「……ああ」
「希望ヶ峰に行っても、元気でね」
「フッ……戯言をぬかすな。そっくりそのまま貴様に返してやろう」
「ありがとう。四天王たちも元気でね」
田中のマフラーの中からひょっこり顔を出すハムスターたちに軽く手を振る。それぞれがななしのの言葉に答えるように可愛らしく鳴いた。
「貴様は賢い下僕だ。世界が隔絶しようともその事実は変わらん」
「はいはいっ。わたしはずーっと田中くんの下僕だよ。……じゃあね」
「……ではな」
最後は笑ってお別れしようと彼女は決めていた。精一杯の笑顔のまま去っていく田中の背中を見つめる。彼が振り返ることはない。
結局何も言えなかった。後悔がない、と言えば嘘になってしまうが、綺麗に終われたと思う。もし言えたところで自分は何を言ったのだろう、彼に伝えたいことがあったのだろうか。わからないが、やっぱりきっと何かが変わったのではないだろうかと彼女は離れていく彼の背を見つめながら思考を巡らす。
(あ……行ってしまう)
呼びとめたいと思って声を出そうと息を吸う。言葉を放つため吐息を漏らすが、途端に溢れてくるのは言葉ではなく涙だった。
滲んでいく視界の向こうには遠ざかる彼の背中があるのに、彼女はこんな時ですら迷ってしまったのである。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で家の中に逃げるように駈け込む。学生鞄など玄関に放り投げて一目散に自分の部屋へ走った。部屋に入るなりポケットから携帯を取り出すと八つ当たりの様にベッドの上に投げ込む。そして最後にその上、携帯の乗ったベッド上に勢いよく倒れ込むと、堰を切った様に泣きじゃくるのだった。うつ伏せのまま枕に顔を押し付けるが、流れる雫は止まらない。
(最後は笑顔で、なんて、強がったことしなきゃよかった)
本当はこんなにも、泣き虫で弱くて正直になるのが怖いただの臆病者なのに、なんて滑稽だろう。後悔がないなんて、綺麗に終われただなんて嘘っぱちだった。一言呼び止める勇気すら持てないような脆弱な人間なのである。
だが、それを認めて泣いたところで結果は変わりはしない。残ったのは一つの別れと心を絞めつける様な後悔だけだった。
●つづく。
@2013/09/15
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