夢小説 | ナノ


呪いに魅入られて


 すっかり帰りが遅くなってしまった。田中は夕焼けの橙に照らされながら希望ヶ峰学園の廊下を歩いていた。これから3階にある自分の学年の教室に荷物を取りに行くのである。それからでなければ帰路につくことができない。
 飼育委員としての彼が月の初めにやる仕事といえば、飼育小屋の徹底的な掃除であった。普段からほぼ毎日まめに掃除をしてはいたが、簡単に、で済ませていた。そのため月に一度は必ず隅から隅まで綺麗にするような習慣を心がけていたのだった。今日がその日であり、彼がこの夕闇迫る時間帯に校内にいる理由であった。
 教室に着いてドアを開く。夕日が射し込んできらきらと輝く、眩い光景が目の前に広がっていた。彼は思わず目を細める。静かなその空間には誰もいない。それもそうだ。この時間までここに残っているクラスメイトはよっぽど暇を持て余しているか、用事がある者だけだ。今日は彼のクラスにそんな人物はいなかった。皆一様に忙しく慌ただしく教室を去って行っていたはずである。
 自分の席から教科書やノートを取り出し、鞄に詰め込む。少々重くはなるが妥協して中身を置いて行くことはしない。クラスメイトの幾人かは面倒と、全教科分置いて行く者もいたが、彼は几帳面な性格であったため必ず持ち帰るようにしているのであった。
 それにしても黄昏時というものは何故か不思議な雰囲気を持つものだ、と彼はふと窓の外を見やった。そこからは希望ヶ峰学園の門と広大な敷地が一望できる。大勢の生徒を抱え持つここにしては珍しく、彼の目に写る範囲には人っ子一人いない。これから下校する予備学科の生徒などがいてもいいだろうに、一人の姿すらないのだ。それがより一層、不気味な雰囲気を醸し出していた。実はこの空間はいつの間にか異次元へと繋がっており、自分がそこへ迷い込んでしまったのではないのか。そう錯覚してしまうほどに静かなのである。だが現実にそんなことはあり得るはずもなく、彼は薄く笑うと窓から視線を外した。
 忘れ物がないか机の中を確認する。問題ない、空っぽだった。支度も整え終えたことだしさて帰ろう、と彼が視線を上げた時である。
 鈍い音を立てて教室の扉が開いた。先ほどまで足音一つ聞こえなかったというのに、一体何者だろうか。とっさに構えるが、怯えた様子でゆっくりと正体を見せるその人物を見て、田中はすぐに警戒を解いた。

「……フン、菜々子か。どうした? 奴らと共に下校したのではなかったのか?」

 そっと忍び足で入室する彼女は確か、澪田たちとどこかに行くと喜び勇んで一番に教室を出て行ったはずの田中の恋人だった。美味しいパスタ屋さんを見つけたと言う澪田の言葉に釣られて、超高校級のグルメである七篠は早く早くと彼女を急かしていた。とても興味を惹かれたのだろう、待ちきれないとばかりに七篠のお腹は空腹の鳴き声を上げていたのである。
 その彼女がどうして今此処に来たのだろうか。また明日、と別れの言葉をも交わしていただけに疑問を持たざるを得なかった。

「ううん。用事を思い出して澪田ちゃん達とは途中で別れたんだ。眼蛇夢くんは飼育小屋のお掃除してたの? お疲れ様だね」

 そう言って彼女は田中に近づく。じわじわとにじり寄る様に、不自然さに気づかれないよう自然を装った様に。
 彼は彼女の様子がおかしいことにすぐ気づいた。正確には違和感を感じ取ったのである。具体的に何が、とは言えないが満面の笑みで歩み寄ってくる彼女は、まるで獲物を見つけた狼の様に悦びに瞳を輝かせていたのだった。
 何だろう、このままではいけないと悪寒が彼の背を走る。身の危機を本能が感じ取ったのだろう、彼は彼女に気づかれないようゆっくりと後退った。しかし彼女は尚も距離を詰めてくる。逃げ出したい衝動に駆られるが背後には窓しかない。そこから飛び降りるなどいくら身体の力の高い彼でも無理な話である。
 しかし彼女は所詮女性である。力で敵わないことは無い。例え七篠菜々子という人物の仮面を被った何者かであっても目の前の人物は女だ。ましてや鍛え上げた自身の体に敵う者など、弐大か終里ぐらいの体格の持ち主だけである。
 そうした油断が彼を襲った。瞬きをした刹那、目の前にいた彼女の姿が消え、代わりに自らの体ががっしりと、強力な力で絞め付けられていたのだった。
 彼は自らの目を疑う。体を拘束する、抗いようのない力を発揮しているのは突然抱きついてきた七篠だったのだ。非力でのろまで弱弱しい存在の彼女にこんなことができるとは到底思えなかったが、実際抵抗できないほどに彼女の腕がぎりぎりと彼の体を絞め付けていたのである。

「ッ!? なッ、菜々子ッ、何を……!?」

 わけのわからない状況とおそろしいほどに強く締め付けてくる痛みに苦い顔をして、彼女の拘束から逃げようともがく。消極的で大人しい彼女から抱きついてくるなど普段ならば喜ばしいことなのだが、この状況では喜ぶことなどできなかった。一体何がどうなっているのか、彼には何一つ理解できない。

「眼蛇夢くん、好き、大好き」

 下を見れば狂ったように嬉しそうににこりと笑い、恍惚に頬を赤らめた七篠が自分を見上げているではないか。されどもその彼女は見たことのない、彼の知らない彼女だった。
 いや、知っていたかもしれない。ここ最近の彼女の様子は変だった。どこが、と問われれば、話しかけても上の空だったり焦点の合わない虚ろな瞳でクラスメイト達を見ていたり。今日のように、用事があると言ってどこかへ行ってしまったと思えばひょっこりと顔を見せたり……と、明らかに不審な行動と表情をすることが増えていた。しかしどうかしたのかと聞けばなんでもない、と彼女は答えるのである。
 それに特別著しい変化を見ることも感じることもなかった。至って今までと変わらずに周囲と仲良くやっていたように見えたのだ。だからまさか、こんな意味のわからない行動をされるなど正に彼の予想の範囲外であった。

「菜々子、……何が、あった……!?」

 狂気に満ちた瞳が彼を見つめている。光のない黒い眼差しが刺さるように冷たい。先ほどから凝視してくるそれは瞬きを一度でもしていただろうか。そこにある少女から人間であることすら感じ取れず、初めて彼女をおぞましい、と感じるのだった。

「何もないよ? 何もないの。ただ、眼蛇夢くんが好きってだけだよ? だから抱きついてるの。眼蛇夢くんもわたしのこと好き……だよね?」

「あ、ああ……」

「良かった。ふふ、ありがと」

 彼女の柔らかな笑みはいつもの愛しいその人のものだった。拘束していた腕の力が緩んでいくと同時に、彼も安堵に警戒を緩ませるのだった。そこでようやく落ち着くことができ、彼女についてゆっくり推察する事ができるようになった。

(一体、今の菜々子の行動は何だったというのだ……!? そしてこの尋常ではない腕力はどこから……? 禍々しさを感じる。よもや悪魔と契約を交わしたのではあるまいな?)

 力は緩んだものの彼女の手は決して彼を離してはくれない。張り付くように彼の胸に顔を埋めているのである。
 不安になるようなことをしてしまったのだろうか、それとも誰かに何かをされたのだろうか。あれやこれやと推察するが、彼女の行動がそれらに繋がっているようにはどうしても思えない。不安や恐怖や悲しみから来る行動にはどうしても見えないのだった。

「くっ!?」

 迂闊だった。彼女の腕が突如として彼の首の後ろに回されたのである。そのまま全体重をかけるかのように彼女は彼の顔を自分の元へと引き寄せる。あっという間もなく、彼女の顔が文字通り目と鼻の先に見えていた。

「菜々子……? 貴様様子が」

「わたしは何も変じゃないよ」

 ぴしゃりと田中の言葉を遮る彼女の瞳がまた、冷徹なものへと戻っていた。黒く黒くどこまでも澱んでいる濁った深淵の球体は、先ほどと同じく真っ直ぐに彼を見つめている。

「気づいたの。自分が本当に眼蛇夢くんのことが好きで好きでたまらなくって、心の底から愛しているんだって。ううん、言葉で言い表せないくらい、貴方のことを想ってるの」

「それは、その……俺様も同意見だがッ……!」

 こんな時にですら彼女の言葉に赤面してしまう。そんな状況ではないはずであるのに、やはり好意を持っている相手の言葉には動揺してしまうのだった。

「可愛い。そんな眼蛇夢くんだからこそ……きっと食べたら美味しいんじゃないかなあって、時々思ってた。食べれば、わたしのお腹の中に入ればずっと一緒に居られるし、一石二鳥ってやつだよね。だけど、そんなことしたら嫌われちゃうかなって思って諦めてたの。……けれど、わたしのこと好きなら許してくれるよね。眼蛇夢くん」

「……どういう、ことだ」

 彼女の言葉に血の気が引いていく。今の発言に可笑しなところは無かっただろうか、確か彼女は自分のことを見て、自分に向けて『美味しいんじゃないかなあ』と、憂いを含んだ表情で呟かなかっただろうか。お腹に入れてずっと一緒などと言ってはいなかっただろうか。

「いただきます」

 田中が彼女の狂気に慄いて腕から逃れようとする前、それよりも早く彼女の唇が彼の首筋に到達していた。瞬間的な出来事で、彼に避ける動作など微塵も許してはくれなかった。
 柔らかな唇は冷たく彼に触れる。開かれたそこから覗く、白く鋭い刃が筋肉質な彼の硬い肌に突き立てられる。どくり、と強烈な痛みが彼を襲った。

「ッがァァッ!?」

 田中の顔が苦痛に歪む。七篠が、彼の肉に歯を突き立てたのだ。深く入り込んだ凶器はその部位を持っていこうとしているかのように、上と下とを噛み合わせようと彼の肌をぎりぎりと締め付けている。燃えるようにそこが熱い、痛い。肉を抉られていく感覚が、彼の神経を掌握する。食い込んだ歯の動きに千切られていく細胞が、悲鳴を上げて彼の痛覚を刺激する。冷たいのは彼女の唇だけだ。噛まれた所から溢れだした血が彼のマフラーをどす黒く染めていく。

「ぐ、ううッ……! し、しっかりしろッ……このッ……馬鹿者めがァッ!」

「んっああうっ!?」

 ぱん、と乾いた音が教室に響いた。田中が渾身の力を振り絞り七篠の頬を叩いた音である。彼女の体が彼から離れ、教室の床に乱暴に投げ出された。

「すまない……! 菜々子、大丈夫、か……?」

 このままでは本当に食べられてしまうと咄嗟に取った行動ではあったが、彼女の身体が痛そうに大きな音を立てて教室の床に転がってしまったのだ。流血の止まらない傷口をマフラーで押さえながら彼女に駆け寄る。なかなか起き上がらない様子にまさか頭を打ったのだろうかと嫌な予感を過ぎらせた。
 しかしそんなことはなく、突然何事も無かったかのように彼女はその身を起こす。何かが解けた様に彼女の瞳は光を取り戻していた。開かれていた瞳孔も元の大きさに戻り、呆けたように何度も瞬きをしては痛みの残る頬を手のひらでさすっている。まるで先ほどまでの出来事など無かったかのように。しかし何もなかったなどあり得ず、その証拠に彼女の小さな唇の周りを田中の血液が濡らしていたのだった。

「菜々子ッ……!」

「眼蛇夢く、ええっ、ど、どうしたのその出血!?」

「フッ……漸く目を覚ましたか。気にするな。この程度……掠り傷だ」

「そんなっ、掠ってるどころの傷じゃないよ!? 早く保健室に行かなきゃ!」

 しかし彼と彼女が思うほどに傷は深くなく、しばらくマフラーで押さえていると出血は止まってくれたのだった。

「それ……わたしがやったんでしょう」

「……フン、隠しても仕方がないことだ。肯定しよう」

「やっぱり……! ごめん、ごめんなさい……ごめんなさいっ!」

 彼女は泣きそうに歪んだ表情を見せたかと思うと、両の手でその表面を覆ってしまった。そしてぽつりぽつりと嗚咽混じりに、ここ数日不可解な記憶の損失があることを語り出したのである。
 今日も、澪田たちとパスタ屋の話をして教室を出たところまでは覚えているのだが、その先どこをどうしてこの教室までやって来たのか、何故田中の首筋に噛みついたのか、記憶が抜け落ちているというのだ。

「わからない、自分がわからないよ……。眼蛇夢くんのこと食べたいとか、思ってないのに。どうしてなの……」

 田中は泣きじゃくる七篠を責めるつもりなどなかった。これまでもこんな重要な場面で彼女が虚偽を述べることはなかった。今回も彼女の言葉は嘘ではないだろうと、彼は彼女を信じることにしたのである。
 しかしだからといって根本的な解決にはならない。彼女の記憶の欠損、自らが起こした出来事を覚えていないなど去年まではなかったはずだ。一体何が起こっているのか、それは田中にも七篠本人にも全く分からない。
 彼はそっと彼女を抱き寄せる。少しでも彼女の不安が無くなればいい、得体の知れない何かから守るように彼は優しく彼女の背中を撫でてやった。

「安心しろ。邪悪なる意志が貴様を飲み込まんとせん時、俺様が常に傍にいて深淵より救いだしてやる」

 七篠は頼りにしているとでも言うかのように、田中の胸に強く顔を押し付けた。
 やはりこの存在はか弱い。先ほどのおそろしく強靭な力を持った者とは似ても似つかない、守らなければならない愛しい少女に違いなかった。
 あれは一体何だったのだろうか。その答えを、敵の意志を、彼は何一つ知らない。彼女の中に潜む狂気と絶望がまた蘇らんことをただただ願うばかりで、この学園に潜む災厄が彼女を蝕んでいることになど、まるで気づけないのだった。



●終わり。


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