夢小説 | ナノ


バッカスは子の刻に眠る


 呑気にテレビを見ながら笑い転げている七篠の部屋で電子音が鳴った。メールを受信したことを告げるものである。しかし現在時刻を確認してみればもう23時になろうとしているところであった。
 こんな夜更けに誰が一体どうしたというのだろう。どうせ迷惑メールの類いかもしれないなと軽い気持ちで開封ボタンを押した。そこには彼女を飲み会に誘う上司の文章が並んでいた。
 それを見ただけでめんどくさいという怠惰な文字が脳裏に浮かんだ彼女は、自然と眉根を寄せてしまう。明日は仕事が休みだと言えど、疲れ切ったこの体がこの時間から行ってアルコールを摂取すれば無事に帰って来れるかどうか定かではない。
 思ったことをそっくりそのまま打つと角が立つため、柔らかく丁寧に適当な理由をつけて文章を作り上げる。そして送信ボタンを押すと何事も無かったかのように携帯の画面を閉じた。これで彼女の平和なひと時は守られた、かに思われた。
 油断したところでまたも鳴り響く電子音に彼女の思考は再び面倒という意識を持つ。彼女が察するに今度は電話の着信である。画面を見れば先ほどメールを送って来た上司の名前が書かれていた。メールできっぱりと断ったため、今度は電話で言いくるめようという魂胆なのだろう。
 当然出たくはないが、このまま無視するわけにもいかないためそれに応答するべく渋々、通話ボタンを押す。

「もしもし。……お疲れ様ですー」

 彼女の口から間の抜けた覇気の無い声が発される。これからもう寝に入るのである、ということをアピールするためであった。
 スピーカーから流れてくる酔っぱらいの呂律の回らない言葉に苛々しながらも適当に相槌を打ち、とにかく行かないという意見を押し通す。どの道何を言っても次の日には全く記憶に残っていないのだ。自分の言葉も相手の言葉も、アルコールに呑まれて綺麗さっぱり消滅する。
 しばらく問答を繰り返していると、彼女の気持ちが変わることはないということをようやく察してくれたらしい。流石に諦めたのかわかった、と受話器の向こうから声が聞こえた。
 これで安心して休める、と彼女が安堵したのも束の間。一緒に飲めないのは残念だが、という言葉が聞こえた。そしてその後には予想外の、とある頼みごとをされてしまうのであった。



 そこそこにお色直しをしてほどほどにお洒落な格好をすると、彼女は夜の街を駆けだした。あまり気温などは考えていなかったため、外の冷たい空気が薄着で出てしまった彼女の肌を襲う。しかしこの程度なら我慢できるだろうと、戻って着替え直すことはしないのだった。
 目的地近くの人通りの少ない飲み屋街に入ると一旦そこで趣味を止める。そして不安げな表情でゆっくりと歩きながら、上司がいるという店を探す。幸いにも彼らは店の外で待機しておりすぐに合流する事ができた。そこに居たのは上司たちだけではなく、よく知ったなじみ深い同期の顔も幾つかある。
 後は頼む、と一言を残して立ち去る彼らの中、その同期の中でも一人だけは動かずにその場に留まっていた。静止できずにふらふらと足を動かす彼に彼女は駆け寄った。

「大丈夫!? 歩ける!?」

「む……七篠、か? きッ……きひゃま、ごときに心配さえる俺しゃまでは……ないい……ぞッ! くッ……!」

 心配して当然である。彼女の知っている田中眼蛇夢という人物の、あらゆるものが崩れた姿が、そこにはあったのだから。
 上司から言われた頼まれごととは、泥酔者が出たから自宅まで送って行ってやってくれというものだった。その言葉に誰が、と彼女が聞いたときに返ってきた答えは耳を疑うもので、それと同時に面倒という感情など吹き飛んでしまうものだった。
 田中が、と。受話器から聞こえる声はそうはっきりと名を口にしていた。彼女はその彼と社内で一番仲が良く、しかしだからといって特に何かある間柄ではない。ほんの僅かに彼女は好意を寄せていたが、それは本人も気にかけるほどのものに成長する事はなかった。
 それを知ってか知らずか上司は、彼女ならば無事に家まで送って行ってくれるだろうと彼のお守を託していった訳だ。彼女は胸のあたりがこそばゆくなるのを堪えながらその頼みを聞き入れ、冷静な対応を心掛けていた。
 彼は少々通常会話に難が見られるが、仕事は誰よりも速く正確にこなし気遣いもできるため、上司の評価は高かった。そのため今まで飲み会に何度か誘われていたのだが、遂に一度くらいはと思って付き合ってしまったのだろう。
 彼も社会人になったばかりの身で興味がそそられていたため気にしていた様子はあった。しかしその結果がこれでは、残念というものである。だが、お酒を飲むなどおそらく初めてだったであろう彼が、よくもあの飲み慣れた上司につき合ったものだと彼女は感心するのだった。

「だいぶ飲ませられたんだね……。うん、わかったから早くおうちに帰ろ?」

「なにを……いうッ! 俺ひゃまはこんにゃとこで撤退などせん……」

 顔を真っ赤にして、焦点の定まっていない瞳で彼女を見る彼は自分が酔っていることや酒に弱いという事実を認めたくはないのだろう。ここで彼女に言われるがまま帰ってしまえばそれを認めたことになる。自分がまだ正気であるかのように彼は荒い呼吸を繰り返しながら必死に言葉を紡ぐ。

「だったらおうちで飲も。自分の部屋だったらいくらぶっ倒れてもなんとかなるだろうから。それに明日は会社休みだし」

「ふっ……ふっはははははっ! よかろおーっ! それもまた一興……貴様に、じごくをみしぇてやるー……!」

「ああっ、そっちは道路! 轢かれちゃうってばっ」

 どの方面に家があるのかと問い、覚束無い足取りの彼を導きながら夜道を歩き出す。目指すは彼の家だ。七篠は彼の服の裾を掴んで引きずるように先を導いていく。

「はッ、放せ……! 俺様の全身を覆う毒がッ」

「わたしね、そういうのを中和する術を持ってるから平気なの」

「なん……だとぉ……!? 貴様がのうりょくしゃだったとは……」

 彼女の安直な嘘にも気づけぬほど酔っているらしい。しかし本人は至って平静であると突っぱねては、次はどこの店に行くのかと問うのだった。何度も七篠が家に帰ると答えているのに、である。そんな状態でも家までの道順は記憶しているようで、彼女がこのままで道が合っているのかと聞けばきちんと答えるのである。不思議なものだ、と彼女は思うのだった。
 良い気分になったその身がアルコールを欲しているのだろう。彼がそんなにまだ飲みたいというのならばと七篠は途中のコンビニに立ち寄り、水と適当に何本かの酒を買っていくことにしたのだった。そんなに心地よいのであれば、その後に襲い来る悪夢も一度思い知った方が彼の為である。




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