● 02
逸る気持ちを抑えつけながら、ななしのはコピー機の本体の蓋を開けて、冷静に中を見た。なんだ、トナーを交換すればいいだけじゃないか。たったこれだけでコピー機がおかしい、とパニックになったように自分に頼ってきた教師に苛立ちを覚えた。しかし頼まれたことは最後までやり遂げなければと、責任感の強い彼女は放り投げて行くことはしなかった。印刷室の棚から新しいトナーを取り出して交換する。教師が頼んでいったコピーの残りを印刷し、指定された教室へ運んでしまえば頼まれごとは終わりだ。
ずっしりと重い紙の束を両手で抱え持つ。急いでいるのだが、この重さで走っては誰かにぶつかりそうになっても簡単に避けられないだろう。
壁に掛けられた時計を見る。昼休みというのはどうしてこうも短く感じるのだろう。50分もある、と感じていたそれはあと40分程度しか残っていない。ぐう、とお腹から鳴き声が漏れたあたりで、彼女は印刷室を出た。
教師からの頼みごとを終えてぱたぱたと裏庭へ駆ける。辿り着いたそこで待っていたのは、ぐったりとした面持ちでベンチに座っている田中だった。
「うっわあああ、田中くんしっかりしてええ!」
慌てて駆け寄ると彼の膝の上に弁当箱が乗っていることがわかった。すべて理解したななしのは、自分がここに来るのが遅くなったことで、手遅れな状況になってしまったことに焦る。
「ぐ……。俺様ともあろうものが……、たかがこれしきの、瘴気に、負けるはずが……っく!」
「負けてるよ! もういっぱいいっぱいなの見え見えだから!」
白目を向きながらしゃべりだす彼の手にななしのがお茶のペットボトルを持たせた。すると彼はすぐさまそれを口に入れ飲み込む。ボトルから口を離した瞬間、死に際の淵から帰って来たかのように深く息を吐いた。
「ハァッ……ハァッ……。む、ななこか」
「遅くなってごめんね。大丈夫? その、わたしが来ないと思って……」
視線を落とす。その先にあるのは田中の膝の上に乗っている弁当箱だ。中身は既に田中の腹の中らしく空である。
「フッ……フハハハハハハ!! 魔界の餓鬼すらをも寄せ付けぬ、覇王のみ食す事を許された供物を平らげただけだ。なあに、たまには俗世のもの以外を体内に取り込まねば、俺様の力が弱体化してしまうからな。下僕の貴様が捧げるものに比べ、少々刺激が強かっただけだ」
「白目向いてたけど」
「゛研ぎ澄まされし五感゛(トランス)を発動していたのだが、それがどうした?」
母親の料理がマズイ、というのは給食が支給されない高校生活において致命的だ。彼の母親がそうである。購買で買うという選択肢もあるが、田中は生徒が密集するそこを苦手としていた。何より、息子を想い丹精込めて作られるお弁当を、母は嬉々として手渡すのだ。持って行かないと泣き崩れる彼女の行為を断れるほど、彼は非情な人間ではない。
打開策として、小食だと偽り弁当の量を減らす事。事情を知っているななしのが自分の弁当と彼の弁当とを半分こする事。このふたつの事項を実行することで、なんとか田中の生命は保たれていた。不思議なことにななしのは田中が言うほどマズくないと思っている。ゆえに辛い時には丸ごと交換する事もあった。
しかし今日はななしのが教師に頼まれごとをされていたため、昼食の場所に来るのが遅くなった。なにかあって来られないのだと判断した田中は決死の覚悟で小さな悪魔と戦うことを決断したのである。
「して、何故すぐに駆けつけなかったのだ? 貴様は俺の下僕だろう。何より優先して主のもとへ急ぐのが当然ではないか」
「ちょっと先生に雑用頼まれちゃって。もうそれがねえ……聞いてくれるかな?」
「愚者の戯れ言を聞くのもまた一興。いいだろう」
自分の弁当を広げつつななしのはしゃべりだす。聞いているのかいないのか、話に夢中になる彼女の弁当を田中は自然な手つきでつまみ食いした。その場では気づいていながらもさして何も思わなかったが、おかげでお腹に入れる量が減ってしまったわけだ。当然午後の授業で物足りなさが影響してしまうだろう。
田中が彼女の怒りをまともに食らったのは、放課後のことである。
●つづく。
@2013/08/31
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