夢小説 | ナノ


名前のない春が来る


 目の前に差し出されたものを、受け取るか受け取らざるべきか。七篠は表情を固まらせて迷っていた。厚意に応じるならば当然受け取るべきなのだろう。しかし疑問に思わずにはいられなかったのである。これを渡してくる彼が、どういうつもりなのか。

「ゴン太くん、これって……」

 女子にとって戦いの日である今日という日の意味を理解できない獄原が両手で丁寧に渡してくるのは、可愛らしいラッピングが施されたお菓子の包みだった。
 お昼休み、七篠がご飯を食べ終えてふらふらと学園内の中庭を散歩していたところ、彼に声をかけられた。なんだろうと足を止めて話を聞いてみれば、お菓子を差し出してきたのである。
 どこから仕入れてきたか知らないが、七篠の好きそうなファンシーな絵柄の包装紙の中には、きっと甘くて美味しいものが詰まっていると想像がつく。お菓子が好物である七篠は、特に深く考えもせず受け取ろうと手を伸ばしていた。だが、すんでのところで思い止まり触れずに手を引っ込めたのだった。
 彼女に警戒されたと思った獄原は、焦りの表情を見せた。どう言えば上手く説明できるのか、苦しそうに顔を歪めて、必死に考えているようである。

「あの……変なものじゃないんだよ! えっと、朝、七篠さんはゴン太にチョコをくれたでしょ? 貰ってばかりだと紳士じゃないから、ゴン太、七篠さんにお礼しなきゃと思って買ってきたんだ」

 それを聞いた七篠は、これが学園の購買部に売っていたものだと気づく。今は昼だ。朝のお礼をこんなに早く返すことができるのは、そこで買うしかない。しかしあそこのお菓子は超高校級の生徒が利用するだけあって、高価なものばかりだったと七篠は記憶していた。
 彼はそれを、わざわざ買ってきてくれたということである。一度は食べてみたいと七篠は思っていたが、これを貰ってしまうのには気が引けてしまうのだった。
 まず、ホワイトデーにはほど遠い。お返しを貰うのは早すぎる。次に、七篠にがあげた下手くそな手作りチョコにはあまりに不釣り合いである。手間はかかっているが、おいしさは高級品と比べれば雲泥の差だ。

「気持ちは嬉しいんだけど、わたしはこれ、受け取れないよ……」

「ええっ!? どうして!? 紳士はきちんとお礼を返せなきゃダメなんだ……。貰ってくれないと困るよっ!」

 あまりに必死な彼の様子を見て、貰っても困るよと言い返してからかいたくなった。彼の礼儀を重んじるこんな姿勢が、七篠はいじらしくて好きなのだった。紳士らしさとはかけ離れている為、もちろん本人にそれを言ったら否定するか困惑するかだろう。どちらにしろ悩んでしまう彼を見るのも面白そうだったが、喉の奥にしまいこんでおくことにするのだった。
 それよりも大事なことがある。お返しを受け取るわけにはいかない理由を説明しなければならないのだ。

「普通はそうだろうけど、わたしがゴン太くんにチョコをあげたのはね、今日がバレンタインだからなの。だからお返しはいらないんだよ?」

「ばれん……た……いん? 誰かの名前じゃないよね?」

 しかし誠に残念なことに、獄原はそもそもバレンタインという言葉すら知らなかったらしい。当然、七篠のくれたチョコの意味すら微塵もわかっていなかった。
 今朝、彼にチョコをあげた時、七篠はこれまでにないほど緊張していた。何せ本命だったからである。義理だの友チョコだの照れ隠しは一切言わず、真っ向から勝負したのだが、受けとる本人は普通に喜んで受け取りお礼を述べてくれただけだった。これは脈なしということだろうと七篠はしばらく落ち込んでいた。
 しかし、この状況になって少しだけ救われているようである。獄原の無知に苦笑いを隠せないようだが、彼女の表情にはどこか安堵の様子も窺えるのだった。
 それにしても、彼は七篠が何の事を言っているのか全くわからない様子である。10年も山にいたなら人間の文化についていくのは大変というものだろうが、これだけ世間が騒がしく催している行事なのに、誰か教えてくれる人はいなかったのだろうか。
 七篠はクラスメイトの顔を思い浮かべた。一瞬で納得する。誰も教えてくれなさそう、というよりも誰も興味が無さそうだった。幾人か思い当たる節はあるものの、人前で騒ぎ立ててバレンタインを祝うような人はいない。隠れてひっそり渡すタイプの為、獄原が疑問に思って誰かに聞く事がなかったのも頷ける。
 自分達が当たり前に祝ってきた祭事は、彼にとって未知の世界なのだということを七篠は改めて思い知る。バレンタインくらいなら知っているだろうと、少し甘く考えていたことを申し訳なく思った。

「バレンタインっていうのはね」

「う、うん」

「女の子が……あ」

 説明すれば、わかってもらえる。朝に渡した努力の結晶が無駄にならずに済む。そう思って得意気に話始めたのも束の間。
 そこから先、七篠は何も言えなくなった。口を開いたまま止まって、顔を真っ赤にしてしまうのだった。

「えっ、どうしたの? 顔赤いけど、熱でもあるの?」

「うううそんな王道な心配してくれるのは嬉しいけど、いたって健康です……」

 バレンタインの説明をする、ということはどういうことになるのか。それは七篠が獄原にチョコをあげた理由を、自ら事細かに説明することと同一だ。年頃の女の子には余りにも残酷な仕打ちである。そこから全てを言わなくてはいけないのかと想像すると、羞恥で溶けてしまいそうだった。

「でも……具合が悪いならゴン太が保健室まで運ぶよ? こう見えても力はあるんだ。それに七篠さんは軽そうだから遠慮しないで任せて!」

「遠慮してるわけじゃなくって、本当に元気だから! ……気持ちだけありがたくいただいておきますっ」

 獄原に運んでもらえる、というのもいいかもしれない。一瞬でもそう思ってしまった七篠はつくづく彼に惚れてしまっているのだなと自覚する。

「それで、ばれんたいんの話だけど、教えてもらってる途中だったよね」

「ば、ばれんたいん……バレンタインはねっ」

 こんな時、王馬ならきっと上手いこと嘘をついて話題を逸らすことができるのだろう。息をするように嘘をつく彼を時々煩わしいと思うことがあったが、今だけは素直に羨ましいと七篠は思った。
 真面目な彼女は頭の柔軟さが足りないのである。王馬に言わせればきっとそんな評価をされてしまうことだろう。応用を利かせて、なんとか彼に察してもらえるように大事な部分は隠しつつ説明をしたかったが、彼女には無理な話だった。

「……お世話になってる大好きなお友だちに、チョコを送る日なんだよ」

 悩んだ末に、自分の気持ちを隠しながら彼にバレンタインを教えることにした。手作りしたチョコの意味が無残にも砕け散るような思いだったが、状況が状況なだけにもう今年は諦めた方が良さそうである。

「じゃあ、七篠さんにはなおさらこれを受け取ってもらわないと困るよ! ゴン太、七篠さんにはすごくお世話になってるし、大好きだもん!」

「そう、そうだよね……わかった。受け取るね。ありがとう」

 例え特別な大好きでなくとも、言われただけで今年は充分だった。いや、本音はそうではなかったのだろう。自分にこれでいいと言い聞かせながら、七篠は差し出されたお菓子を受け取り生温かい眼差しでじっと包装紙を見る。結局、受けとることになってしまった。賑やかな配色とデザインはこの良き日を祝っているようだった。あくまで、これは彼からの厚意だ。そこには純粋な彼の優しさが詰まっているだけで、悪意は一切ないのである。
 自然と、乾いた可笑しさが込み上げてきて軽く笑い声を漏らす。獄原に聞こえないくらいの呼気程度の音は、空気に溶けて消えていった。一体自分は何をしているのだろうか。今日という日の為にレシピを探して、練習までした。上手くいったことに浮かれて、本番で幾つか失敗をしてしまったが、挫けずにやり直してようやく完成させた。それなのに、想いは伝わらなかったのだ。努力とは何なのだろうかと虚しい気持ちが風になって、七篠の胸の真ん中を通り過ぎて行った。
 人生が終わったかのような光のない瞳をしている七篠の様子に獄原は気づいていないようだった。そして彼女の脳内で渦巻く悲しみなどお構いなしに、口を開く。

「あとね、ゴン太のことももらって欲しいんだ!」

 不意打ちだった。心ここに在らずな状態だった七篠は急に現実に引き戻される。獄原は七篠の虚無に空いた胸に響く、驚きの言葉を繰り出してきたのだ。

「……え? 何、何をもらって欲しいって言ったの?」

 あまりにも突拍子もない申し出に聞き間違いではなかったかと七篠疑いの眼差しを向ける。もしかして王馬に何か吹き込まれたのだろうか、それともまた紳士の勉強で変なものから知識を得てきたのだろうか。しかし獄原の顔を見れば、雑じり気のない真剣な顔をしているのだった。

「あれ、ちょっと間違えたかな……。あっ、だったら! えっとね、七篠さんのこと、ゴン太がもらってもいいかな?」

「もらっ……!? 何のはなし!?」

 七篠の耳に飛び込んでくる言葉の数々は、ドラマなどでよく聞く、恋人の両親を目の前にした時に男が出す台詞に似ていた。お嬢さんをください。そういう意味と捉えられてもおかしくない台詞を彼は恥ずかしげもなく、なぜか本人に伝えているのである。

「ゴン太、よくわからないんだけど、結構前から七篠さんの事が頭から離れなくて……。だっていっぱい遊んでくれるし、とっても優しいからね。それで、最近すごく七篠さんが欲しいなって思うようになっちゃったんだ」

「欲し……い……?」

「うん。それでね、七篠さんからもらったチョコ嬉しくてすぐ食べたんだ。すごくおいしくて、もっと七篠さんのこと欲しくなっちゃって……。だからちゃんとお返ししたら、七篠さんにくださいって伝えたいなって思ってたんだよ。でも、七篠さんは物じゃないから、だったらゴン太をもらってくれないかなって思ったんだ」

「ちょっと待って、ゴン太くんも物じゃないよね!?」

「七篠さんがもらってくれるなら、物になってもいいかな……。あ、でもそうなると紳士になれないよね……! うーん、どうしたらいいんだろう?」

 悩みに悩んだ結果、彼はきっとこの答えに辿り着いたのだ。けれども言ってみておかしな所に気づいて、また悩み始めてしまった。頭が悪いと自分で言う程の彼が、どう表現したらいいのか必死に考えて伝えてくれた言葉は、確かに七篠の心に届いていた。
 貰ったお菓子の箱を掴む手が、震えている。彼の気持ちを受け止めたことで、七篠に生まれた感情が行き場を失っているのだ。汗ばんでくる指先が包装紙に皺を付けていく。指がこんなに熱を持っていたら中身が溶けてしまうのではないかと思い、七篠は箱を抱きかかえた。
 頭は冷静だったが、再び紅潮しだした顔を見られたら様子がおかしいとすぐにまた心配されてしまうことだろう。幸いにも真顔で考えこんでいる獄原は、まだ七篠の顔色に気づいていないようだった。今のうちだと、彼女は手の平で少しだけ自らの顔を仰いで温度を下げようとする。そんなことをしても全く効果が無い事に本人も気づいていたが、何か動かしていなければ落ち着かなかったのだ。
 これは、おそらく両想いということなのだろう。嬉しかった。体中を巡る血の音が耳元でうるさく鳴っている。この形容しがたい衝動を今すぐに彼に伝えたかった。抱きついて、同じ想いを抱えていた事を表したかった。
 けれども、まず、彼はその感情の名を知らないのだ。こうだよ、と言って簡単に理解できるものでもない。人間に備わった幸せになる為の複雑な本能を教える事は、特別賢いとは言えない頭の七篠にとって難しい話である。

「……ゴン太くん、恋って知ってる?」

「鯉? 池にいる赤いお魚さんだよね? ゴン太、お魚は詳しくないんだ……ごめんね」

「ううん。いいんだよ」

 やはり彼の中にその知識は無かった。それでも七篠は構わない。解らないというのならば、最初は分かりやすい方法をとればいいのである。彼のやり方に倣うのが一番間違いなく、伝える事が出来るはずだ。
 彼女の顔に差した赤は冷めることなく燃え続けていた。できるだけ獄原に顔を見られないように、お菓子の箱に顔を埋めながら七篠は小さな口を開く。

「わた、わたしもね。ゴン太くんから貰ったお菓子食べたら、ゴン太くんの事欲しくなっちゃうかも……。でも、ゴン太くんが物になったら紳士になれないから、その時はわたしを貰ってくれる……かな?」

「本当っ!? もちろんだよ……! ゴン太、精一杯七篠さんのこと大事にするから、待ってるねっ!」

 獄原の満面の笑みに、七篠の心臓は爆発しそうになる。それが飛び出してしまわないよう、押さえるかのように箱をきつく抱きかかえた。大事な大事な、彼から貰ったきっかけである。絶対に手放したくなかった。
 一度は諦めた今年のバレンタインだったが、彼女は見事に望み通りの結果を生み出すことに成功したのである。せめてホワイトデーまでには、この感情の名前を説明できるようになりたいと、新たな目標もできた。
 心に芽生えたものの正体を知った時、彼がどんな反応をしてくれるのか。そんな些細な未来を想像するのも楽しいから、人間はこの感情を手放せないのだろう。それがいつかもっと大きなものに変わる日にも彼と居られればいいと、七篠はまだ冷めない熱が残る微笑みを、彼に向けるのだった。



●終わり。


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